「概説 静岡県史」第152回:「配給制度下の日常生活」
パリオリンピックが始まりました。開会式や入場行進は、パリのど真ん中である、セーヌ川を中心のアウステルリッツ橋からサン・ルイ島とシテ島を巡ってイエナ橋、そしてエッフェル塔前のトロカデロ広場で開催されるという、何ともコンパクトかつユニークなものでした。オープニングがジダンが登場する映像から始まるのも画期的でした。でも、あの時間ってテレビを見ていない人はどうしていたんでしょう?セーヌ川の途中にも、いろいろと物議をかもすものがいろいろありましたが、まぁお祭りなんで、多少は目をつぶりましょう。ただ個人的に、開会式およびオリンピックのメインとなっているセーヌ川周辺のあの辺りは、かつて(20年以上前)自分も歩いたことがある場所ばかりで、知っている場所がオリンピックに際してテレビで映っていたことが、なんか不思議な気がしました。
それでは「概説 静岡県史」第152回のテキストを掲載します。
第152回:「配給制度下の日常生活」
今回は、「配給制度下の日常生活」というテーマでお話します。
1941年(昭和16年)4月、「生活必需物資の偏在を防止し、国民各層に適切な配給を行ひ、以てその最低生活の維持確保を図る」ため、「生活必需物資統制令」により、米は米穀配給通帳による配給の1人2合3勺と決められ、木炭、マッチ、魚、肉、麦、砂糖、野菜類までもが配給となり、消費統制が行われました。
40年に県内の小中学校児童生徒2万4465人の弁当を調査したところ、白米11.2%、麦混食が半数、残りが七分づきでした。42年には米の代替として大豆、トウモロコシ、芋類の配給が多くなります。掛川の国民学校で低学年を担当していたある教師は、子どもの弁当が「大豆、大豆、その間にご飯粒が見える、中にはポケットからいり豆を出し、「先生、おれの今日の弁当だ」という子もいた。米代わりの大豆の度重なる配給で、村中の大人も子供も体に変調をきたしていた」と書いています。
衣料は37年以降、綿、羊毛、生糸等の生産、消費統制が行われましたが、太平洋戦争開始の翌42年1月、「繊維製品配給統制規則」により衣料切符制が導入されました。下着から布団まで、1人100点(農村は80点)分しか購入できない制度で、敷き布団24点、手ぬぐい3点、国民服、学生服上下32点、ズローズ4点、肌じゅばん8点などで、中古品といえども切符制の適用を受けるとされました。44年からは30歳以上は40点、30歳以下は50点に切り下げられましたが、切符があっても欲しい品物がちゃんと買えるという保証はありませんでした。
また、生理用品としての脱脂綿は、15歳から50歳の女性に配給するということになっていましたが、すぐに代用綿となり、それも無くなり古いボロ布を使用せざるを得ず、それさえも使い捨てられるものではなく、何度も洗っては使用せざるを得ませんでした。
生活必需品の配給は隣組を通じて行われました。都市部では町内会、農村部では部落会の中に、ほぼ10戸を単位とする隣組が設けれ、上位下達を果たしました。既に大政翼賛会は1941年(昭和16年)4月に第一次改組を行っており、その末端組織として「戦意昂揚」を目指して定期的に常会を開き、回覧板による政令の徹底、物資配給、貯蓄、公債の割り当て消化、戦勝祈願、防空訓練、防諜活動などを行いました。常会を欠席する非協力者に対しては、砂糖、木炭その他を配給しないという制裁を申し合わせた町内会もあり、貯金や公債割り当てなどの非協力者に対しても同様の圧力が加えられました。配給その他の実権を握らせ、有形無形の抑圧を誇示することで、政府は町内会長、隣組長など小指導者を巧みにコントロールし、民衆を否応なしに国策へと駆り立てていったのです。
また、このころから女性がにわかに忙しくなり、たくましくもなり、もんぺ姿で活発に活動するようになりました。防空訓練、配給の実務、配給で足りない物の工面等々、平時にはなかった、直接生命にかかわる大事な問題が女性の上にのしかかって来るようになりました。
1941年(昭和16年)1月、閣議は「人口政策確立要綱」を決定します。その内容は、国家発展のために子宝報国にまい進する必要が説かれており、「平均初婚年齢を引き下げ、一家庭平均5児をもうけることにより、「内地」人口を1950年までに1億人に」することを目指す、というものです。静岡県では既に40年から優良多子家庭の表彰が行われていて、第1回の表彰では448家族が表彰され、その数は北海道、愛知県に次いで全国3位でした。県庁のほか賀茂郡松崎町役場、沼津市公会堂など5か所で表彰式が行われました。一方で「県内の石女一掃」などという記事が「静岡新聞」にも見られます。「性」というプライベートな領域にまで、国家が介入するまでになっていたのです。
42年5月、静岡県は市町村に対して「結婚奨励に関する件」を通達、特に傷痍軍人に一般女性を嫁がせて軍事援護の目的を達するように奨励します。各地に結婚相談所が設置され、方面委員を中心に一組でも多くの結婚をまとめようとしましたが、男たちは戦場に駆り出されたり、戦死したりと相手を見つけることは容易ではありませんでした。また、たとえ妊娠しても、戦時下の出産は大変なことでした。43年、賀茂郡のある助産婦は、「一番不自由したのは綿花で、うっかりしていると、田舎の人たちはぼろ布を消毒しないでそのままあててしまう……脱脂綿をはじめは大きく切って使い、汚れたのは水道か流れのよい川で血液を洗い流し、クレゾールで消毒し、さらに煮沸して二度も三度も使」ったと回想しています。
この時期、子どもたちのお菓子と言えば、良くて病人用のぶどう糖、黒砂糖の塊、ドロップなどで、軍関係のつてが無ければお目にかかれませんでした。44年4月から始まった国民学校給食は、ドングリの粉を使用したボソボソのパンと薄い味噌汁でしたが、それすら楽しみであるような食糧難が降りかかっていました。「決戦料理」の名称で、「野草料理」が奨励され、スイセンの花や葉や球根、ギボウシ、ユウスゲ(別名キスゲ)など何でも食しました。富士郡芝富村、旧芝川町、現在富士宮市では、44年2月に決戦食指導講習会が2回にわたって開催されましたが、ここでは具体的な調理方法ではなく精神的に食糧難に勝つことが先決とされました。同じく44年に発行された「決戦下の国民給養」では、「腹が減っても戦かはねばならぬ」として「我等日本人には物資の不足による国難を克服して戦ひ抜くことの出来る偉大なる伝統の力が潜んで居る」とされました。しかし、闇取引は公然の秘密であり、役得も横行する中で、42年ごろには翼賛壮年団による闇撲滅運動が静岡や沼津で行われ、浜松では女性も交えた経済警察協議会が設置されるなど対策が図られましたが、大多数の庶民は闇買いし、統制の網をくぐりぬけ、物々交換をして慢性的飢餓状態を辛くも生き延びようと苦闘しました。
絶対的欠乏の食糧や生活必需品など、まさに末期的状況でした。それでもまだ指導者層は決戦生活確立運動を提唱し、航空機用潤滑油にするという触れ込みで、トウゴマ(別名ヒマ、種子からはひまし油が採れる)の栽培を義務付け、松根油の採取を強制しました。県内各地で空襲が激化し、家を焼かれ、非戦闘員である民衆が次々と戦災死する中で、まだ本土決戦が叫ばれていました。
次回は、「戦場の静岡県民」というテーマでお話しようと思います。