見出し画像

「概説 静岡県史」第174回:「県経済の復興と商工業」

 2024年最後の投稿です。何とかここまで続けることができて、「継続は力なり」ということをつくづく感じます。来年も頑張ります。また、何か別のテーマも検討しないといけないなぁと思っています。
 それでは「概説 静岡県史」第174回のテキストを掲載します。

第174回:「県経済の復興と商工業」


 静岡県の商工業は、戦時中の企業整備、民需圧迫、戦災などにより多大な打撃を受け、戦後の再建、復興は戦時中の被害による生産設備の不足などに加え、原材料難、電力不足、食糧難、資金不足のほか、激しいインフレーションの影響やドッジ・ラインの実施によるデフレーションの深刻化など、さまざまな困難な状況が存在しました。また、一方で労働運動の高まりと、企業の合理化運動により、労使の対抗も激しく、復興過程に影響をおよぼしました。これらの諸困難を反映して、1947年(昭和22年)における工場の操業率は平均で50%を超える程度でした。
 静岡県の産業構造は、戦前より第三次産業が40%を超えていて、31年(昭和6年)には第二次産業が第一次産業を超え、既に工業県としての性格を示していたことが分かります。戦時中、戦後復興期を経てこの傾向はますます明確なものとなり、高度成長期にかけて、第一次産業が比重を低下させた分、第二次産業の比重が増大していくことになります。
 また、戦後復興期の製造業の構成は、静岡県の戦前以来の重要産業のうち、食品加工業および製紙業が早い回復を見せ、これに少し遅れて繊維産業の復興が実現しました。これは食品加工業および製紙業において地場の原材料が比較的豊富であり、缶詰工業のように戦後の対米輸出が急増した業種もあり、戦後の紙需要が急増したことなどが要因と考えられます。これに対して、繊維産業の復興が遅れた原因は、戦時中における民需産業の縮小や戦災による被害が大きかったことに加え、賠償指定機械の解除の遅れ、原糸割当が不十分であったことなどによると思われます。繊維産業の本格的復興は、朝鮮戦争特需によって実現していくことになります。機械器具関連産業は、ドッジ・ラインの実施による不況の影響を強く受けたと考えられ、49年、50年には構成比を低下させており、回復はさらに困難を極めたことが分かります。
 戦後の繊維業界の立て直しにおいて、政府は46年(昭和21年)9月に繊維産業再建三カ年計画を立て生産の拡充を図りました。 また、戦後の復興に大きな役割を果たした静岡県織物工業協同組合は、商工協同組合法の成立に伴い47年(昭和22年)3月に設立されました。同組合は、昭和23年9月には4つの組合に分離改組され、遠州織物工業協同組合・天龍社織物工業協同組合・静岡県絹人絹織物工業協同組合・遠州毛織工業協同組合が設立されました。
 浜松市を中心とする農家の副業として発生した遠州織物業は、紡績資本と連携した産地問屋の保護養成と支配により著しい発展をとげ、戦前最盛期の1935~37年(昭和10~12年)には全国4位の綿織物産地として内外市場に名をはせていました。その後43年の企業整備とこれに次ぐ戦災により、優秀工場の大半を失い、設備能力は以前の30%程度にまで激減しました。
 敗戦後の47年初めから遠州織物復元運動が起こり、同年7月5日には遠州織物復元期成同盟会が結成されて活発な活動が行われました。この結果48年11月末には工場数で56.9%、織機台数で42.7%にまで回復しましたが、一工場あたりの織機台数は16台にすぎず、戦前以来の中小企業的性格が顕著で、全国平均一工場あたり31台と比べても零細経営でした。このような零細経営の低賃金労働力経営が成り立っていたのは、労働力を家族労働と農村労働に求めているという、封建的家内工業的性格があったことがあげられます。しかし、戦後は「労働基準法」の制定実施により、この基盤が失われ、転換を迫られることになりました。
 また、戦後の輸出綿織物業は政府の計画生産により、設備に応じた原糸の割り当てが実施されたため、遠州地区の小工場でも操業を継続できましたが、48年には輸出振興のため、製品の品質向上、規格統一、納期厳守あるいはクレームに対する責任の明確化の見地から、原料割り当てを輸出生産適格工場へ集中する動きが強まり、零細経営を組織化することが求められました。その後、50~53年の朝鮮戦争により、遠州織物業界は軍服などの特需による空前の活況を呈し、さらに51年7月の綿の統制解除を契機に生産設備は増加の一途をたどり、本格的復興を見るところとなりました。
 静岡県の中部地区は木工業の盛んな地帯であり、静岡市、志太郡島田町を中心に、戦前、下駄の生産は全国の80%を占め、鏡台、針箱も同じく80%程度の生産を示していました。これらは戦災などにより47年にはその10%から20%内外に生産を落としており、その復興は重要でした。戦後当初は塗料、生地などの原材料に悩まされ、また物資不足に乗じた不良品の氾濫によりその声価を傷つけ、また金詰まりなどの障害により転廃業するものが多くなりました。しかし、その後の需要激増に対応して復興も進展し、48年には商工省により重要木工県に指定され、49年不況を経て50年代初頭から再び盛況を取り戻しました。
 木工家具業は、終戦連絡事務局・戦災復興院等から商工省を通じて連合軍用家具類の割り当て発注を受けて再建の端緒を得て、さらに国民生活が次第に余裕を持ってくるにつれて需要が増大し、52年には工場数1800、従業員数2万3000人、年間6億7000万円の生産を上げるまでに復興しました。この他、合板等は51年には全国生産量の12.1%を占め、愛知県19.7%、北海道18.1%、大阪府15.0%に次いで4位となっています。
 静岡県は戦前以来全国一のマグロおよびミカン缶詰の生産県でした。これは清水港、焼津港におけるマグロと水揚げ量の多さと、旧清水市周辺、特に庵原郡が代表的ミカン産地であったことなど原料面での優位性と外国貿易港としての清水港の存在が大きく、さらに夏はトンボマグロとカツオ、秋はカツオ、冬はミカンとトンボマグロというように年間を通じて原料に恵まれ、周年作業が可能であったことも、缶詰業が清水地区で中小企業として成り立った要因です。
 戦前県内に缶詰工場は59工場ありましたが、1940年(昭和15年)6月の「食料品缶詰用空缶配給規則」の公布により生産に極度の制約を受け、農林省の指導のもと、各県1社にすることとなり、不能率工場を廃止し、工場を統合して11工場からなる静岡県缶詰が設立されました。太平洋戦争中は缶詰はすべて軍需品ならびに国内備蓄用として生産され、戦災で沼津市で1工場、清水市で2工場が焼失し、残るは8工場となりました。
 47年、静岡県缶詰工業協同組合が組織され、48年4月、静岡県缶詰は発展的解散、各工場は戦前の態勢へと復帰しました。その後、県内の缶詰業界は生産を拡大し、52年度のマグロ缶詰は全国生産の約80%を占め、うち70%が北アメリカに輸出され、またミカン缶詰も52年度には約70万函(39年は約100万函)まで回復し、うち45%が輸出されました。
 アメリカ向け輸出の復活により著しい興隆をとげたマグロ缶詰等は、50年は総輸出量145万ケース、うちアメリカ向けは135万ケースとなりましたが、アメリカにおいて輸入関税の引き上げの動きを誘発したため、アメリカ市場安定のために、通産省の指導のもと、マグロ類の缶詰の「対米輸出調整実施要領」により対米輸出缶詰の一手買い取り販売機関として51年12月に東京鮪缶詰販売会社を創設するとともに、52年度の輸出数量を100万ケースとすることになりました。
 楽器産業も静岡県の特色ある産業の1つです。『ヤマハの歩み』によると、日本楽器製造会社は、戦時中は主に飛行機のプロペラを生産する軍需工場となり生産を行いました。戦局の悪化とともに爆撃により多くの工場を失い、敗戦時には疎開工場である佐久間工場を主力とせざるを得ない状況でした。敗戦後の45年9月1日に全工員、9月25日に全職員を解雇し、その中から一定数を新規採用する形で再出発しました。11月26日には占領軍から平和産業転換の正式許可を受けましたが、翌年1月には本社工場、天竜工場、佐久間工場、東京製作所、岩手工場の全部が賠償予定工場に指定されてしまいます。その後3月には岩手工場が賠償予定工場から除外され、ミシンテーブル、ラジオケース、さらに進駐軍用の食卓の製造を開始しました。10月には本社工場と天竜工場が指定を解除され、楽器の生産も次第に増加しました。47年1月には楽器の輸出が再開され、ハーモニカ2000ダースがアメリカに輸出され、4月1日にはピアノ製造も再開されました。その後ハーモニカの大量注文で生産が追いつかない状況も生まれ、復興期の生産を支えました。
 機械産業の復興も平たんではなく、スズキ株式会社(旧鈴木自動車工業株式会社)の前身である鈴木織機株式会社では、戦後民需転換の許可を受けた後、「市民生活に当面必要なものから、手あたり次第に生産していくことになった。当時の生産品目をみると、農機具の鍬や鎌、シャベル、ペンチ、ドラム缶のキャップ、汽車の窓の開閉器、機関車の部品、それに電気コンロなど、まさにつくれるものなら何でも」生産し、危機をしのぎました。その後、繊維産業の復興が軌道に乗るに従い、織機の生産も回復に向かいました。その後、原動機付き自転車の開発から自動車産業への転身をとげていくことになります。
 アルミニウムの代表的企業である日本軽金属は当時、県内では清水と蒲原に工場を持っていました。アルミニウム産業は賠償指定を免れましたが、生産再開のためには原料輸入が不可欠でした。関係各方面への嘆願運動や各国からの民間貿易使節団との交渉の結果、48年4月26日にインドネシアのビンタン島からボーキサイトを積んだ第1船が清水港に入港し、両工場でのアルミニウムの本格的生産が再開されることになりました。
 次回は、「電源開発と水利事業、戦後開拓」というテーマでお話しようと思います。

いいなと思ったら応援しよう!

この記事が参加している募集