「概説 静岡県史」第145回:「戦時社会教育と幼児・障害児教育」
『現代思想5月臨時増刊号』が「アントニオ・ネグリ」だったので、とりあえずポチったのですが、1か月以上表紙だけを眺め続けています。これを読むためには、かなり集中しないといないし、そもそも途中で誰かに邪魔されるのも嫌なので読める機会を待っているのですが、未だにそのチャンスがなく、このままだと間違いなく夏休みでしょう。その方が落ち着いて読めるので、早く読みたい気持ちは強いのですが、仕方がないかなぁと思います。
それでは「概説 静岡県史」第145回のテキストを掲載します。
第145回:「戦時社会教育と幼児・障害児教育」
今回は、「戦時社会教育と幼児・障害児教育」というテーマでお話します。
1926年(大正15年)「青年訓練所令」が出され、中等学校に進学できない勤労青少年を教育する機関として設置された青年訓練所は、35年(昭和10年)に実業補習学校とともに廃止され、両者を統合して青年学校が創設されることになりました。青年学校は、通常、村の尋常高等小学校に併置され、小学校の校長と教師が青年学校の校長と教師を兼ねました。本来は男子・女子ともに通う学校であり、授業料は取らないものでした。しかし、39年「青年学校令」が改正され、高等小学校や中等諸学校在学者並びに中等学校四年修了者を除く、満12歳から19歳までの男子は青年学校への就学が義務づけられたことで、小学校に併置される形態から独立の校舎と校長を持つようになりました。
青年訓練所は、その設立が陸軍省と文部省との密接な協力の下に進められたという経緯からして、勤労青少年を対象とした軍事訓練に重きを置く教育機関でした。具体的には4年間の間に教練400時間、修身・公民100時間、普通学科200時間、実業科100時間というように、教練に最大の時間数を取っています。建前は公民の資質の向上がうたわれていましたが、実際に公民教育、実業教育の面で目立つものはなく、国家主義の注入と軍事訓練に力点が置かれています。市町村立の場合には実業補習学校に併置される場合が多く、その二重運営から、両者の合併が進められました。
青年学校は、普通科2年と本科5年(女子は3年)に分かれ、普通科は尋常小学校卒業者を入学させ、本科は普通科修了生または高等小学校卒業者を入学させました。青年学校は公立だけではなく、商工会議所や農会などの公共団体や私人も設置主体になることができたことで、静岡県では35年9月末までに市町村で公立405校、私立7校が誕生しました。
教育内容は、本科5年の1050時間のうち教練が350時間以上となっていました。4年以上在学し、教練科350時間、修身・公民100時間、普通学科、職業科250時間以上修めれば、学校長の課程修得の証明を受け、軍当局による修了者検定を受けることができました。検定に合格すれば在営期間半年短縮が認められ、在営期間が1年6か月となる特典がありました。なお、この特典はのちに青年学校義務制に伴い廃止されます。
1940年(昭和15年)6月、静岡県学務部長から「優良多子家庭表彰に関する件」の通牒が出されました。翌年1月に閣議決定される「人口政策確立要綱」による「産めよ殖やせよ運動」の始まりです。
堅実なる家庭を営み、子女を健全に育成するは、国民生活の根幹たる家
の基礎を鞏固ならしめ、国本の培養に寄与する所以なり、殊に多数の子
女を擁し、之が養育を全ふするは、一般の亀鑑となすに足るものとす。
仍て是等の家庭を表彰し、以て児童愛護精神の昂揚を図り、家族制度の
確保と国運の隆昌に資せんとす。
と通牒は述べており、表彰条件は、
一、父母を同じうする満六歳以上の嫡出の子女十人以上を自ら育成した
ること。
二、子女(六歳未満の子女をも含む、以下同じ)中死亡したる者無きこ
と。但し戦役事変に因り又は天災地変等避くべからざる事由に因り死
亡したる者は之を生存者と見做すこと。
三、子女は何れも心身共に健全なること。但し戦役事変に因り又は天災
地変等避くべからざる事由に因り、健全ならざるに至りたる者は、之
を健全なる者と見做すこと。
四、父母及子女は何れも性行善良にして、其の家庭堅実なること。
というものであり、身体壮健で軍事用務に就くことができる人材を要望しています。
同年11月、全国一斉に前記の条件を備えた親が厚生大臣から表彰されました。この運動が軍事的意味を与えられていることを示すのは、42年11月に表彰式が行われた後の「育児座談会」における県援護課長の発言に明瞭です。
我国の現状は、人を得ることが切なるもので、心も体も立派な者が沢山
必要なのであります。百年戦争を勝ち抜くのには、体も精神も強くする
ことが最も重要な国策であります。これからは日本は広い大東亜に我大
和民族を配置しなくてはならぬが、現在の人口では出来ないのです。茲
に於て政府は人口問題に関する協議をしました。其の結果、昭和三十五
年までに人口一億にするという国策を樹立して、色々な方策を講じて人
口の増強に努力して居るのであります。
満州事変から日中戦争へと進み、戦時体制が強化されていく中で、託児所(保育所)は農漁村民の生業を確保するという目的だけでなく、より積極的な意味づけが与えられるようになります。静岡県社会事業協会が1939年(昭和14年)に発行した『農繁期託児所の経営と其の実際』では、「今次事変の遂行に伴ひ、新東亜長期建設の重大時局に当り、銃後社会の協同団結と、次代国民の健全なる発言及生産力拡充等の総合国力涵養の上から見ても、本施設は刻下極めて喫緊の事業である」と述べられています。応召者が増える中で農漁村における働き手は不足し、生産力は減退していました。準戦時下で農漁村における生産力を維持し、健全な「良民」を育てるための託児所設立がさらに緊要の課題となっていきました。39年度の静岡市における農繁期託児所は、13会場で延べ99日、参加者の実人員は980人、延べ5261人が参加しました。
太平洋戦争が勃発すると、応召者は一段と増加し、出征者遺家族の乳幼児対策が一層求められるようになり、戦時保育所などが開設されるようになります。44年11月8日付け『静岡新聞』では、三島市における戦時保育所の開設を伝えていますが、それによると戦時保育所は市立幼稚園内に開設され、出征者遺家族の子弟3歳から5歳まで50人が収容されました。保育には幼稚園の保母と三島高等女学校の生徒があたりました。これにより遺家族は「生産方面へ進出」することになります。記事は続けて、一地区の季節保育所の開設に代えて、農繁期休暇中に弟妹のいない商家の国民学校高学年児童で子守部隊を編成し、農家に住み込みで奉仕させるという話が掲載されています。季節保育所の開設がためられるほど労働力が求められていたわけです。
1941年3月に公布され、4月に施行された「国民学校令」は「皇国の道に則りて初等普通教育を施し、国民の基礎的錬成を為すを以て目的」(第一条)とするもので、教育における戦時体制の完成を目指すものであり、同令施行規則はその第74条で「国民学校令第十一条に規定する過程」を行う学校として「盲学校及聾唖学校」を掲げています。盲学校、聾唖学校が国民学校と同様の教科編成を行うことになったのです。盲・聾学校の国民学校化は、障害児教育の進展ではありますが、盲・聾者を中心とした障害者が戦時下の産業労働の担い手として期待されたからですが、これは40年に「国民優生法」が制定されたことからも分かるように、障害児感が進展したわけではなく、国家総動員のためです。
戦争が激化するなか、一般生徒に加えて聾学校生徒も学徒動員されます。45年4月16日付け『静岡新聞』には、「天晴れ聾唖生徒/半年で三倍増産達成」という見出しで記事が掲載されています。
浜松聾唖学校生徒が戦場に進軍したのは昨年九月のことだったが、聾唖
者とはいえ普通人に一歩も退けをとらず増産一路に挺身、本年一月には
昨年十月の二倍、三月には遂に三倍増産の凱歌をあげ、目下五倍の増産
めざして懸命となってゐる。
45年に入り米軍機による空爆は激しさを増し、空爆目標である軍需工場に動員されていた学徒たちは絶えず空襲の危機にさらされていました。浜松市は4回の大空襲に見舞われましたが、5月19日の大空襲では浜松聾唖学校の女子生徒が犠牲となりました。この生徒に限らず、障害者は食糧不足による栄養失調など戦争により多くの犠牲を強いられました。戦争は健常者に対しても過酷でしたが、弱者である障害児者に対してはより一層過酷でした。
次回は、「社会運動の衰退」というテーマでお話しようと思います。