「概説 静岡県史」第159回:「本土決戦準備」
シルバーウイークですが、今年は3連休が2回という、大型連休にはならず、まぁ、その方が休みボケしないで良いのですが、なんとなくダラダラ過ごして終わりそうで、なんか損しているような気がします。もう少し休み方を上手になりたいものです。
それでは「概説 静岡県史」第159回のテキストを掲載します。
第159回:「本土決戦準備」
今回は、「本土決戦準備」というテーマでお話します。
1944年(昭和19年)7月、「本土防衛」の要とされたサイパン島が陥落し、その責任を負って東条内閣が崩壊したことで戦局・政局ともに新しい局面を迎えました。戦争遂行体制は、あらゆる面で矛盾が吹き出し、戦争解決の方法を本音で探る必要が、ようやく公然と語られ始められました。9月の臨時帝国議会の質問で注目されるのは、松村謙三や安藤正純の言論抑圧・世論誘導・官僚独裁政治への批判です。しかし、破局に向かう戦局の打開策も、有効な国内政策も打ち出せぬまま、玉砕と生活破綻のなかで、以後1年間戦争が続きました。
大都市に対する空襲の現実的可能性は、静岡県でも44年初めに通達されており、冒頭で「空襲による罹災者多発し、且反復的空襲を予想せらる」と触れられていました。44年末に空襲が現実に始まると、警察署から防諜が叫ばれました。流言の取り締まりを強化し、航空機から散布される宣伝印刷物の早期提出を求め、届け出を怠ると厳罰に処すると威嚇しました。防諜観念が叫ばれるほどに、国民すべてに対して、宣伝ビラだけでなく軍隊移動、付近の陣地構築、空襲被害、生活難などに関するあらゆるささいな言動がスパイ活動、利敵行為と見なされる危険性が広がっていきました。情報統制が強まれば強まるほど、国民への信頼感が薄れ、敵視のまなざしが強まるという悪循環が深まっていきました。
敵愾心の高まりは、45年1月に富士郡で撃墜されたB29搭乗員を、落下地域の人々が、搭乗員は抵抗の意思がなかったにもかかわらず、集団で暴行を加えるという事件を生みました。しかし行為は、敵搭乗員を「捕獲に当り抵抗をなすものに対しては其の行動を監視し、要すれば竹槍、猟銃等を以て威嚇する等の措置を講じ、尚逃亡抗争等の危険大にして、猶予せば捕獲を不能ならしむるか如き場合に於ては、此ら携帯物件を使用し機宜の措置をなし得るものとす」とする警察が示した敵機墜落時マニュアルの影響により起こった事件です。
45年3月からは重要な建物周辺の空き地設定、防火帯としての道路拡幅などを目的とした建物疎開が浜松市、清水市から始まり、4月に静岡市、沼津市でも実施されました。しかしその際に当局が恐れたのが「抗戦敢闘精神」の喪失、「逃避的傾向」助長であったことから、3月末に知事は、疎開は分散であるとして、逃避的な疎開への取り締まり強化を表明しました。その後、疎開荷物の取り締まりが始まり、疎開転出に警察の証明が必要となりました。増産の至上命令は空襲下といえども職場への張り付けを強要し、それを維持するための疎開を恥と非難する特攻精神の強調や疎開への強権的規制は、人的被害を増大させ、抗戦意思をくじく結果となりました。
農業生産額は高かったのですが、園芸農業が中心だったため、六大都市に次ぐ米穀移入県である静岡県での食糧不足は深刻でした。そこに、44年3月から45年6月までの累計で19万人に達した疎開者の流入が、食糧需給を一層窮迫させました。米の移入が予定量の半数しか達しないなか、麦とサツマイモの増産が頼みの綱となりました。駿東郡では、部落会に町の職員が直接指導に入り、サツマイモの増産指導、畑の開拓指導が実施されました。共同作業は空襲の標的になるとして避ける傾向に対しても食糧増産が優先され、共同作業の継続が勧奨されました。しかし、どれほど特攻精神による食糧増産が叫ばれても、工場増産との矛盾は深刻でした。徴用、挺身隊などの名目で農村労働力の軍需工場への動員は、農村の不工作田を広げ、また農繁期と言えども一時帰農の許可を出しませんでした。ところが工場での増産には、防空業務、疎開業務、買い出しによる欠勤率上昇というやむを得ざる障害も現れ、「欠勤は戦力阻害、国が亡びて何の工員」というキャンペーンも無力でした。
44年後半期から必勝の国内体制確立を目指す国民諸組織・政界再編の動きが始まりました。挙国的政治結社、強力な新党結成で政治主導権確保を目指した翼賛政治会と、国民運動の一本化を内務省主導で行おうとする動き、陸軍による本土決戦への国民動員構想、解散を強いられることに反対する翼賛壮年団の思惑などが、さまざまに交錯し、対立しました。結局、翼賛政治会の構想に対し、陸軍・内務省の構想が通り、内務省の国民動員構想と陸軍の全国民軍隊化構想を折衷した国民組織が作られることになりました。
45年(昭和20年)3月末の閣議で基本原則が決定され、5~6月に沖縄を除く全国一斉に結成された国民義勇隊は、職域挺身、防空、非常作業、軍作業の補助などへの国民の根こそぎ動員としての性格と、本土決戦の際の戦闘組織としての性格とを併せ持ち、産業報国会、労務報国会を除く大政翼賛会、翼賛壮年団などの国民運動諸団体の解散と国民義勇隊の組織化が、5月末をめどに各地域で進行しました。
政治的に敗北した翼賛政治会は、3月30日、大日本政治会(349人)に改組しましたが、国民運動の指導部を目指した当初とは異なり、国民諸組織の一翼としての翼賛政治会と変わることなく、徹底抗戦主義的な護国同志会(31人)、翼賛壮年団出身議員を糾合した翼壮議員同志会(22人)という少数反対派が結成されるなど、政界内部の総力結集に失敗しました。静岡県選出の衆議院議員は、加藤弘造、森口淳三の2人が翼壮議員同志会に参加、残る9人は大日本政治会に属し、太田正孝は総務に就任しました。翼賛政治会は下部組織を持っていませんでしたが、大日本政治会は府県支部結成方針を打ち出し、県内では太田および山田順策両議員が世話人となり、県会議員として志太郡選出の大塚甚之助、静岡市の鈴木信雄らが協力して結成準備が進められました。県支部の発足は5月13日、45年5月14日付け『静岡新聞』によると全国で最初の支部結成でした。支部長は太田、幹事長は大塚が就任しています。
県内の国民義勇隊は予定どおり5月中に県(本部長は知事)、郡連合会、および297の全市町村組織の結成が完了し、7月までに167の職域組織の結成も完了しました。役員は全国的に軍の指導性を反映して在郷将校の比率が髙いのですが、静岡県の場合は県副本部長が磐田郡町村長会長、その他県本部の顧問、参与の比率でも軍人比率が低いのが特徴的です。議会関係者では、山口忠五郎(静岡県農業会長)、森口淳三、大塚甚之助(県会議長)、鈴木信雄らが入ります。山口、大塚ら旧政友会支部主流派の力は相対的に衰えつつも、戦争末期まで県政の重要な一角を占め続けました。
県の「国民義勇隊の組織に関する要綱」によると、市町村組織は市町村長を隊長として、副隊長、挺身員を側近に配置し、町内会、部落会を単位小隊として傘下に置きました。隊内は、男子隊と女子隊に分かれ、男子隊は国民学校初等科修了(12歳)以上65歳まで、女子隊は、病弱者、妊産婦などを除く初等科修了以上45歳までを編成対象としました。戦闘隊に転移する場合の対象年齢は、男子15歳以上55歳以下、女子17歳以上40歳以下(学齢以下の子女を有する母親は除く)となっています。既に組織されていた学徒隊も再編されて、国民義勇隊の先鋒隊として位置づけされました。
国民義勇隊結成に並行して、大政翼賛会などの解散も進められましたが、翼賛運動の実践的推進組織を自称してきた翼賛壮年団の不満は強く、県翼賛壮年団の場合も、5月5日の声明では国民義勇隊への参加を表明しつつ、5月6日付け『静岡新聞』では「政府より示されたる組織方針は画一的であり、網羅的であり、結成準備も勢ひ官を中心としてなさるるため動(やや)もすれば国民義勇隊本来の面目に反する虞(おそ)れがあるのである」と懸念を示しました。また6月9日の解散声明でも「義勇隊が果たして最後且つ最高の必勝態勢たる実態を具え居るや否や」と疑問を表明し続けました。
6月23日、国民義勇隊の戦闘組織化に法的根拠を与える「義勇兵役法」および「国民義勇戦闘隊統率令」が公布されました。ここでは男子の義勇兵役年齢が県の要綱よりもさらに拡大されて、15歳以上60歳以下とされています。同日、阿南惟幾(あなみ これちか)陸軍大臣は「国民義勇隊の大部を天皇親率の軍隊となし、総ての国民がこの地域又はその職域において作戦に直結し得る如く大元帥陛下の股肱たる軍人となり、皇国護持、国威宣揚の大任を担ふ栄誉と責務とを与へられたところに重大意義が存する」とラジオ放送で述べています。一方、知事はそれに先立つ6月17日付け「静岡新聞」で、国民義勇隊は「最後最終の国民組織であり、戦争に必要なことはなんでもやってゆく、言ひ換えると生産に従事しながら防衛に当り、防衛しながら生産を行ふ」と、生産と防衛とを一体化し、さらに全国民を組織した従来の国民組織とは異なる性格の組織であることを力説しています。現実の戦闘隊編成は、鉄道、船舶関係など一部にとどまりましたが、国民義勇隊は戦時国民動員の極限的な組織構想だったと言えましょう。
次回は、「軍用地の拡大と本土決戦部隊の配置」というテーマでお話しようと思います。