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「概説 静岡県史」第172回:「財政改革と税制改革」

 8日にシリアのアサド政権が崩壊しましたが、日本では詳細な情報があまり無かっただけに、あっという間に崩壊してしまったように見えますが、実際はここまで来るのには、かなりの時間と苦労があったのでしょう。ただ、暫定政権を主導する「シャーム解放機構」は、いろいろ問題があるだけに、シリアが今後どうなるのかは先行きが不透明のように思われます。
 また韓国の問題も、韓国は隣国でもあることもあり、いろいろと報道されていますので詳細が分かりましたが、昨日弾劾訴追案が可決されました。あの国は、大統領になるとあまり良い終わり方をしないのは何故なんでしょう。さらに次の大統領と目されている野党の代表は、いろいろいわくつきで、こちらはタイミングによっては大統領になる前に有罪判決が出る可能性もあり、韓国の政治はしばらく混乱するかもしれませんね。
 それでは「概説 静岡県史」第172回のテキストを掲載します。

第172回:「財政改革と税制改革」


 太平洋戦争末期にマヒ状態に陥っていた地方財政は、日本銀行調べの卸売物価指数によれば、1934~36年平均を1とすると、1944(昭和19年)には2.3、45年には3.5、さらに46年には16.3、47年には48.2、48年には208.8とインフレは高進しました。こうしたインフレに対処しつつ、地方財政は戦災復興を進めなければなりませんでした。
 45年11月に開会された通常県会で堀田健男静岡県知事は、46年度予算の説明において、生活の改善、日本の再興に相当の「覚悟」が必要であることを強調し、食糧と生活必需物資の増産確保に要する経費、戦没者遺族、復員者等の援護費、不良青少年の取り締まりや訓育の経費、戦災都市復興を目的とした都市計画課の新設、工業再建のための工業再建委員会の設置などの重点施策を掲げました。また、46年9月に制定された「生活保護法」や、47年4月から開校される新制中学校など、新たな教育、福祉政策の実施も財政需要の増大要因となりました。県の財政支出額の動向を見ると、40年を基準とした場合、45年は114,088,000円で約4培、46年は287,808,000円で約10.1培となり、47年は44.2培、48年は118.2培に達しました。インフレが財政支出の増大を余儀なくさせ、逆にその財政支出がインフレを加速するという悪循環に陥っていました。
 1946年(昭和21年)の地方制度改正の趣旨は、憲法、「地方自治法」の制定によりさらに徹底され、財政制度においても強制予算、原案執行等の全廃、内務大臣・知事に属していた各種監督権の大幅な削減などの改正が実施されました。「地方自治法」では、新たに「普通地方公共団体の長は、高齢の定めるところにより、毎年二回以上歳入歳出予算の執行状況並びに財産、地方債及び一時入金の現在高、その他財財政に関する事項を住民に公表しなければならない」という規定が設けられました。これに基づき、静岡県では「静岡県財政事情の作成及び公表に関する条例」が、48年3月12日に公布されました。
 GHQに、「中央集権的統制の中心点」と見られた内務省は、47年12月31日限りで廃止となりました。代わって地方財政委員会が設置され、同委員会は「地方税財政改革要領」を作成しました。48年7月には地方財政の基本的な在り方を定めた「地方財政法」が公布されます。「地方税財政改革要領」と「地方自治法」に基づいて実施されたのが、48年の「地方税法」の全文改正です。この改正の目標を、県公報では「地方自治権確立の方針に則り地方財政自主化の徹底を図ると共に、現在の経済情勢に対応する地方税財政制度を確立すること」としていますが、「地方自治権」や「自主化」が強調されている点に特徴があります。
 敗戦後の県財政支出は、インフレの悪性化の下で支出総額は1945年の114,088,000円から47年の1,262,562,000円と約11倍に著倍しています。その内訳を見ると、もともと比重の高かった教育費が34,871,000円の30%台から513,510,000円と40%台に増大していること、また厚生費、土木費が増大していることなどが目立ちます。戦災復興は教育面で最も経費を必要とし、さらに土木施設の復興、福祉関連施策の経費増が支出の要因となっていました。
 収入の動向は、46年9月に地租、家屋税、営業税の税率引き上げが実施され、県民税が新設されました。県民税については同年10月1日に「静岡県民税に関する条例」が制定されました。また、地方財政需要の増大への対応、租税間負担の不均衡是正などの趣旨から47年3月に改革が行われました。第一に還付税が廃止され地租、家屋税、営業税が府県独立税とされ、第二に遊興飲食税、鉱区税が国税から府県税へ移譲され、第三に電話加入税、軌道税が府県独立税として追加され、第四に府県民税が増徴されました。さらに地方財政調整制度については、従来の地方配付税が地方分与税に改正され、原資の増額が図られています。
 戦争終結時の県財政収入構成は、45年の還付税を含めた県税収入比率は8.1%にすぎず、極端な国からの財源依存体質となっていました。46年、47年の改正によりその比率は11.1%、19.5%と増大しましたが国からの財源依存体質の改善には至らず、県財政の税収基盤の安定化は十分に達成されませんでした。
 インフレの鎮静化が、のちにドッチ・ラインと呼ばれる財政金融引き締め政策、①一般会計、特別会計、政府関係機関勘定を含めた総予算での超均衡予算、②すべての補助金の可視化及び廃止、③復興金融債券の発行と新規貸し出しの停止、④1ドル=160~600円であった複数レート制の改正による、1ドル=360円の単一為替レートの設定、⑤物資統制と価格統制の漸次廃止、自由競争の促進により達成された後、残された課題は本格的な税制改革でした。この課題に取り組んだのがカール・シャウプを団長とする税制調査団で、この調査団による1949年8月と50年9月の2回の報告書が、いわゆるシャウプ勧告と呼ばれます。
 地方財政に関してシャウプ勧告では、地方税源の強化、国庫より供給する交付金の一方的決定の排除、各級政府の徴税および行政責任の明確化、地方財政平衡交付金の設置を中心とする改革を提示し、市町村税の優先的な拡充、付加税の廃止、雑多な税種の整理、不動産税と住民税の大幅な修正が勧告されました。
 1950年(昭和25年)5月には地方財政平衡交付金制度が発足し、7月の「地方税法」では市町村税の優先的拡充、付加税の廃止、固定資産税(勧告では不動産税)の創設、住民税の拡充と府県税の廃止などが盛り込まれました。また同年5月には地方財政の監督調整を行う独立の機関として、地方団体の代表を含む第二次地方財政委員会が創設されるなど、シャウプ勧告に基づく新たな地方税財政制度が形成されました。
 県の財政支出は、48年から50年は337400万円から634200万円と2倍近くに膨張していますが、ドッチ・ラインの影響で、それ以前に比べれば増加のテンポは明らかに鈍化しており、支出構成は特に大きな変化は生じていません。戦後的な財政支出の特徴が定着してきたと言えましょう。一方、県の財政収入はシャウプ税制実施の前後でかなり大きな変化があります。それは県民税と不動産取得税がいったん廃止されたことです。シャウプ勧告で府県民税は、流通税、消費税を中心とするという方針が取られたため、市町村税と重複する県民税、固定資産税と重複する不動産取得税は廃止されたのです。また、付加価値税が府県税として創設される予定でしたが、国民の強い反対もあり、見送られました。シャウプ税制実施の結果、県税収入は49年180300万円、31.8%から50年175400万円26.1%と低下しました。
 市町村財政も敗戦直後から急激に膨張しました。内務省の『地方財政概要』によると、1945(昭和20)年度予算は、市町村支出が約3185万円、町村財政支出が約3764万円でしたが、47年度予算では市町村支出が約5億748万円、町村財政支出が約6億2973万円と膨れ上がっています。戦災復興、食糧供出、引き上げ者対策などに、新たに47年12月公布の「警察法」では全市と人口5000人以上の市街的町村に自治体警察を設置することになり、また47年4月から新制中学校の開校があり、さらに48年7月公布の「教育委員会法」で都道府県のほか、市および人口1万人以上の町村に教育委員会が設置されることになりました。
 支出の増大を支えるために、46年には地方付加税の制限引き上げ、市町村民税の増徴が行われ、47年には国税から委譲された地租などの府県税に付加税を課すことになりました。また若干の独立税が追加され、さらに48年は使用人税、余裕住宅税が新設されましたが、その場しのぎはぬぐえず、シャウプ勧告への期待が高まりました。シャウプ勧告は、市町村に優先的に事務配分し、それを支える自主税源の拡充、それでも残る地域間格差を是正する地方財政平衡交付金制度を提唱しました。勧告が実施された結果、49年には狭小で雑多な県税付加税、独立税で構成されていた市町村税は、市町村民税と固定資産税を2大支柱とする構成に大きく変化しました。
 次回は、「静岡県復興計画による復興構想」というテーマでお話しようと思います。

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