【製本記】 小川未明童話集 03 | 無口な道具が語るとき
和紙でつないだ『小川未明童話集』を糸でかがる。一口に「糸かがり」といってもさまざまあるが、今回は「本かがり」にしよう。麻ひもを支持体にした方法で、ルリユール(工芸製本)でもこのやり方をする。
まず、かがり台に支持体の麻ひもを垂直にぴんと張る。上部の横木に織りひもで固定し、さらにソーイング・キーという金具を使って下部の凹みに固定する。その麻ひもに背をあてるようにして、目引きした本文を置く。
かがりに使うのは、蝋引きした麻糸だ。この本は台数(折丁の数)が多いので、普段よりも細いものを用意した。蜜蝋の上を滑らせて、表面に蝋をまとわせる。これを製本針に通し、針の根もとで留める。
ここまでが糸かがりの下準備だ。かがり台、ソーイング・キー、製本針、麻糸、蜜蝋……糸かがりの工程一つとっても、入り用の道具があれやこれやある。この道具の多様さが手製本の楽しさであり、まどろっこしさでもある。
とはいえ、こうした専用の道具がなくたって本はつくれる。わたしも製本をはじめたばかりの頃は、裁縫針でかがったり、指で糊を塗ったりしていた。日本にルリユールを広めた栃折久美子さんの『手製本を楽しむ』という本には、かがり台の代わりに椅子の脚を使うという斬新なアイデアが紹介されており、なきゃあないで、工夫次第でどうにかなる。
それでも道具をそろえるのは、うまくなりたいからだ。道具に頼っているといわれてしまえばそれまでだが、道具が使い手を引きあげることもある。ましてや手と同化するほど使い込んだ道具は、もはや技術と不可分の存在だ。
わたしはまだ道具と同化する境地には至っていない未熟者だが、ゆっくり、じわじわと、わたしなりに道具と戯れている。
例えば「へら」。よく使う小ぶりな牛骨のへらは、約20年前、イギリスで製本を教えてくれたニックさんからもらったものだ。いま振り返ると、彼の製本は洒脱だった。仰々しい伝統とも堅苦しいセオリーとも距離を置き、それでも昔ながらの本づくりを愛してやまず、紙や革を手の中でひょいひょいと転がすようにしてたちまち本にした。わたしは、そんなニックさんの手を通して製本に魅せられた。あれから何本ものへらを買い足し、折り用、コワフ用などと使い分けているが、ニックさんのへらは用途を越えた一本だ。
それから、本かがりに使う「かがり台」も気に入っている。かがり台としては極めて簡素なものではあるが、コロナ禍になってまもなく手に入れたこの道具は、わたしのささやかな決意表明だ。フリーランスの編集者として自宅で仕事をしているわたしは、コロナ禍でもさほど生活が変わることはなかったものの、それでも「そのうち」とか「いつか」などといって物事を先送りしていると永遠に棚上げになるかもしれないことを悟った。以来、製本のための投資は惜しむまいと心に決め(あくまで身の丈の範囲で……の話だけれど)、このかがり台をイギリスから取り寄せた。
こうして考えてみると、道具というのは無口な伴走者のようだ。こちらが突き放さない限り、黙々と隣を走り、ともに足跡を刻んでくれる。わたしが道具をそろえるのは、うまくなりたいからだけでなく、自分がいまここに至るまでの系譜のようなものを確かめたいからかもしれない。
小川未明の短編に「小さい針の音」というのがある。これは、一度突き放した道具が舞い戻ってくる話だ。主人公は、とある田舎の小学校教師。よれよれの袴をはいた貧しい青年は、誠心誠意子どもたちをかわいがった。しかし彼は、出世を夢みて都会へでることにする。青年を慕う子どもたちは少しずつお金をだしあって、彼への餞別に懐中時計を贈った。
都会へでた青年は懐の時計に励まされながら一生懸命勉強し、むずかしい試験に合格して出世する。すると、いつしか立派な服装に安物の旧式時計を下げているのが憚られるようになり、とうとう懐中時計を手放してしまう。
数年後、重役となった彼は思わぬきっかけであの懐中時計に再会する。そのカチカチと秒を刻む音を聞くうち、子どもたちと過ごしたかつての日々を思いだす。りんごのようなほっぺで「大きくなったら、いい人間になります」といっていた姿がよみがえる。そして、彼はつぶやく。「ああ、おれは、いままでほんとうに、社会のために、どんなことをしておったか?」と。
無口なはずの道具も、稀に口を開いて語りだす。吸い込んだ時間を吐きだすように、消えかけた足跡を炙りだすように。
さて、糸を引きつれて針を運び、本文をかがり終えた。織りひもに結んだ麻ひもを解き、ソーイング・キーを土台から引き抜く。ソーイング・キーが触れ合って、かちゃかちゃと鈴のような音を立てる。このかわいらしい音を聞くと、あぁ、本をつくることは楽しいなと思う。
●『手製本を楽しむ』栃折久美子(大月書店)