「概説 静岡県史」第117回のテキストを掲載します。
本や雑誌がたまる一方です。ここ最近、気になる本が多く、ついポチってしまいます。それに伴いカード明細の欄も増えていくことになるわけですが…。早くも年末年始の予定は、積み上がった本を片付けることに決まってしまいました。本当はこの「概説 静岡県史」の原稿も書きたいし、実は夏ごろから書き始めている舞台用の脚本があったり、いろいろあるのですが…。
それでは、「概説 静岡県史」第117回のテキストを掲載します。
第117回:「昭和恐慌下の農民運動」
今回は、「昭和恐慌下の農民運動」というテーマでお話します。
1930年(昭和5年)の秋から、国内の農産物価格が暴落し、農家の生活を直撃します。31年1月27日付けの「静岡民友新聞」によると、静岡県小作官は農村実情報告の中で、「農産物平均価格は平均一、二割をを減じ、同収穫は一、三割減にして、農家収入は二割以上を減じ、茶の収穫減は四割以上、養蚕収入は五割以上にして、右の農家の生活縮小となつて具体的にあらはれている」と述べています。同時に「畑の小作料は従来減免なきを普通としたが、減額の要求をなすものあり、或は支払い延期を求むるものあり、その応諾の如何に拘わらず小作料の納まらないものが大部分あり」と指摘されています。大幅に農産物収入を減少させた小作人にとって、小作料は大変な負担となったのであり、都会に働きに出ていた家族が失業して帰郷したことも、生活に重荷を加える一因となりました。
恐慌期の小作争議は、こうした小作人層の生活危機を背景として起こったもので、統計によると、県内の争議件数は、30年33件、31年35件、32件42件が記録されていますが、大正期の高揚期と比べると、決して多いとは言えません。全国的に見ると、例えば31年の件数は47道府県中32位と、どちらかと言えば少ない府県に属します。争議の形態においても、以前のような村や字ぐるみの大規模な争議は跡を絶ち、少数の地主・小作人間の争議がほとんどでした。
しかし、この時期の争議には、恐慌期特有の深刻な様相が見えます。特に争議が深刻化したのは、切実な生活難を訴え小作料引き下げを要求する小作人に対して、地主は小作料引き下げを拒否しただけでなく、小作地返還を迫るという強圧的な姿勢に出たためです。小作争議の調停に奔走していた小作官は、31年5月28日付けの「静岡民友新聞」で、「最近では……小作料を完納しているに拘わらず、地主の経済が窮迫して金融のため他へ売却するか、小作料値上げのため……(農産物を衰弱させる目的で)松・杉・竹等を無断で植付け、間接的に返還を迫り、又は威脅するものが現れ、頑迷な地主との折衝に苦心するようになつて来た」と述べています。恐慌により地主の経済も窮迫しており、また都会からの失業者の帰農のために耕作希望者に不足しなかったことが、地主が強硬に小作地返還を迫った要因です。このため、小作料は競り上がるような傾向さえ現れたといわれています。生活の窮迫化に追い込まれたうえ、土地を取り上げられる危機に瀕することになった小作人は、自らの生活防衛のためにやむにやまれずに立ち上がざるを得なかったのです。
恐慌期の争議は小作権関係または地主による小作料引き上げを原因とするものが大部分であり、31年では35件中24件、32年では42件中27件がそうしたもので、小作権をめぐる地主・小作人間の激烈な争いが特徴です。当時、小作人組合の結成がされていない地域の小作契約は口約束であったり、小作料の領収書に小作料が明示されない例が多かったと言われています。地主による小作地引き上げを正当化し、小作人を著しく不利な立場に置いたのは、このような不明朗な契約関係であり、争議は従来不透明だった小作権問題を明るみに出したものと言えます。
小作権問題は恐慌後においても引き続き大きな争点でした。静岡県小作官による『最近に於ける小作事情の変遷』には、「土地所有権移動に伴ふ最近の現象」という項目があります。そこには、恐慌期には地主の土地が負債の担保として取り上げられ、その結果、土地の所有権は地主から銀行や金融業者へと移動するという事態が頻繁に起こり、それが「小作人に不安を与へ」、小作権に関する問題を生んだと記されています。
恐慌期からの回復を見た1934年(昭和9年)以降、人絹工業などの繊維工業をはじめ県内の工場は事業を拡張するようになり、都市近郊の農村への大規模工場建設計画が次々と進められていきます。『最近に於ける小作事情の変遷』によると、34年以降の工場等の建設によって農地が壊滅した地域は、浜松市および静岡市郊外の鐘ヶ淵紡績工場敷地、榛原郡吉田村(現在吉田町)の福井人絹会社工場敷地、沼津市および郊外の東京人絹会社工場・東京麻糸会社用地、安倍郡有度村(現在静岡市)のアヤハ靴下製造工場敷地、富士郡富士町(現在富士市)の富士繊維工業会社人絹工場敷地など、全部で41か所ありました。これらの工場・施設を受け入れる側の地元有力者や市町村当局も、会社側に有利な条件を提示するなど、地域振興の立場から工場誘致には大変積極的な姿勢を見せていました。
しかし、農村への工場建設は、工場敷地に指定された農地の耕作者である農民にとっては、生計の糧である農地を奪われるという深刻な問題であり、当事者である農民は、「その敷地となることに反対するも、或は市民の敵なりと罵られ、或は又必ず工場に採用せられて今より有利なる収入を挙げ得べしなど説得せられ、何れも小作人は極めて少額の小作権利金賠償又は涙金の交附を受けてその土地を失ひたる」というような状況に置かれました。農地が工場敷地となった際に、小作権の十分な承認がないまま小作人の主張は退けられ、極めて不利な立場で土地を追われる場合が多かったことがわかります。こうした背景の下で、小作人の小作継続を求める調停申し立てや小作争議が相次いで起こされ、小作権問題がクローズアップされることになりました。
静岡県特有の小作問題として、伊東町(現在伊東市)近郊のミカン園での小作問題があります。その原因は、温泉地としての観光開発に目をつけた都市の資本による土地買収です。開墾後十数年を経過した当地のミカン園は盛果期に至る途上で、観光開発を目的に土地を譲り受けた新地主は、果樹園としての将来的価値を一切視野に入れず、土地から小作人を排除しようと企てました。ミカン園の小作人は耕作地を失うばかりか、将来的収益を考慮して行った投資さえも無にされることに危機感を抱き、小作権の確認や相応額の賠償を求めて訴えを起こしました。しかし、このような小作人の切実な訴えにもかかわらず、調停に至った場合でも、小作権が全面的に認められた小作継続の目的を達成するのはまれで、2、3年後の小作地返還、若干の作離料で折り合うといった場合がほとんどだったと言われています。
1928年(昭和3年)5月、日本農民組合と全日本農民組合の再統一が実現し、全国農民組合が結成されたことは、農民運動発展史の上で大きな画期と言えます。静岡県においては、日本農民組合の組織化を進めていた労農党員の山崎釼二、福島義一らにより、全国農民組合の静岡県連合会結成が図られ、同年12月に事実上成立しました。全国農民組合静岡県連合会は、恐慌期において急速に組織の拡大を図り、県内の農民組合運動が本格的な段階を迎えました。全国農民組合静岡県連合会は全国でも組合員数では新潟・秋田・群馬などに次ぐ組織規模を誇りました。
全国農民組合静岡県連合会が組織を整え、本格的に活動を活発化させたのは29年の四・一六事件後です。大弾圧を免れた全国農民組合静岡県連合会は「本県下に於ける唯一の無産階級的組織」との自負を持ち、積極的に運動を展開しました。30年3月、県連は静岡市で第一回大会を開催します。左翼合法無産政党である労農党支持の動議が可決されるとともに、県連執行委員長に青島今次、執行委員に福島義一、山崎釼二ら15人が選出され、体制が整えられました。
30年から31年にかけて目覚ましい発展を遂げ、31年3月の沼津市で開催された県連第二回大会では、「昨年県連第一回大会を富士キネマに開催せる時に於ては組合員僅かに七、八十名に満たず、其後急激なる農業恐コウに当面し、小作料不納米棒引闘争、小作料減免、土地取上げ反対闘争、銀行・悪無尽会社動産差押へ競売等との闘争に猛烈果敢に戦ひ、あらゆる争議は勝利的解決をし、組織は飛躍的発展をし全県下に組織農民千五百名を突破することが出来た」と報告されました。その後も組合員は増え続け、32年度大会では2,763人と報告され、特に組織の伸張が著しいのは富士・駿東郡などの県東部地域でした。31年1月24付けの「静岡民友新聞」でも、富士郡の組織拡大について、「最近では郡下の小作人のほとんど全農(全国農民組合)へ加盟したといふ目覚ましい活躍振りを見せている」と報じられました。
全国農民組合静岡県連合会が最も重視したのは小作料減免闘争でしたが、現実には地主による小作地引き上げの頻発に対する対応が差し迫った課題とならざるを得ませんでした。各地の闘争では県連の指導の下で、共同耕作・刈取り、小作人大会、野外集会などの恣意運動が大々的に展開され、地主に対する要求貫徹が図られました。
1931年(昭和6年)4月、全国農民組合は左派の全国会議派と右派の総本部派に分裂しますが、県連は11月に右派の総本部派支持を表明します。このため左派的傾向が強かった県連青年部は、弾圧が加えられた後の再建過程で左派が排除されることになりました。
さらに32年の無産政党の合同問題が浮上すると、路線対立が表面化します。対立の引き金は7月の社会大衆党の結成で、社会大衆党への合流という現実主義路線をとる山崎釼二ら県連幹部に対して、社会大衆党の成立を「社会ファシスト共の大同団結」と見て、断固反対を唱える動きが現れます。この対立で芹沢総一郎ら有力幹部の離脱や除名が相次ぎ、活発に活動していた伊豆地区委員会は33年5月に県連からの脱退を発表します。その後県連は、山崎釼二の指導の下で社会大衆党の下部組織としての性格を強める一方、地域農民運動組織としての活動能力を低下させていきました。
次回は、「街頭文化の登場」というテーマでお話しようと思います。
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