
「概説 静岡県史」第173回:「静岡県復興計画による復興構想」
今年も残すところ、あと10日あまりとなりました。週1回といえ、何とか掲載を続けることができたのは、とても良かったです。残すは来週29日に第174回の「概説 静岡県史」を掲載することですが、幸い原稿は出来ていますので、1年間続けることができます。
それでは「概説 静岡県史」第173回のテキストを掲載します。
第173回:「静岡県復興計画による復興構想」
1948年(昭和23年)、静岡県振興審議会が組織されました。7月6日に制定された同審議会規程によると、委員は県議会議員、学識経験者からなり、会長は県知事、幹事長に副知事、幹事には県の各部長、幹事補佐は関係課長の中から知事が選任するとされ、業務は「静岡県振興計画草案」の調査、審議とされました。計画草案は極めて総合的な内容でしたが、まずは課題だった農林水産対策の部分から見てみましょう。
当時は農地改革の実施中で、「残存する小作契約の文書化を図り」という文章が見られます。これは、占領軍当局が、日本の小作契約が文書で行われていないことを「封建的」と見ていたことの現れです。対日占領理事会で小作制度の性格について議論されており、その関心の1つが契約制度の在り方でした。社会的契約は文書をもってなされるべきで、文書を伴わない小作契約は地主優位の抑圧的契約であると見ていました。
そして、農業生産力の向上を目指して、農業者の組織化、集団化、協同化、経営の多角化が目標とされ、農業協同組合が設立されます。戦時下の農業会は統制的役割が主でしたが、農業協同組合は自主的協同性が目指されました。農地対策は49年度を目標として農地の買収・売り渡しの完了を図ることとされました。また農地制度の歴史的資料を保存し、農業の近代化を目指すべく県農地事情調査会を組織することがうたわれましたが、これは農林省で組織された農地資料保存会の県内版と言えます。林業に関しても、治水事業の一環として植林計画が挙げられています。水産業では全国屈指の水産県として漁業対策、造船計画、船員養成、製氷冷凍施設、水産加工などの「総合的見地」からの育成計画が盛り込まれました。また製氷冷凍施設建設に関しては、国内経済力から十分な資金力が期待できる状況ではなかったため、「必要に応じて外資の導入に努める」といった記述があります。
さらに静岡県は全国有数の酪農県であることから、農業の多角化の一環として酪農を位置づけようとしました。政府は昭和恐慌の際に農業の多角化を奨励して不況を克服するという方針をとっていたため、静岡県でもそれに関連して酪農などが行われていましたが、養豚や養鶏などは政府方針よりも早く10年代後半から20年代にかけて実行されていました。比較的小規模経営であった農家の在り方から多角経営への取り組みを勧める事情があり、さらにそれが勤倹貯蓄、副業推奨策と連動していたためで、都市化が進展する中で、農業生産の商業化が一層進行したのです。
48年5月、経済安定本部が消費水準の回復、重工業化による生産および輸出の増強を目標とする「第一次復興計画第一次試案」という名称で5か年計画を発表します。翌49年には本格的な資料整備によって修正を行いました。
しかし、政府がドッジ・ラインに沿う政策の変更を余儀なくされ、5か年計画案と構想が矛盾したため、5か年計画は政府案としてではなく、非公式の経済復興計画委員会案として発表されました。さらに51年1月には自立経済審議会の「自立計画」として、51年度予算で自衛力の増強、資本蓄積、産業合理化の促進など自立経済の基礎固めが講ぜられた3か年計画が答申され、経済安定本部から発表されました。しかし、51年3月、アメリカの戦略物資の買い付け停止を動機として世界景気は沈滞過程に陥り、日米経済協力が期待されたほど進展せず、自立経済への道のりは険しいものとなりました。この計画では53年度までに生活水準を戦前水準の89パーセントまで上昇させることを目標としました。そのため50年度比の鉱工業生産は約30%、農林水産業は約10%の増産が期待されました。実績を見ると、鉱工業は130.2%、農林水産業は112.1%、国民所得は127.4%と、それぞれ目標値をほぼ達成しました。
静岡県振興計画は商工業についても農業同様に、県商工業再建委員会を組織して、業種別の再建方針を提起しています。繊維、木工業、製紙業などの在来の特産産業の復興に力を注いで「重要生産資材の工場誘致」に努めるとしています。さらに「農村工業と都市工業との間に適当な調和を図り、進んで労働行政との緊密な連けいによって生産増強と輸出貿易の振興を」期する、としています。「労働行政」の連携がうたわれているのは、労使関係の近代化が必要であるとの認識によるもので、戦後民主化への志向の強さがうかがえます。また在来産業の復興を出発点としつつ、「重要工業」の誘致を図るという考えが極めて早期に登場していることが注目されます。
繊維工業では別珍(綿ビロード)、コールテンが有望な特産物であるため、これらを中心に生産力の回復を図ること、25%に達していない稼働率の状況にある工作機械生産を100%稼働に持っていくために、特産工業と関連する織機、製茶機、製紙機の復興に力を注ぎつつ、時計、自転車などの新興分野の製品の海外輸出に力を傾けるとされています。この時期、県内の漆器、塗り物、クリスマス電球のような雑貨品で、1920年代に活発化していた輸出商品が再度アメリカ向け商品として活躍していました。木工業でも漆器輸出に着目して、日本ウルシなどの増殖を図るとしました。また、これらの分野は中小零細企業によって担われていることから、その経営の合理化、技術の向上などを図る施策が求められているとされました。
静岡県振興計画は、電源開発、住宅問題等の民生、医療、土木、交通等全般にわたる検討を行いました。静岡県では石炭を入手しがたいので、代替動力源として河川を利用した水力発電の開発が必要でした。清水港を中心とする貿易活動を盛り上げるため県内貿易品はすべて清水港を経由させるなどの措置を講じ、貿易との関連の深い産業には必要に応じて外資の積極的導入を図ることとするなどのほか、県内の景勝地の観光施策を充実させるため、県観光審議会を設置するなどと述べられています。また労働行政の指標を「労働関係の安定」に置くための施策として、労働組合の「自主的な教育活動」への支援、「民主的な生産増強、外資導入に遺憾のないようにする」べく労働関係の調整、労働者の調整、労働者の福利厚生施設の増強と支援、就労機会の増大に資する職業指導などが強調されました。
教育文化計画では、「教養ある文化的県民の養成」に貢献する公民館、図書館などの設置、「地方文化運動の隆盛」を図ること、「教育の地方分権の立場から県下の指導的人物を養成するため、静岡綜合大学の実現に努める」とし、六・三制教育施設の充実を図るために、教員の不足を大学創設と並んで県独自の教員養成所設置等で切り抜け、教育の機会均等を図るべく就学奨励費の増強、学資の貸与等を実施すると述べています。当時、県内には県の肝いりで郡単位などで静岡大学後援会が組織され、旧制静岡高等学校、浜松工業専門学校、静岡、浜松、島田、三島などの師範学校、県立農林専門学校などを統合する国立静岡大学の発足に備えました。
また、生活安定のための衣食住確保計画として、日常生活物資に関して「配給機構を整備して出廻りを促進する」ため、一定の戦後統制機構の活用方針を主張していることも注目されます。戦時中の極端な統制を一気に廃止すると混乱が予想されたためです。GHQが配給統制撤廃に踏み切るのは49年8月の石炭、9月のイモ統制の50年以降実施の農林省あての覚書等から始まります。また静岡県の「関東ブロック編入」を促進するとし、これらの計画はいずれも「将来の県政発展の基礎を構成する最小限度のもの」と位置づけています。
これらの計画を推進するうえでは、素材難、財政難などの克服が必要であり、先行きが明るいとは見ていませんでした。またこの時期は朝鮮戦争前で、本格的な重工業を通じての戦後復興方針がとられていたわけではありません。むしろ、軍備の基盤となりうる重工業は再建不可能だったため、伝統的な軽工業に依拠する方針がとられたのです。重化学工業が許可制を通じて構築され始めるのは、50年6月に発生する朝鮮戦争により米軍の戦争特別需要(特需経済)を受けてであり、当時の全国状況から見ても、この計画の検討は比較的早期のものだったと言えます。
次回は、「県経済の復興と商工業」というテーマでお話しようと思います。