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ニッコロ・マキャヴェッリ: 近世イタリア政治の荒波を乗りきるために

 ニッコロ・マキャヴェッリはイタリアの政治家で理論家(1469 ー1527 )。当時のフィレンツェ共和国で、外交や軍事などの様々な役職をつとめた。古典古代の著作と政治家としての経験をもとに、著作を執筆した。最も有名な著書は、チェーザレ・ボルジアのような人物をモデルとした『君主論』である。イタリア戦争で悲劇的な状態にあるイタリアを救う新たな君主の出現を待望した。この記事では、『ローマ史論』や『フィレンツェ史』についても説明する。



マキャベリ(Niccolo Machiavelli)の生涯


 マキャベリはイタリアのフィレンツェで名門一族のもとに生まれた。だが、マキャベリの父は法学博士であり、一族の中で貧しく、一家は質素な暮らしを送った。マキャベリは幼少期にラテン語や数学を学んだ。

 その後も、古代ギリシャとローマの歴史や文学などの作品に親しんだ。それらの著作の中に、政治家としての指針や経験の種が含まれていたとマキャベリは後年に認めている。

 動乱期のフィレンツェの中で

 この時期、フィレンツェは動乱の中にあった。15世紀後半のフィレンツェは独立国だった。有名なメディチ家が支配を確立し、経済的にも文化的にも繁栄していた。しかし、この繁栄をもたらしたロレンツォ・デ・メディチが1492年に没した。

 1494年、フランス王シャルル8世がナポリ王の正統な後継者を自認して、ナポリ遠征を開始した。イタリア戦争の始まりである。
 フィレンツェはシャルル8世に屈し、メディチ家の支配は弱まった。このタイミングで、修道士サヴォナローラがメディチ家の支配を痛烈に批判した。

 サヴォナローラについて

 同年、メディチ家はフィレンツェ市民によってついにフィレンツェから追放された。サヴォナローラが実権を握り、神権政治を開始した。
 サヴォナローラはそれまでフィレンツェ人が誇っていた文化をも痛烈に批判するなどしたため、多くの支持者を失った。それでも、1498年まで支配を続けるのに成功した。

 マキャベリは彼の説教を聞いた。サヴォナローラが時代に適応しながら民衆を説得しようとしている手腕と雄弁さに感心した。サヴォナローラの共和主義への支持にも共感を覚えていた。

 だが、のちに『君主論』のなかで、マキャヴェリはサヴォナローラが「非武装の預言者」であり、軍隊という権力維持の手段を欠いていた点を批判している。それでも、旧約聖書の偉大な預言者モーゼのような預言者としての威厳をサヴォナローラに認めてもいる。

 1498年、サヴォナローラはローマ教皇アレクサンデル六世に異端かつ偽物の預言者だと断罪され、逮捕された。かくして失脚し、処刑された。


 公職での活躍:軍事と外交


 同年6月、フィレンツェの次の新体制のもとで、マキャヴェリは第2書記局長に任命された。この時期の主な任務は軍事と外交だった。
 軍事では、ソデリーニの後押しのもとで、マキャベリは傭兵に依存してきた従来の体制を変革し、農民などで新たな軍隊を設立した。

 当時は各国が常備軍をもつのは稀な時代であった。戦争では一般的に傭兵が用いられていた。だが、マキャベリは傭兵が信用しがたく、頼りにならないと考えた。そこで新たな軍隊を提案し、1507年にこれが採用されたのである。

 外交では、マキャヴェリはローマ教皇庁や神聖ローマ帝国などのもとに派遣された。外国の情報収集や交渉などを行った。

 チェーザレ・ボルジアとの交流

 その際に、1502年、教皇アレクサンデル6世の息子のチェーザレ・ボルジアらと知り合った。ボルジアは父のためにロマーニャ地方の征服を試みていた。

 マキャヴェリはボルジアとの交渉を行った。様々な交渉術を駆使したが、ボルジアを攻略することは難しかった。ボルジアに何度も出し抜かれたと語っている。

 また、当時のレオナルド・ダ・ヴィンチはボルジアに技師として仕えていた。マキャヴェリはダ・ヴィンチとも会った。

公職からの追放へ

 1509年、フィレンツェは近隣のピサの攻略に成功した。これは15年間もかかる長い戦いだった。マキャヴェリはこれに大きく貢献したとして、大いに称賛された。

 だが、1512年、メディチ家はスペインやローマ教皇庁の支援を受けて、フィレンツェ共和制政府を打倒した。メディチ家が再びフィレンツェで実権を握った。
 そのときの戦いで、マキャヴェリが創設した新たな軍隊はあまり役に立たなかった。マキャヴェリは彼らの臆病さに落胆した。
 1513年、マキャヴェリは陰謀の嫌疑で投獄された。拷問も受けた。政治家としての自尊心を大いに傷つけられた。
 同年、ジョヴァンニ・デ・メディチが教皇レオ10世に即位した際に、マキャヴェリは恩赦を与えられ、釈放された。フィレンツェ近郊の農村に移った。


 著述活動の時期

 マキャベリは再び政治の表舞台に復帰しようと試みた。そのために、代表作として知られる『君主論』を執筆した。これをロレンツォ・デ・ピエロ・デ・メディチに献呈し、メディチ家支配のフィレンツェにおいて職を得ようとした。だが、うまくいかなかった。

『君主論』

 本書は当時のイタリアを救ってくれるような君主を待望して執筆したものである。当時のイタリアはフランス王や神聖ローマ皇帝などの諸侯が権益拡大のために進出し、戦争を引き起こしていた。すなわち、イタリア戦争である。
 マキャヴェリはイタリアが外国諸侯によって蹂躙され、虐げられ、屈辱を強いられていると感じた。

 このような悲劇的ともいえる窮状からイタリアを救う君主の登場をマキャベリは待望した。虐げられたイタリア人に精神と秩序を吹き込むことのできる美徳を持つ指導者を待ち望んだ。
 だが、従来のような君主ではイタリアの現状を打破することができないと考えた。これを可能とするような新たな君主とはどのような者か。それを論じたのが本書である。

 

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『ローマ史論』


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