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「概説 静岡県史」第148回:「戦時下の女性団体と青年団体」

 明日から7月です。もう今年も半分が過ぎてしまいました。ただ、4月から急に忙しくなった身としては、4月以降まだ3カ月しか経っていないという方が、実感として強く、読めていない本の山を今後どう処理するか、今年の夏も既にオンラインでセミナーの予定が数件あるので、苦慮しています。
 それでは「概説 静岡県史」第148回のテキストを掲載します。

第148回:「戦時下の女性団体と青年団体」


 今回は、「戦時下の女性団体と青年団体」というテーマでお話します。
 戦時下の女性団体は、静岡県においても愛国婦人会と国防婦人会は並び立ち、しのぎを削っていました。
 機関誌『愛国婦人』で15年戦争開始後における愛国婦人会の県内での動きを見ると、「御殿場全生病院のらい患者を見舞ふ」(1931年)、「慰問袋の募集」(31年)、「子供洋服講習会開催」(32年)、「活動写真で会旨を広める」(32年)、「選挙粛正運動への協力」(37年)など、多岐にわたり活動しています。
 愛国婦人会は1935年(昭和10年)10月8日に08年(明治41年)の創立総会以来、27年ぶりに県支部第2回総会を開催、静岡県師範学校校庭を会場に、総裁東伏見宮妃を迎えて15000人の会員を集めました。第2回総会は愛国婦人会県支部の活動のピークでした。大日本国防婦人会発会に刺激された愛国婦人会は総会後、急速に軍事色を強めていきます。
 1932年(昭和7年)3月18日、2人の女性が発起した大阪国防婦人会が創立されました。総力戦体制を構想する軍部は、この「下からの盛り上がり」を利用して新しい団体を結成させることとし、32年12月13日、陸・海軍省監督指導の下、大日本国防婦人会を発足させました。静岡県では33年秋に国防協会婦人部という形で動き出していましたが、静岡市で正式に国防婦人会静岡支部として再編成されたのは35年5月23日です。市内を15分会に分け、ほかに東洋モスリン静岡工場を第16分会、三光紡績静岡工場を第17分会としました。
 同年11月26日、静岡歩兵第三十四連隊営庭において7000人を集めて静岡地方本部発会式を開催しました。ところがその後、県内の組織化は進まず、在郷軍人会や静岡連隊区司令官が結成促進についての通牒を発しています。しかし日中戦争開始により急速に盛り上がりを見せます。小笠郡以西は豊橋十八連隊区だったため、三遠地方本部を結成します。このため県内組織は二つに分かれていましたが、41年4月には一つにまとめられました。
 静岡市第八分会(安東学区)の資料によると、国防婦人会の活動は、夜半の出動兵士の見送り、遺骨到着出迎え、軍旗祭参列、皇族奉迎、戦病死者追悼会、墓所参拝、皇軍戦闘状況報告会、ローテーションを組んで陸軍病院奉仕など、非常に多彩な活動が行われていました。また、横須賀慰問旅行(32年2月)、庵原郡由比町藤八権現への武運長久祈願(39年5月)、清水港の軍艦長門見学(39年6月)などは、いずれも募集定員の数倍という状況でした。
国防婦人会は家庭に閉ざされていた女性たちに、「兵隊さんのため」という理由で外出の自由を与えました。さらに白い割烹着とたすきにより、結婚や職業、階層の差別から表向き開放され、平準化をもたらすという側面を持っていました。
 1938年(昭和13年)6月13日、県内の分会に向けて、愛国婦人会、国防婦人会それぞれ、会長名で「親和提携に関する件」という通牒が出されました。双方の通牒はほぼ同文で、国防婦人会の趣旨は国民皆兵の本義に、愛国婦人会の趣旨は軍事扶助事業にあるとし、「其の趣旨に於いては之を異にする処あるも、其の為す処は共に国に報いんとする赤誠の発露に外ならず」と「親和提携」を呼びかけていました。双方のあつれきは黙視できないところまで深まっていました。以後、繰り返し統合が議論されるようになり、1941年の第76議会において陸軍より婦人団体の統合が提起され、各団体の所管官庁、軍部が協議を重ねた上で、同年6月10日の定例閣議において新たな婦人団体への統合要綱が閣議決定されます。大政翼賛会が中心となり準備委員会が結成され、42年2月2日、全階層の女性を国家総力戦体制に動員することをめざした大日本婦人会が発足しました。
 静岡県では5月29日に県支部発会式が行われましたが、参列者200余の過半数は、貴衆両議院議員、県会議員、各市長、在郷軍人会役員、官僚らと男性が占めました。知事、連隊区司令官の告示があり、連隊区司令官の万歳の発声で閉式しています。県支部長には三条実美の八女で、富士郡富士町、現在富士市の素封家松本家に嫁いできた松本末子が据えられました。これにより静岡県内すべての成人女性は大日本婦人会会員とされました。組織的には隣組組織に組み込まれ、婦人部の部長が大日本婦人会の班長を兼任しました。
 「修身斉家」を掲げた大日本婦人会の活動は、静岡県では「日婦(大日本婦人会)報国団の設置=田畑山林等を対象とし班または組を単位とする共同作業により永続的増産を期す、貯蓄の増強=農村支部は夜業、都市支部は内職等を励行し、余剰労力の活用により生産を増強し、貯蓄の増額を期す。女子勤労挺身隊編成の促進ならびに慰問」を行うとしています(44年2月)。ここには軍事援護色はなく、食糧増産、貯蓄増強、動員運動のみであり、もはや追い詰められていました。本土の戦場化が避けられないと判断した政府は、45年5月以降国民義勇隊の結成を開始し、大政翼賛会解散とともにその傘下の大日本婦人会も6月13日に国民義勇隊に吸収され、敗戦を迎えました。
 1936年(昭和11年)11月、「日独防共協定」が結ばれ、軍国主義化、ファシズムへの道が加速されました。ナチス・ドイツの積極的な働きかけもあり、38年4月、日独青少年団交歓会という組織が結成され、同年、日独青少年団交歓事業が行われました。日本から富士宮市出身の文部大臣官房文書課長朝比奈策太郎を団長とする代表30人(各青少年団体からの代表は25人、残りは幹部)がドイツを訪問しました。この25人の中には静岡少年団教導隊長だった静岡高等学校理科2年の生徒が参加しています。
 日本代表団一行が東京での合宿訓練を終え、出発のため東海道線で神戸に向かう際、静岡県は市町村長、学校長あてに、青少年団員が沼津、静岡駅等で歓送に出向くよう然るべき配慮を、という通牒を出しました。静岡駅ではブラスバンドまで繰り出し、知事、静岡市長と静岡・清水市の男女青少年団員等がプラットホームまであがって、盛大に見送りました。一行は靖国丸で神戸港を出港、約1か月の航海後、マルセイユに上陸し、7月2日ドイツに入りました。その後約3か月間ドイツ各地で歓迎を受け、ヒトラー・ユーゲントと野営・交歓会を持ち、9月25日帰国の途につきました。その間、ヘルマン・ゲーリングや青少年指導統監のバルドル・シーラッハといったナチスの要人とも会う機会がありました。なかでも代表団が最も興奮、感動させたものは、9月6日から12日に行われたニュルンベルグ・ナチ党大会への参加です。ある代表団員はアドルフ・ヒトラーの絶大なる人気に驚嘆し、「ハイル」「ハイル」の声は天地を圧し、ドイツ国将来を寿ぐ万歳とも思わせた」と記録に残しています。
 一方、同年7月にはラインホルト・シュルツェを団長とするヒトラー・ユーゲントの代表30人が3か月の予定で来日しました。一行は8月10日横浜港に入港、17日、十数万人の熱狂的歓呼のなか東京にやってきました。8月19日の富士山ふもとでの歓迎野営を皮切りに日本各地を視察し、青少年団員と交流しました。
 9月18日、賀茂郡青年団員60余人は、伊豆大島の三原山上で東京連合少年団とともにユーゲントと交流を持ちました。さらに10月2、3日には熱海、箱根十国峠、沼津等において静岡県青少年団員との交歓会が予定されていましたが、ユーゲント側の東北地方での視察・交歓会が延びたため、交歓会は中止となり、10月2日にユーゲント一行が交歓地である岐阜に下る際の停車駅である沼津、清水、静岡、浜松等の駅のプラットホームでの歓送迎だけとなりました。その後、一行は岐阜から名古屋、伊勢、京都、奈良、九州等の各地を視察、交歓会を催し、11月12日、神戸港から帰国しました。
 日独青少年交歓事業は38年だけでは終わっていません。日独伊三国軍事同盟が締結された直後の40年11月には、熱海、沼津、清水等を6人のヒトラー・ユーゲントが訪れています。
 ユーゲントの一元的組織、画一的活動等は、その雄姿とともに日本の青少年団活動に大きな影響を与えました。日独青少年団交歓事業は単なる親善ではなく、「日独青少年団交歓会解散の趣旨」に述べられているように、「青少年団教育の分野において多大の影響を及ぼし、遂に時昭和十六年一月、大日本青少年団の結成を見るに至れり」ということが本質で、青少年団体組織の一元化を目指す布石だったと考えられます。大日本青少年団は大日本青年団、大日本連合女子青年団、大日本少年団連盟等が統合されて結成されました。
 静岡県では41年3月3日、「高度国防国家体制建設」の要請に即応する目的で、学校教育と連携して「強力なる訓練体制」を確立するため、静岡県青年団、静岡県女子青年団、静岡少年団、岳陽少年団等が統合され、静岡県青少年団が結成されます。郡市町村青年団も県に準じて郡市町村青少年団となり、静岡県青少年団の下部組織とされます。
 青少年団の組織は、訓令「大日本青少年団に関する件」によると、青少年団は文部大臣の統括下に置かれ、県・郡市町村の団長には県知事、市長、町村長、青年学校長等が就任することになりました。以後、「国体的実践」を目指す青少年団組織が完成し、ファッショ的軍事・拓務訓練、国防、勤労奉仕、軍人援護等の諸活動を展開しました。42年に入ると6月に静岡県青少年団は大政翼賛会の傘下に組み込まれました。青年団は大政翼賛会の活動を促す推進委員に多くの団員を送り出し、さらに翼賛会の外郭団体として結成された翼賛壮年団にも多くの団員が入り、在郷軍人会とともに天皇制ファシズム体制を推進しました。
 次回は、「職業紹介所と徴用」というテーマでお話しようと思います。

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