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歴史探偵エッセイ 2024in京都④

皆さん歴活してますか?
歴史探偵Qです!

今回も京都旅行の内容を書いていこうと
思いますのでよろしくお願いします。

前回の記事では、「新選組」に関する
史跡を中心に京都を歩いた記事を書きました。

今回のテーマは
「豊臣家を京都で感じる」です。

去年、京都へいった時に「瑞泉寺」と
いうお寺に行きました。

この「瑞泉寺」は、豊臣秀吉の甥っ子である
「豊臣秀次」の菩提を弔うために
創建されたお寺です。

そこから秀次という人間にハマりまして…
調べれば調べるほど興味深い人物です。

ある資料では「名君」と書かれていて
ある資料では「暗君」や「殺生関白」などと
真逆なことを書かれているという
不思議な人間だな・・・と思っています。

そこで今回は、京都で豊臣家に
関連する史跡を巡って来ましたので
ご報告させていただきます。

豊臣の城といえば「大坂城」ですが
京都にも豊臣の城がありました。

それが「聚楽第」です。

「聚楽第」というのは豊臣秀吉が
京都に造営した邸宅でそこで政治を行い、
のちに関白を譲った秀次が聚楽第で政治を
行うこととなりましたが…

秀次切腹後、秀吉により聚楽第は徹底的に
破却され痕跡がほぼ消えてるそうです。

消えた聚楽第のなかにも発見された聚楽第の
痕跡を色々巡ってきました。

松林寺

最初は、「聚楽第」の南外堀跡地です。
ここは松林寺の敷地に外堀があったと
言われています。

正直、どこが堀のあとなのかな?という
感じでしたね…笑

次に聚楽第の中にあった豊臣秀勝の邸宅跡に
行きました。ある会社の一角ですけどね。

この秀勝という人誰?と思う人が
多いともいますが、この秀勝という人は
先ほども出てきた秀次の弟で、
浅井3姉妹の「江」の2番目の旦那です。
若くして亡くなってしまったので
江は徳川秀忠と3度目の結婚をしました。

この写真は、聚楽第の調査報告も含めたもの
ですが聚楽第はあくまで伝承や資料としては
情報が少なく秀吉によって徹底的に
秀次の痕跡が消されているので
まだまだ謎の部分が多いそうです。


次に豊国神社に行きました。
この豊国神社は明治時代に再建されました。

初めの豊国神社は秀吉が亡くなった際に
秀吉が神として豊臣家を守るために
巨大な廟社を建てましたが…

後に徳川時代となり、秀吉が神になっている
というのはあまりにも都合が悪いので
豊国神社は廃祀となりました。

ではなぜ?
豊国神社が再建されたかというと…
明治維新時に徳川を倒す旗頭として
「豊臣秀吉」という神輿を担ぎ出し、
徳川時代から新時代へ変わっていく象徴として
利用したと言われています。

秀吉の像の後ろに写っている唐門は国宝と
なっていて、秀吉時代の伏見城から
色々の場所を経てこの地に移築された
といわれています。

また、秀吉の負の歴史としてあげられるのが
「朝鮮出兵」を挙げられる方が多いと思います。

私も秀吉は晩節を汚したと思っています。
ただ、ある歴史家は
「秀吉だけではなく、世界の歴史を見ても
国を統一した人物は他国へ侵略する」
と言っていました。
理由は、兵力を維持するためには戦い続ける
必要があるのと、自分に刃が向かないように
目を外に向ける為だそうです。

ちょっと説明が長くなりましたが
豊国神社の向かいには「耳塚」が
ありました。

この京都・豊臣記事の最後は「方広寺」です。

方広寺といえば「鐘」ですよね。
君臣豊楽・国家安康
はあまりにも有名ですよね!!

現場に行って感じたのは…

寺は非常にシンプルだな…てか入口どこ?
豊国神社側から入るの?

そして、徳川側はよくあの文字がたくさん
書かれた鐘の中から自分たちの都合の
良い部分を見つけたな!と思いました。笑笑

また方広寺の大きさ、豊臣家の財力を感じる
ものがありました。
それは石垣です!

石垣としては低いかもしれませんが
一つ一つの石の大きさは他の城郭に
負けていないと思います。

さらに当時の方広寺の大きさは、
南北に240m、東西に200mという巨大な敷地。

そう考えた時、方広寺の大きさ、
大仏殿の荘厳さを想像するとこの寺に
お金をポンと出せる豊臣家の財力、
凄さ、恐ろしさを容易に想像できますよね…
家康もそりゃびびるよと私も思いました。

最後に今回の記事は京都で「豊臣家」に
関連する史跡を巡ってきましたが
意外と京都にも豊臣の形跡はあるものだな〜
と思いましたし、一つ一つの史跡は
観光には向いていないとは思いますが、
この史跡を見て想像する時間は
本当に幸せの時間でした。

次回の記事も決して派手な京都、
観光地の紹介は出来ないと思いますが
色々紹介したいと思います。

よろしくお願いします。

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