【製本記】 野ばら 01 | 枯れた花の残り香を
岩波文庫版『小川未明童話集』の改装を終え、次は何にしようかとあれこれ探しているときに、この本を見つけた。童心社の『野ばら』は、多々ある小川未明の童話集の中でも特徴的だ。未明のロマンティシズム時代の8編を収録し、茂田井武が挿絵をつけている。正方形に近い判型の上製本で、本文の組み方からして、小学校高学年くらいを読者に想定しているだろうか。
例によって、本を解体するところからはじめる。表紙を剥がし、背の寒冷紗を剥がす。無線綴じの糊を骨へらの先でカリカリとこそげ落としながら、さらに本文を一枚ずつ剥がしていく。
本文を解体したら、今度は極薄の和紙でノドをつないで折丁にする。こういった下ごしらえ的な工程ほど時間がかかる。しかし、この本は96ページ、すなわち6折の薄い本なので、気負う間もなく作業を終えた。
未明の短編童話は3000字前後のものが多く、だからこそ、大きな文字でゆったり組んでも96ページに8編が収まってしまう。この本の表題作である「野ばら」はとりわけ短いほうで、ほんの2500字程度。原稿用紙なら6枚強、文庫本なら5ページほど(もちろん文字組によるのだけど)の文字数だ。
けれど、その2500字が表す世界は、究極まで削ぎ落とされているからこそ多弁で、余白までもが多くを語る。
短編「野ばら」の主人公は、二人の兵士だ。一人は大きな国の老兵士で、もう一人はその隣にある小さな国の青年兵士。人里から遠く離れた僻地で、二人はそれぞれの側の国境を守っている。
当初は牽制し合っていたものの、互いのほかには人もなく、頭上では春の太陽が照り輝き、野ばらが茂るばかり。二人は次第に打ち解けて、将棋を指す仲になった。兵士といえど、二人とも善良な人間だった。
ところが、大きな国と小さな国の間で戦争がはじまってしまう。老兵士が青年兵士にいう。「私の首を持ってゆけば、あなたは出世できる」と。しかし、青年兵士は「どうして私とあなたとが敵どうしでしょう」といって戦地へ向かう。国境にひとり残った老兵士は、青年兵士の身を案じた。
しばらくして、老兵士のところに終戦の知らせが届く。小さな国の兵士はみな殺されたという。では、あの青年も死んだのだろうか。そんなことを思いながらまどろむ老兵士の前に、死んだはずの青年兵士が現れた。青年兵士は黙礼して野ばらのにおいをかぐと、去っていった。やがて野ばらは枯れた。
この話を読み終えるたび、枯れたはずの野ばらの残り香を求めてしばし目を閉じる。戦争は、穏やかに暮らす善良な人々とはかけ離れたところで起きる。にもかかわらず、彼らを否応なく巻き込み、その生活も、愛情も、関係も、それからその土台にある自然も、何もかもを踏みにじる。枯れてしまった野ばらは、そうやって踏みにじられたものの象徴だろうか。水と光さえあれば咲きつづける花も、根こそぎ枯らしてしまえば二度とよみがえらない。
この「野ばら」が発表されたのは、大正9年(1920年)のことだ。この年の春に株価が暴落し、戦後恐慌が人々の暮らしを圧迫した。国際連盟が発足する一方で、日本はシベリア出兵を進めた。暗雲立ち込める世に対し、未明は「野ばら」によって戦争反対の立場をきっぱりと表明したのだ。では、未明が終生にわたってその立場を貫いたかというと……実は、そうじゃない。
昭和12年(1937年)の日中戦争あたりから、未明童話は戦争肯定の色を帯びてきたといわれている。そのころの作品をたくさん読んだわけではないので軽々にはいえないのだが、戦争を美化したり、子どもたちを戦地へと駆り立てるような、いわゆる戦意高揚のための話も書いたという。わたしは「野ばら」を読んだあとにこのことを知ったので、衝撃だった。
そして、衝撃を受けた自分にまた衝撃を受け、わたしは未明に何を期待していたんだろうかと考えた。あんなふうに戦争の虚しさを語った人物には、永遠の聖人君子であってほしかったんだろうか。あるいは、人はどこまでも時代に束縛されて生きているということが恐ろしかったのかもしれない。大きなうねりの中でよからぬ異変があったとき、しかもそれがそのときどきで巧妙に塗装されていたとき、わたしはちゃんと違和感をもつことができるだろうか。そして、その違和感を表明できるだろうか。自信があるとは、とてもいえない。
ちなみに、未明が戦争肯定に傾いていた昭和15年(1940年)に書かれた童話集『夜の進軍喇叭』について、国際子ども図書館は「この童話集は、戦場ではなく銃後で助け合いながら生きる人々を書いた作品が大半である。その姿勢は戦争協力ともとられた」という解説をつけている。未明の真意など、誰にもわかりっこない。わたしたちはただ、自分の生きる時代に照らして、読みたいように読むだけだ。
さて、6つの折丁の背を突きそろえて手締めプレスに挟み、ノコギリで「目引き」をする。糸でかがるための穴をあける工程だ。美しい物語は、美しくかがりたい。薄い本だからこそ、急がずに、ゆっくりと刃を入れよう。
●『野ばら — 小川未明童話集』小川未明/茂田井武 画(童心社)
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