【製本記】 小川未明童話集 06 | つなぎめの物語
型染めしたブッククロスが乾いたら、ついに最終工程、表紙貼りだ。板紙をくるみ、溝を入れ、見返しを貼る。見返しには、ハニカム構造のような模様がプリントされたロクタ紙(ネパール産の手漉き紙)を選んだ。和紙のように表情に富み、和紙よりも素朴だ。
表紙の型染めの「石」には、そこそこ満足している。しかし、日を置いてあらためて眺めると、石ではなく「水たまり」にも見えてくる。黒々とした口をぽっかり開けた水たまりの向こうには、何があるのだろう。
未明童話には訓話的なものや風刺的なものもあるが、とりわけ幻想的な物語に惹かれる。分類でいえば「ファンタジー」になるのだが、このことばのもつキラキラしたニュアンスとは相容れない。未明のファンタジーには妙な現実感があり、人間の体臭や生活の匂いがする。
未明のファンタジーでは、二つの世界がもつれているのだと思う。現在と過去、生と死、光と影、あなたとわたし、人と人ならざるものなど、わたしたちが整理し、区別し、世界を理解する手がかりとしている「対の概念」が交錯し、交信し、混濁しているのだ。
ならば、表紙の水たまりは交錯、交信、混濁の結節点なのかもしれない。つまり、こことは違う、けれどもつながっている世界への小窓なんじゃないだろうか。自分が染めた図案に「かもしれない」とか「じゃないだろうか」とかいうのもおかしな話だが、水たまりに見えた瞬間から「染めたもの」ではなく「そこにあるもの」という感じがしている。
未明の代表作の一つとされる小編「金の輪」は、あっちの世界とこっちの世界のつなぎめを描いた作品の筆頭だろう。あっちの世界へ近づいた少年、太郎をめぐる物語は、神々しさに満ちている。
太郎は、長いこと病気で臥していた。ようやく床からでられるようになり、まだ少し残雪のある外を歩く。すると、一人の少年が二つの「金の輪」をまわしながらやってきた。彼は太郎に微笑みかけると、去っていった。
明くる日、太郎は再び金の輪をまわす少年を見る。知らない子なのに、なぜか親しい友のような気がする。昨日と同じく、懐かしそうに微笑んでいる。
その晩、太郎は母に少年の話をするが、信じてもらえない。しかし、今度は夢で少年に会い、金の輪を一つ分けてもらう。ふたりは金の輪をまわしてどこまでも走り、いつしか夕焼けの中へ……。翌日から熱をだした太郎は、数日後に7歳で亡くなる。
この身も蓋もない結末に、はじめて読んだときはぽかんとした。金の輪とは何か、少年は誰か、太郎はなぜ死んだのか、よくわからなかった。だけど、折々に読み返すうち、わたしなりに受け止められるようになってきた。
おそらく太郎が亡くなることは、誰にもどうにもできないことだったのだろう。太郎は死に近づき、この世とあの世の結節点にいた。だからこそ、少年と金の輪が見えた。少年は、仏さまか、はたまた死の天使か。そして少年のまわす金の輪とは、仏の光輪か、それとも輪廻の象徴か。
物語の中で、二つの世界は境界なくつながっている。太郎は少年に懐かしさや親しみを覚えており、二人が金の輪をまわしながら夕焼けに溶け込んでいくシーンには恍惚感さえ漂う。大人である母には理解できなくとも、幼い太郎にとって、この瞬間、生と死は一緒くたなのだ。
未明の死生観を垣間見るこの物語は、未明が30代半ばのときに書かれた。未明は数年前に長男を6歳で亡くし、前年には長女を12歳で亡くしている。
ところで、こうして「金の輪」について思いをめぐらせていると、谷川俊太郎さんと松本大洋さんによる絵本『かないくん』が頭に浮かぶ。同じクラスの隣の席の「かないくん」の死からはじまる物語だ。この絵本の副読本で、谷川さんは「私はいつの間にか、死を新たな世界への入り口と考えるようになっています」と書いている。「金の輪」の太郎もきっと、新たな世界へ入っていったのに違いない。
絵本『かないくん』では「いきていれば みんなともだちだけど、しぬとひとりぼっち」という文とともに、ひとり鉄棒をするかないくんの姿がぽつんとある。かないくんがくるっと回転したその軌道に「輪」を見つけてハッとした……けれど、それはさすがに深読みしすぎというものだろう。
さて、溝を入れ、プレスして、製本工程が完了した。表紙の染めは、石だか水たまりだか、もうわたしにもよくわからないが、見立て遊びは充分に楽しんだ。ついでにも一つ遊んでみよう。もしこれが石ならば、見返しのハニカム模様は峠の道の石畳、というところか。あるいはこれが水たまりなら、向こうの世界への入り口にかかる蜘蛛の巣かもしれない。
●『かないくん』谷川俊太郎 作/松本大洋 絵(ほぼ日刊イトイ新聞)
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?