フランス革命の概略
フランス革命は18世紀末にフランスで起こった大革命である。長らく、ブルジョワ革命だと目されてきた。だが、この見方は史実に合わず、もはや学術的には通用していない。
フランス革命はフランスの封建制を崩壊させ、近代化をもたらした。ナポレオン戦争によって、甚大な影響がヨーロッパ全体に波及し、全世界に広まっていった。そのため、今日において、世界史の出来事の中でも特に重要視されているものの一つである。
この記事では、その背景や展開をみていく。
フランス革命の背景や原因とは?
革命の背景や原因としては、政治的あるいは文化的なものが指摘されている。より具体的には、アンシャン・レジームという旧来の制度の問題点や、そこでの財政問題、啓蒙思想がしばしば指摘されている。
身分社会という原因
フランス革命はそれまでの伝統的な制度(アンシャン・レジーム)への反発として生じたと考えられてきた。そうだといえる面もある。だが、従来考えられてきたほど、この問題は単純ではない。
まず、フランスのアンシャン・レジームについて確認しよう。これは、王以外に、3つの身分で構成される身分社会である。聖職者という第一身分と、貴族という第二身分、平民の第三身分である。ブルジョワジーは第三身分に属する。聖職者や貴族は免税などの様々な特権を享受したのに対し、平民は特権を得られず、むしろ重税に苦しんだ。
フランス革命は、第三身分の特にブルジョワ階級が特権身分の貴族との勢力争いを繰り広げた結果として生じたものだと考えられがちである。だが、この見方は単純すぎ、不正確である。
というのも、そもそも18世紀、フランスの貴族は多種多様であり、一枚岩ではなかったからである。むしろ、貴族同士が相互に批判し、対立していた。この貴族内部での分裂や対立がフランス革命の一因にすらなっていく。
啓蒙思想という背景
18世紀、フランスではヴォルテールやルソー、モンテスキューらの啓蒙思想が発展した。これらはしばしばアンシャン・レジームを批判し、あるいは敵対的な理論を展開した。この思想が当時の人々の考えに影響を与え、フランス革命の一因となったと考えられている。
ただし、啓蒙思想とフランス革命の因果関係にかんする精密な実証研究はまだ途上にある。
外交にかんする背景
18世紀、フランスの国力は衰退していった。この衰退は、特に七年戦争(1756-63)の後に顕著となる。この戦争でフランスは海外植民地の大半を宿敵イギリスに奪われた。
その後のフランス王権の外交政策がフランス革命の一因となった。たとえば、王妃マリー・アントワネットである。アントワネットはオーストリアのハプスブルク家の出身である。
当時、アントワネットはフランスの国益を犠牲にしてオーストリアのために立ち働いているのではないか、と論じられた。フランスの衰退の一因はマリー・アントワネットの外交政策にあるのではないかと論じられていたのである。これが王権への不満を高めていった。
財政問題という原因
フランス革命の直接的な原因としては、この時期のフランス財政の悪化が知られている。ルイ16世が国王に即位した1774年の時点で、フランスは多額の負債で苦しんでいた。ルイは様々な大臣を用いて、様々な改革を試みた。だが、うまくいかなかった。
しかも、大西洋の向こうでは、1775年から、イギリスの北米植民地が宗主国のイギリスにたいして戦闘を開始した。アメリカ独立革命である。ルイはアメリカ植民地を支援し、独立の達成に貢献した。だが、その莫大な戦費がフランス財政をさらに悪化させることになる。
1787年、事態はついに大きく動いていく。財務総監のカロンヌは財政改善のために、名士会を招集した。特権身分たる貴族たちにも課税しようとしたのである。免税は彼らの伝統的な特権の一つであった。そのため、特権身分は猛反発する。高等法院もまた特権身分に味方した。カロンヌは辞職を余儀なくされる。
1788年、ネッケルがその後任者になる。第三身分との交渉の中で、全国三部会を招集することになる。この三部会が革命の中核となっていく。
フランス革命の展開
国民議会の成立
全国三部会が1789年5月にヴェルサイユ宮殿で開催された。第一身分と第二身分の聖職者と貴族の議員は300人ずつ、第三身分は約600人だった。彼らは合同で討議をすることになる。6月には、三部会が国民議会になる。
この三部会の初期には、議員たちの大半は革命を起こそうというつもりはなかった。主に財政改革を進めるつもりだった。
だが、彼らは次第に国民議会を、それまでに前例のないほど抜本的な変革の場として利用し始めた。主に第三身分の議員たちがヴェルサイユ宮殿近くのテニスコートに集まり、王の大権や特権身分に対抗する意志を示した。いわゆるテニスコートの誓いである。
そこから、彼らは新たな憲法の作成を開始した。この時代、ヨーロッパには成文憲法は存在しなかった。かくして、議員たちは王権への不満や抵抗から革命へと進んでいった。
革命の始まり
1789年7月11日、ルイ16世は悪化していく事態の責任を宰相ネッケルにとらせた。パリ市民はこれで勢いをえた。7月14日、彼らはパリのバスティーユ監獄を襲撃した。ここには、政治犯が投獄されていた。
また、これは王権の武器庫になっていた。パリ市民はその占拠に成功した。かくして、革命が始まった。現代でも、7月14日が革命記念日となっている。
パリ市長だったフレッセルらが市民に殺害された。市民はその頭を切り離し、槍に刺して、市内を凱旋して練り歩いた。このような光景は、革命に賛同的でない人々に、革命や民衆への恐怖や嫌悪感をもたらした。
暴徒化した民衆は大胆に暴れまわった。敵視された人々を実際に処刑したり、あるいは模擬処刑を行い、自分たちが正しいことをアピールした
地方では、農村などでアンシャン・レジームに敵対的な反乱や暴動が起こった。そもそも、当時のフランス人の8割以上が農民だった。革命前夜から、彼らはアンシャン・レジームでの財政負担の重さや、特権身分の特権にたいして、反発を示すようになっていた。
苦しい現状を変えるべく、これらの地方は代表者の議員を三部会に送っていた。三部会が国民議会に変わった後も、議員たちは出身地方との交渉を続け、革命を推進していく。
アンシャン・レジームの解体へ
そのような背景のもと、8月4日、国民議会では画期的な決定がくだされた。アンシャン・レジームでの封建的な特権や領主制が廃止されることになったのだ。その結果、貴族という身分が少なくとも形式的には消滅した。フランスには、もはや貴族は存在しなくなったのである。
領主制は貴族らが地方を領主として治めるという制度である。領主は領地内の農民たちに重い財政負担を強いており、彼らを統治し、彼らの罪を裁いていた。そのような制度が廃止された。ただし、この廃止は実質的にはまだ部分的なものだったが。
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1,フランス革命の流れを通史的に追っていく記事
2,個別テーマに着目した記事