「概説 静岡県史」第165回:「占領行政における静岡県」
朝晩はすっかり涼しくなり、やっと秋が来そうな感じになってきましたが、もう来週は11月ですから、当たり前なんですよね。
それでは「概説 静岡県史」第165回のテキストを掲載します。
第165回:「占領行政における静岡県」
今回は、「占領行政における静岡県」というテーマでお話します。
1945年(昭和20年)9月2日、東京湾に停泊中のアメリカ海軍戦艦「ミズーリ」艦上で降伏文書が調印され、戦争は終わりました。日本は、イギリス連邦占領軍とアメリカ占領軍を中心とした連合国軍による占領統治の下に置かれ、連合国軍最高司令官総司令部 (GHQ/SCAP) の指令を日本政府が実施する間接統治が採られ、GHQ/SCAPの指示や命令を日本政府が日本の政治機構で政策を実施しましたが、末端においては各地に配置された米国太平洋陸軍(USAFPAC)管下の地方軍政部が担当しました。
米国太平洋陸軍による日本占領は、当初においては、第8軍、第6軍がそれぞれ東西を折半する形で進められました。静岡県は西日本を統括する米国太平洋陸軍の第6軍の管轄下に入り、大阪の第1軍団の第107軍政グループのもとで、名古屋の第30軍政中隊の担当地域となりました。第30軍政中隊は静岡、岐阜、愛知の3県が担当でしたが、静岡県東部は第8軍の管轄となっていました。静岡県への進駐軍第一陣は45年9月10日、駿東郡富士岡村、現在御殿場市の旧陸軍部隊跡に、第8軍管轄下の厚木駐屯の部隊が入りました。11月6日、静岡市に進駐した約1500名の部隊は名古屋駐屯の部隊で、城内の旧歩兵34連隊兵舎を占拠して、駐屯しました。
順調かつ平穏な占領の進展に伴い、45年末には部隊の縮小再編を行い、第8軍が全土を支配する体制が確立され、46年3月には県庁に静岡軍政部が設置されました。以後、連合国軍総司令官の分遣司令官たる第8軍司令官が地方進駐部隊を統括し、その職責の一部として地方軍政事務を掌握することになり、46年7月には全国8か所の地方軍政司令部のもとで、府県ごとに軍政部が編成される形式に統一されました。第8軍に一本化されたにもかかわらず、静岡県は京都に移転した第1軍団のもとで、名古屋の東海・北陸地方軍政部という西日本の命令系統に属していました。これは43年7月に戦時行政機構として発足した府県ブロック行政制度により、静岡県は東海・北陸地方行政協議会に編入され、それが敗戦直後の行政機構にも継承されていたためですが、関東への編入を望む声も強かったようです。
府県軍政部は大規模、中規模、小規模の3ランクに分けられましたが、東海・北陸では、当初静岡軍政部が愛知と並んで大規模軍政部に指定されました。軍政部のランクは占領軍の集中度、工業化の程度とタイプ、賠償施設や公安施設の範囲、府県の面積人口などの4項目を考慮して決められ、静岡県は大規模に該当しないはずなのですが、日本の事情の暗い占領軍が、おそらく面積等に注目して大規模に指定したものと考えられます。そのため、遅くとも46年12月までには中規模に格下げられました。
48年4月10日には、静岡軍政部が東海・北陸地方軍政部から独立して第8軍軍政局直轄となりました。第8軍直轄は他に東京と神奈川だけですが、東京・神奈川並みに重視されていたわけではなく、地理的・経済的に関東地区への編入を希望する声にこたえて、東海・北陸地方軍政部から分離させましたが、急に関東地方軍政部に組み込むわけにもいかず、宙に浮いた形でやむを得ず第8軍直轄となったのではないかと思われます。
一般に府県軍政部の役割は、日本の地方官庁の業務を監視し、その内容を上級機関に報告することでした。前述したように、占領軍は日本国民に直接命令を発して統治するのではなく、連合国軍最高司令官総司令部が日本政府に一括して指令を出し、日本の中央・地方の行政機関がその指令の施工を代行するという間接統治の仕組みがとられていたため、日本の業務の遂行を監視する必要がありました。
静岡軍政部の組織は、司令官-副官のもと、総務課、司法・行政課、公衆衛生課、社会福祉課、労働課、経済課、民間教育課、民間情報課、財政・民間財産課からなっていました。静岡のような中規模軍政部は、司令官1人、将校8人、下士官兵32人で構成される規定でした。中規模軍政部の司令官には中佐が任命される規定でしたが、静岡軍政部では7代にわたって6人の司令官が任命されました。副官はおそらく少佐で、司法行政や公衆衛生の担当将校を兼務していたようです。その他の各課の担当将校は大尉か中尉で、社会福祉と経済は専門知識を持つ文官が重視されていたと思われ、長い期間担当しました。
静岡軍政部では毎月『月例報告書』を第8軍司令部に提出しており、占領下の貴重な資料となっています。これを見ると、必ずしも間接統治の建前どおりには進んでいなかったようで、軍政部が労働争議に介入したり、教員への啓蒙活動を行うなど、監視業務の範囲を越えて積極的に政策推進にあたっていたことがわかります。
占領行政の具体的内容を見ると、政治・行政に関しては、基本的人権の侵害や地方有力者による「ボス支配」など戦前の旧弊とも言える問題を厳しく批判しながら、もう一方では共産主義の浸透に対して警戒感が表明されていました。また、県内の朝鮮人、中国人の動向にも強い関心が示されていました。
社会福祉、公衆衛生の分野では、占領初期に占領軍のための伝染病や性病の予防が重視されると同時に、戦争孤児、未亡人、引き揚げ者への対策が提言されています。さらに、新憲法が公布されて社会権の保障が具体化すると、それを推進するための行政機構が不十分であることが繰り返し批判されています。
労働問題に関しては、戦後改革の一環である労働民主化の推進のために、労働三法の順守状況や労働教育の拡充などを監視し、この労働争議や組合活動に強い関心が示されています。なかにはストライキ回避のために労組委員長と会社役員を出頭させ、「説得」や「勧告」を行った事例や、県教職員組合の再組織を勧めた事例も報告されており、占領行政が間接統治にとどまらず、労働運動へ直接介入をする場面があったことを示しています。
教育や民間情報も重視された分野で、日本人を啓発するために映画会や読書室を設けたり、精力的な学校視察を通じて問題点の改善を勧告した事例が多数報告されています。
1949年(昭和24年)7月1日、占領機構の組織変更があり、第8軍司令部の軍政局は民事局に、地方軍政部は地方民事部に、府県軍政部は府県民事部に、それぞれ改称されました。「軍政」の表現が「日本以外の占領地に行われている直接の軍政を意味するかのように誤解されることを避ける」ためとされ、さらに日本政府に次第に権限を委譲していく方針の表れとも見られていました。50年1月にはGHQ/SCAPに民事局(CAS)が新設され、その下に北海道・東北・関東・東海・近畿・中国・四国・九州の8つの地方民事部が置かれ、第8軍民事局と軍団・府県の民事部は廃止されました。地方軍政機構を縮小するのと同時に、占領開始当初から問題とされていた米国太平洋陸軍(第8軍)の総司令部と連合軍の総司令部の2つの総司令部の並立を解消し、担当官を軍人から全国的に文官に代えるためでした。
静岡県は49年12月から関東地方民事部の管轄となり、GHQ/SCAP が51年6月末に各地方民事部の地方行政監督業務を終了させて、地方民事部を廃止するまで続きました。静岡県の民事部の活動については、国立国会図書館所蔵のGHQ/SCAP文書から知ることができます。GHQ/SCAP文書のなかで、特に多い資料は民事部あての投書です。全国で50万通にのぼる投書が、GHQやマッカーサーに送られ、それをG2(参謀第二部)で翻訳・分析されて、日本人の実情と心理を知るための資料とされました。静岡県からも占領政策に関する県民からの投書や陳情が多く残されています。県民ばかりではなく、51年(26年)1月には県知事と静岡市長が連名で文書を送り、人事院が静岡市の公務員給与引き上げを認めるように、GHQの支援を求めています。
地方民事部が活動していた時期は、いわゆる「逆コース」が本格化した時期で、民事部も日本の官庁と連携しながら、府県レベルで労働運動や共産党の動向に関する情報収集に努めていました。
このように、静岡軍政部が廃止された後も、地方官庁の機構や県民からの投書を通じて、関東地方民事部は静岡県の実情を把握し、施策を指令していました。
次回は、「朝鮮人帰還事業と外国人登録令」というテーマでお話しようと思います。