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エラスムス:北方ルネサンスと宗教改革
デジデリウス・エラスムスはオランダの哲学者(1469ー1536)。主著には『痴愚神礼讃』などがある。北方ルネサンスの主要な学者として知られる。ルネサンスの知見で聖書研究を進め、新しい版の聖書を公刊し、宗教改革にも貢献した。教育論でも知られる。
エラスムス(Desiderius Erasmus)の生涯
エラスムスはオランダのロッテルダムで司祭の私生児として生まれた。幼少期は古典語などを学んだ。
当初は聖職者の道を進んだ。1488年、エラスムスはアウグスティヌス会の修道院に入った。1492年には、司祭に叙任された。
1495年、エラスムスは大学に行くための財政支援の約束をえて、パリに移り、学んだ。そこでは、古代ローマの学芸を研究した。財政支援の約束が果たされなかったので、退学した。
イギリスでのトマス・モアとの交流:聖書研究へ
エラスムスはイギリス貴族の子弟の家庭教師を務めることで生計を立てた。その縁で、1499年、イギリスに旅行した。
その際に、マス・モアの一家などと交流をもった。彼らのもとで、古代ギリシャや聖書の研究へ誘われることになった。
1500年、エラスムスはパリに戻った。古代ギリシア語の勉強を開始して、聖書の研究に打ち込んだ。著述活動も活発に行うようになる。
1504年には、ルーヴァン近郊の修道院でヴァッラの新約聖書注の写本を発見した。翌年、これを公刊した。ヴァッラはイタリア・ルネサンスの人文学者であり、ラテン語改革に邁進した人物だった。エラスムスは人々が聖書を直接読むことを推奨した。
『痴愚神礼賛』
1506年に、エラスムスはイギリスを旅行した。再びトマス・モアの一家を訪ねた。彼の家に滞在中に、1週間ほどで、代表作の『痴愚神礼賛』を書き上げた。
本書は当時のヨーロッパ社会を風刺した本である。痴愚の女神が人々に対し、人間社会のあらゆる場面でいかに自身の力が強力なものであるかを語る。この自画自賛という態度自体がまさに痴愚の象徴である。
より具体的には、エラスムスは当時の権威ある人々を実は愚かな人々として描き出す。痴愚神には、酩酊、無知、自己愛、へつらい、忘却、怠惰、快楽、狂気、放縦、節制の欠如といったしもべがいる。
こういったものがいかに王侯貴族や教会などの「高貴な身分」の者に見られるかをエラスムスは指摘する。
たとえば、王侯貴族の名誉心や、そこにも由来する戦争などはまさに痴愚神やその部下たちに由来する。教会の聖職者たちが口では綺麗事を並べながら実際には金を無心するという面も、まさに痴愚神の影響力の強さを示す。
痴愚神は人類にたいする強大な影響力を誇る。学者や詩人、作家、弁護士、神学者や聖職者、王侯貴族、枢機卿や教皇などもその信奉者である。エラスムスは特に教会批判を展開した。真の信仰は頭(学識)ではなく心からうまれる、という。
反対に、社会で一般的に愚者とみなされている者こそが、実は賢いとされる。キリストもまた自身の愚かさについて語る。古代の哲学もそうだ(無知の知)。キリストはこの世の愚かな人々を好む。
このように、エラスムスは当時の社会の価値を逆転させるような風刺を描いた。
平和の訴え
この頃、イタリア戦争が再燃していた。イタリア戦争は15世紀末に始まった戦争である。フランス国王や神聖ローマ皇帝、教皇やヴェネツィアなどのイタリア諸侯がイタリアで戦った。
このような状況で、エラスムスは平和の構築を望んで『キリスト教君主の教育』や『平和の訴え』を公刊した。後者では非戦論的立場を示した。
この時期、エラスムスはスペイン・ルネサンスの主要人物のルイス・ビーベスとも交流をもった。
新しい版の聖書の公刊
1510年から、エラスムスは再びイギリスにわたり、ケンブリッジ大学で教鞭をとった。この頃には、エラスムスはキリスト教を改革する手段として、新約聖書のラテン語版を大幅に改良することが有効だと考えた。
そのために、聖書の様々なギリシャ語写本を照合し始めた。これは実に大変な作業だった。
1516年、ついにエラスムスは新たな版の新約聖書を公刊した。これはラテン語とギリシャ語の対訳版であり、注釈も付された。これはギリシャ語版の『新約聖書』の最初の印刷本となった。
とはいえ、エラスムスのより中心的な関心はギリシャ語よりもラテン語だった。というのも、当時のほとんどのヨーロッパ人はギリシャ語が読めなかったからである。
エラスムス版のラテン語聖書は広く普及した。さらに、エラスムス自身は1519年、1522年、1526年、1535年にさらなる改訂版を公刊することになる。
このようにして、エラスムスはルネサンスの成果を利用して、宗教改革を準備し促進することにもなる。
エラスムスとルターの宗教改革
1517年、ルターがドイツで宗教改革を開始した。その影響はすぐに周辺のスイスやネーデルラント、フランスにも波及していった。
エラスムスはすでに『痴愚神礼讃』において、旧来のカトリック教会の腐敗を批判していた。よって、改革精神では、ルターと共通するところがあった。
同時代の人たちにも、エラスムスは宗教改革の先駆者とみなされた。「エラスムスが卵を産み、ルターがそれを孵化させた」と言われるほどだった。
バーゼルにて:ツヴィングリ
エラスムス自身が上述の聖書の公刊以降に、異端ではないかと疑われるようになった。その流れで、1521年にスイスのバーゼルに移った。
スイスでは、宗教改革者のツヴィングリと知り合い、交流をもった。ツヴィングリもまた人文主義的な素養をもっていた。そのため、スイスで人文主義が広まっていった。
ルターとの対立
エラスムスはなおも異端ではないかという攻撃を受け続けた。そのため、エラスムスは異端でないことをアピールすべく、ルターへの直接的な批判をしぶしぶ行うことにした。この頃、ルターはすでに皇帝カール5世やローマ教皇庁によって異端だと断罪されていた。
1524年、エラスムスはルター批判のために、『自由意志論』を公刊し、宗教的寛容の姿勢を示した。ルター理論と真っ向対立するつもりはなかった。
だが、ルターは『奴隷意志論』で容赦なく反論した。エラスムスとルターとは神の全知全能と人間の自由の関係などで神学論争を行い、対立するに至った。この対立はしばしば、ルネサンスと宗教改革の対立として捉えられてきた。
ルターは『奴隷意志論』を公刊して、反論した。 ルターはエラスムスと異なり、激しく反論した。そのため、両者の関係は悪化した。
最晩年
その後も、エラスムスは著述を続けた。教会の権威には対立しないという姿勢を示し、上述の聖書の改訂も行っていった。だが、1531年には権威あるパリ大学の新学部から信仰が正統的でないと公に宣言された。1536年に没した。
その後のカトリック教会のトリエント公会議では、エラスムスの著作は禁書目録に加えられることになる。
エラスムスの教育論
エラスムスは教育論に関しても重要性を認知されている。エラスムス自身は数年間、教育に携わった。その後も生涯、教育への関心を抱き続けた。たとえば、『学問の方法について』や『子どもの教育について』などを執筆した。
エラスムスは人間が神にも野獣にも近づくことができるような性質をもつと論じる。人間には自由意思があるので、人間の魂は神の霊に接近することも可能であるが、肉の欲求に流されれば獣のようになることもありうる。人間は本性上、良い方にも悪い方にもなれるよう創られたのだ。
そこで重要となるのが教育である。そのため、教育は知識の習得よりも人格形成を目的とする。
優れた教育は3つの条件を考慮せねばならない。自然と指導そして実践である。自然は各人の自然本性である。指導は教師や親による指導である。実践は自然と適切な指導に基づく実践である。
具体的な教育方法について、エラスムスはまさにルネサンス的だといえる。すなわち、古典の学習を強調する。
教育方法は懲罰などによる強制的な方法ではなく、生徒の自発性を引き出すようなやり方を推奨する。ムチではなくアメである。そのような教育を通して、生徒たちは人間性を獲得する。
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※この記事の内容は基本編です。発展編の記事は以下のページで読むことができます。発展編では、エラスムスによる聖書研究と新版の聖書の編纂、さらに教育論についてより詳しく説明しています。ぜひお試しください。
https://rekishi-to-monogatari.net/
おすすめ参考文献
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河野雄一『エラスムスの思想世界 : 可謬性・規律・改善可能性』知泉書館, 2017
Jill Kraye(ed.), The Cambridge companion to Renaissance humanism, Cambridge University Press, 1996
Eric MacPhail(ed.), A companion to Erasmus, Brill, 2023
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