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「概説 静岡県史」第175回:「電源開発と水利事業、戦後開拓」

 2025年最初の投稿です。今年は「昭和100年」で、昨年発売された『中央公論』2025年1月号でも特集が組まれていましたが、関連書籍やイベントもいろいろあって、改めて昭和を考える年になるでしょう。その意味では、この投稿も多少役にたつ部分もあるかもしれないなぁと思っています。 
 それでは「概説 静岡県史」第175回のテキストを掲載します。

第175回:「電源開発と水利事業、戦後開拓」


 1949年(昭和24年)8月25日と30日に県議会第二経済委員会が開催され、電力事業の分割に関する論議が行われました。これは「過度経済力集中排除法」適用に関連して、中央で検討されている電力事業の7ないし9分割案に対する検討です。7分割案では静岡県が関西ブロックに吸収されて「不利」であるというのが浜松地域の財界人の立場であり、浜松としては9分割案に賛成でした。関西に属すると何故不利かと言うと、本社、電源ともに関西に持っていかれるため、供給を受けるときに料金が倍になるというのが理由です。静岡市選出の社会党の下川儀太郎議員は、民主的方法として公営による一元的経営を要請しました。小林武治知事、は電源は静岡県として十分であるという見方を示し、関東ブロックに入った場合、余剰電力を売ることになるとして、県としては現状維持がよいが、分断されるなら関東に入りたい、関東編入の運動に、直ちに取り組んで良いと述べています。
 結局、富士川流域を境にして、明治期以来の東部の50ヘルツと中西部の60ヘルツの差異を利用して、東京電力と中部電力に分けられることになりました。
 48年(昭和23年)9月30日付けで、大井川農業水利事業計画との関連として、大井川用排水普通水利組合管理者の島田市長による請願書が県議会議長あてに提出されました。請願書は、大井川上流に電源開発のために大型ダム建設が予定されていて、これは志太・榛原両郡の灌漑用水の障害となる。当時でも日本発送電の崎平(さきだいら)発電所(榛原郡上川根村、旧本川根町、現在川根本町)によって水位が変動し、水稲栽培に弊害を及ぼしている状況にある。ついてはそうした状況を考慮してもらいたいというものです。関係する耕地は6000余町、農民は1万5000余人という広範な影響を与え、しかも地下の漏水が激しく、水持ちの悪い地域でした。大井川の水問題はこの時期に限らず、しばしば地域の農業活動に多大な影響を与えてきました。
 このように電源開発問題は農業水利問題と深く関連し、天竜川水系の磐田用水の場合、51年までに天竜川左岸の磐田原を中心として土地改良事業が本格化し、水利事業が一段落していました。磐田用水幹線改良事業が完成するまでは、この地域では水不足に悩まされただけでなく、高熱を伴う奇病が発生するなどの疫病問題も後を絶ちませんでした。この用水事業は、後に国営天竜川左岸土地改良事業の一環として、最終的に72年の船明(ふなぎら)ダム(旧天竜市、現在浜松市)建設により解決し、その後磐田原の農業の発展や中遠穀倉地帯の安定的農業生産が可能となりました。
 遠州一帯は、毎年のように干ばつと集中豪雨、洪水に見舞われ、田畑の流失も多かったことから、早くから集団的な水利事業への取り組みと関心が強く、しばしば県を通じて内務省や農林省への嘆願運動が組織された歴史を持っています。天竜川が一級河川として指定を受ければ、改修費用は国家主体となるため、河川改修運動で一級河川指定を受けることにも熱心に取り組まれました。
 戦後、富士山麓、三方原台地の開拓、東部の浮島沼干拓当等は、食糧増産との関連で積極的に取り組まれ、特に開拓事業は復員者や満蒙開拓移民の帰国者等に対する入植・営農事業として施行したものです。今日、富士山麓で乳牛の飼養が行われているのは、西富士開拓に入植した人々の並々ならぬ努力の成果です。一方、三方原台地の開拓事業の場合も、寒冷で地味もやせた場所だったため、ジャガイモなどの根菜、野菜を中心に限定した作物の生産を主としてきたことから、農業基盤を獲得するに至ったのは、ようやく1970年代に入るころからであったといいます。70年代初頭に収益が上がり始めて、まもなく国の農業育成方針が弱体化して後継者問題が深刻になりました。
 浜松市内から三方原を通る都田テクノロードは、通称「満州道路」と呼ばれています。 テクノポリス都田開発区の造成に合わせて整備を進めていた都市計画道路中ノ町都田線の浜松市街地と同開発区を結ぶ約6.1キロメートルのうち、平成3年8月6日に開通した浜松環状線の赤松坂交差点から都田開発区までの四車線3.7キロメートルは、開拓事業と併せて整備された幹線道路である「満州道路」の東側に都田テクノポリスへのアクセス道路として建設されたもので、これに伴い旧満州道路は自転車歩行者専用道路として整備されましたが、今なお総称して「満州道路」と呼ぶ住民は多くいます。これは入植者に満州からの引き揚げ者が多く、一本の幹線道路沿いに家が密集した街のつくりが旧満州の開拓地の集落に似ていたためで、旧満州の地名「白坦昭(ぱいたんしょう)」に由来する「白昭(はくしょう)」という地名も残っています。
 次回は、「天竜東三河特定地域総合開発計画と富士箱根伊豆地域総合開発計画」というテーマでお話しようと思います。

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