見出し画像

「概説 静岡県史」第143回:「勤労動員」

 ここ数年、5月が初夏であるということを実感しています。今日も、外に居たら、すっかり日焼けをするほどの日差しでしたし、真夏ほどではないにしても少し動くと暑くて、冷たい飲み物が欲しくなる陽気です。ただ、夜のために、あまり昼間には冷たいモノは飲みませんが…。
 それでは「概説 静岡県史」第143回のテキストを掲載します。

第143回:「勤労動員」


  今回は、「勤労動員」というテーマでお話します。
 戦時下には、銃後の労力奉仕として中等学校の生徒も勤労作業に従事するようになります。韮山中学校のある生徒は、1937年(昭和12年)秋の奉仕活動について、次のように記しています。
   我等一行八名は一班となりて長瀬某応召家庭に労力奉仕に行く。時将 
  に秋酣(たけなわ)にして農家にては収穫の大多忙を極めて居るとは云
  え、雨上りの空は寒く曇りて農家の仕事は遅々としてはかどらない。親
  切丁寧をモットーとしている千歳倶楽部では一班一軒として順々に配当
  されていく。
   先づ何も出来ませんが何か仕事をさしていたゝき度いとお願いした
  所、折角ですからと七、八町はなれた田から稲を運んで脱穀してくれま
  せんかとたのまれた。我等は元気一杯で直ちに仕事に取り掛かっ
  た。……こゝのお婆さんが感謝して云うのに、皆さんはお坊ちゃん達で
  すのに仕事は玄人ですねとか、皆さんの為に大助かりですと喜ばれた。
  我等は七時より十二時までではあるが国家の為に努力したことは喜ぶべ
  きである。
 また中泉農学校でも、日中戦争発生後、政府がガソリン節約のためアルコールを混用することを決め、全国六か所にアルコール工場を急造することになり、中泉町がその1つに指定されたため、38年7月から8月にかけて農学校の生徒が土地の開墾整地作業に従事しました。
 清水市の4つの中等学校では、38年の夏季休暇を利用した勤労作業が行われました。『清水市史』によると、清水商業学校では大沢川堤防の天井川改修により生じた土砂を市役所から無償で払い下げを受けて、運動場の盛り土整備をしています。清水中学校では5年生が庵原郡中河内小学校に合宿して、村内にある庵原郡と清水市の共有杉林10町の下草刈りを行いました。清水高等女学校では新校舎の運動場3500坪のうち、バレーコート2面、バスケットボールコート1面、テニスコート2面の地ならしをしたり、シャツや袴下(こした。陸軍用語でズボン下のこと)などの軍需品の作製をしました。清水女子商業学校では慰問文を250通作り、市役所を通じて戦地に送り、また茶摘みやミカンの摘果作業に従事しました。
 清水市の例に見られるように、女子中等学校には女子生徒ならではの勤労奉仕が企画されました。例えば静岡高等女学校は稲刈りのほか託児所奉仕をしており、クラブ活動の一環として、書道部は出征将校へ慰問状を書き、文芸部は陸軍病院を慰問し、「父帰る」の脚本と「慰問の詩と短歌」を朗読しました。音楽部は陸軍病院本院を慰問し、合唱「征(ゆ)けや兵士」「空を護れ」、斉唱「凱旋」「遂げや聖戦」、独唱「愛国の花」などを披露しました。
 文部省は38年6月に「集団的勤労作業運動実施に関する件」という次官通牒を出し、「実践的精神教育方実施の一方法として、団体的訓練を積ましめ、以て心身を鍛錬し国民的性格を鍛成する」ことを目指しました。4月に出された「国家総動員法」の教育における具体化であり、これにより勤労動員が本格化します。
 1943年(昭和18年)に「学徒戦時動員体制確立要綱」が閣議決定されると、軍事訓練と勤労動員の徹底化が図られ、それまでの勤労奉仕から生産拠点に勤労動員され、校舎の軍需工場への転用が進められました。さらに44年1月「緊急学徒勤労動員方策要綱」が閣議決定されて、学徒勤労動員が年間4カ月間継続実施されることになりました。しかしそれでも軍需産業での物資不足と労働力の枯渇は甚大を極め、3月には「決戦非常措置要綱に基く学徒動員実施要綱」を定め、通年の勤労動員実施に踏み切りました。さらに8月には「学徒勤労令」が公布されて、教師・生徒をもって組織する学校報国組織による勤労動員となりました。
 静岡師範学校一部一年に42年に入学した者は、2年後の8月には大同製鋼川崎工場に通年動員されました。同じ工場の動員学生には、成城学園や慶応大学の学生たちも一緒だったようで、彼らは師範学校の学生たちと比べて自由で知的であり、彼らから日本の敗戦は必至であると聞かされて、師範学校の学生たちは驚いたようでした。軍国主義教育、また国体教育の本家で教育を受けている者たちの知的鈍化を示すエピソードです。
 女子中等学校では、女子勤労挺身隊が結成され、種々の工場へ出向きました。静岡高等女学校の勤労挺身隊の代表が、次のような宣誓を述べました。
  大東亜戦争開戦以来、今年は満三年目に入りまして戦は愈々苛烈に日夜
  国家の安危に係る大決戦が展開せられつつあります。この秋この日、私
  共女学生も国家の要請に従ひ茲に女子勤労挺身隊を結成しまして学窓を
  出て家事を離れ、この曠古(こうこ)の聖業完遂にその微力を捧げ奉る
  ことになりました事は、洵(まこと)に無上の光栄であります。私共は
  已(すでに)斯くあらんことを覚悟し、今日の出勤を鶴首して待って居
  た次第であります。今日こそ私共は御民(みたみ)われ生けるしるしあ
  りし大和民族の歓びと誇りの深い感激に奮ひ立つもので御座います。従
  って一度入社致し就職しました上は、誠心誠意社則に従ひ、忠実直摯、
  職域奉公の誠に徹し、克(よ)く国家総力の実を挙げ得ることの出来ま
  すやう精進努力致す覚悟で御座います。今日茲に入社するに当り、挺身
  隊一同に代わりまして右御誓ひ申しあげます。
 さらに女学生は、相次ぐ戦傷者による看護婦不足のため、45年からは日赤病院で短期養成の看護婦免許を受け、各地の病院へ配属されました。静岡高等女学校では、その数約200人とされています。また沼津高等女学校では、4、5年生は海軍工廠へ、3年生は三井精機と日本名産に駆り出されました。海軍工廠では設計・仕上・検査に分かれ、三井精機では飛行機の部品磨き、日本名産では航空兵のための航空元気食を作りました。
 県西部では、例えば浜松工業学校の終戦時の動員状況は、色染仕上料52人が浅野重工、紡織科49人は富士瓦斯紡績小山工場、建築科50人は東洋木工、図案科50人は河合楽器、機械科100人は浅野重工という状況でした。
 次回は、「学校教練と高等教育の軍事化」というテーマでお話しようと思います。

この記事が参加している募集

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?