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【製本記】 野ばら 02 | 本づくりとコンプレックス

目引きした『野ばら』を糸でかがる。今回は「フレンチ・ソーイング」という手法でかがることにした。やや簡易的ではあるものの、この本は背が平らな「角背(かくぜ)」にするつもりで、角背ならばわざわざ「本かがり」にすることもないか、と。何かと道具が入り用な本かがりに比べ、針と糸さえあればできるフレンチ・ソーイングは、準備も片づけも格段に早い。

ただ、糸を絡ませながら針を運ぶフレンチ・ソーイングの場合、糸を引くときの力をうまく加減しないと、背が締まりすぎてしまうことがある。もちろん、かがりの糸はしっかり引かねばならない。でも、強く引けばいいというものでもなく、本の形を歪めてしまっては具合が悪い。ところが、わたしはどうやら、糸を強めに引いてしまう傾向にあるようだ。


力の加減は、製本をするうえでとても重要だ。糸を引くときのみならず、丸みだしも、耳だしも、それからプレス機の締め具合も、どれもこれも手の感覚ひとつででコントロールする。よって、わたしがうまく力をコントロールできないのは、かがりに限ったことじゃない。丸みだしで背をつぶしたこと、一度ならず。プレス機に挟むときも、ハンドルをまわしたあとに「うーん、もう少しかな」とさらなる圧をかけ、無様な跡をつけてしまう。

ついつい糸を強めに引いたり、背を強めに叩いたり、プレス機を強めに締めてしまうわたしは、そもそも力が強いのだろうか。いや、そんな、まさか! 周囲の誰もが認めるインドア派で、ここ数十年間、運動とは無縁の生活を送り、年相応の筋力すらまるでない。そんなわたしに限って……。

じゃあ、どうしてまた、ないはずの力をふりしぼってまで余計なことをしてしまうのか。もちろん、わたしの製本技術が未熟であることが第一の理由だけれど、冷静に考えてみると、もう一つ心あたりがある。それは、「力」というものに対するコンプレックスだ。


わたしはとても小さな子どもだった。「小さい」は「幼い」という意味じゃなく、わたしは「物理的に」小さかったのだ。小学校の6年間、背の順はずーっといちばん前。6年生の3学期に、担任の先生が「今年、このクラスでいちばん背が伸びたのは綾ちゃんです!」と発表したときには、クラスのみんなが失笑した。なぜなら、いちばん伸びたはずのわたしが、まだいちばん前にいたから。どんだけちっこかったんだよ、って話なわけで。

しかも、縦に小さいだけでなく横にも小さくて、クラスでいちばんのやせっぽちでもあった。台風の日など、みんながきゃっきゃと楽しそうに風に吹かれて通学路を歩いていくのを横目に、わたしはひとり身を硬くして、ひたすら「風よ、やんでくれ」と念じていた。気を抜くと、ふわっと体が持ち上がってしまうのだ。高学年になるまで、台風のたび、死の恐怖に震えていた。

そのくらい小さかったわたしは、力もまた弱かった。稀に小さくても運動神経抜群の猛者がいるけれど、残念ながらそうではなく、小さいうえに鈍くさく、みんなが簡単にできることがさっぱりできなかった。運動能力テストの日は朝から憂鬱で、握力測定は針が微かに振れるだけ。登り棒は地上30センチで降下、雲梯は2、3本で落下。ソフトボール投げに至っては、測定ラインの手前までしか投げられなかった。何をやっても人並以下だった。

そんなわけで、みんながひょいとやってのけることにも、わたしは全身全霊の力を込めねばならなかった。給食室から鍋を運ぶときも、掃除の前に机と椅子を移動するときも、ひとりでぷるぷるしていた。


あれから何十年もの時が流れた。中学にあがってからも背が伸びつづけたわたしは、気がつけば標準サイズの大人になっていた。それでもなお、もしかしたら、わたしはいまだにあの呪縛から逃れられずにいるのではないだろうか。「何をするにも渾身の力を込めなければ、自分はみんなと同じようにできない」— このことが、無意識領域にまで刷り込まれているのだ。

ちょっと大袈裟だが、わたしにとって製本の力加減をマスターすることは、コンプレックスを克服することに近いのかもしれない。いやいや、単に技術の問題でしょ、というご指摘、ごもっとも。それでもやっぱり、力の加減をコントロールしようとするとき、忘れていたはずの心の古傷がちくっとするのは事実だ。製本を通して、こんな体験するとは思ってもみなかった。


ところで、幼い頃、わたしは「一寸法師」のような話が大きらいだった。小さき者が大きな者をやっつける話は多々あるが、それを鵜呑みにするほど無垢ではなかったし、「んなわけ、あるかーい」とつっこむほどにはませていた。「小さいけど勇敢」とか「小さいのに無敵」とかいう方向に持っていこうとするところが気に入らなかった。小さいことをを腕力で補うことのできない子はどうなるんだ、という気持ちになった。

だけど、なぜか『長くつ下のピッピ』は好きだった。馬一頭を高々と持ち上げてしまうほど力持ちの9歳児なんて、それこそつっこみどころ満載なのだけど。大人の権威をぺしゃんこにする怪力を持ちながら、ピッピはむしろ、普通の子であるトミーやアニカ、無力なサルのニルソンさんを必要としていた。あの物語では、そういう均衡が繊細に保たれていたように思う。

そう、小さい子は、大きくなりたいわけでも強くなりたいわけでもない。ただ、対等でありたいだけなのだ。

さて、本文をかがり終えた。糸の引き具合はまずまずか。背に生ボンドを塗って「背固め」をしたら、つづいて天地と小口を化粧断ち。さらに背に寒冷紗を貼って背紙を貼れば、本文の完成だ。


●『長くつ下のピッピ』アストリッド・リンドグレーン/イングリッド・ヴァン・ニイマン 絵/菱木晃子 訳(岩波書店)

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