
大人の修学旅行:京都旅エッセイ②秀吉による京都の城塞化「御土居」について
皆さん歴活してますか?
歴史探偵 金井裕太です。
これからの記事は京都旅行の
話をしたいと思います。
何本の記事になるかわかりませんが
お付き合いいただけると助かります。
今回の京都旅行の中心は前回の記事にも
書きましたが「京都における豊臣家」です。
※前回の記事も見ていただけると嬉しいです。
そこで今回の記事のテーマは……
「御土居」です!
お・・・御土居??なにそれ?
と思われた方も多いのではないでしょうか?
正直少し前の私もそうでした。
■「御土居」とは(京都市HPより引用・抜粋)
御土居は天下統一を成し遂げた豊臣秀吉が
長い戦乱で荒れ果てた京都の都市改造の
一環として外敵の来襲に備える防塁と
鴨川の氾濫から市街を守る堤防として,
天正19年(1591)に多くの経費と労力を
費やして築いた土塁です。
台形の土塁と堀(堀の一部は川,池,沼を利用)
からなり,その延長は22.5キロメートルに
及び,東は鴨川,北は鷹ヶ峯,西は紙屋川,
南は九条あたりにそって築かれました。
土塁の内側を洛中,外側を洛外と呼び,要所には
七口を設け,洛外との出入口としました。
江戸時代になると天下太平の世が続き,
外敵の脅威もなくなった御土居は次第に無用の
存在となり,今では北辺を中心に名残を
とどめるのみとなりました。
昭和5年(1930),市内に残る御土居の
うち8箇所が,京都の沿革を知るうえに,
また,広く我が国における都市の発達を
たどる重要な遺構として「史跡」に指定,
昭和40年(1965)にさらに1箇所
(北野天満宮境内)が追加され,現在9箇所が
指定地となっています。
といったように秀吉が京都の城塞化の結果が
「御土居」となっています。
今回は残っている御土居を巡ってきました!
①<西の京>
普通の住宅街の一角に神社とともに
一部石垣と土塁が残っている状態でした。
御土居の史跡というよりは町にある
お社という感じでした。



②<鷹ヶ峯南>
史跡の石碑がなければ本当に土手
にしか思えないくらい、生活に馴染んでおり
近くの団地は閉鎖されており取り壊しの
最中?だったのか町の雰囲気としては
すこし怖い場所にありました。


③<鷹ヶ峰北>
御土居の雰囲気が非常にあり、
土の盛られ方、石垣の残り方、
歴史の面白さを感じさせます。
その一方で興味がない人にはただの丘と
言ってもおかしくない場所にビジネスを感じ
「御土居餅」として販売する京都商人の
力強さも感じれる場所です。





④<紫竹>
ここは道路をはさんで2か所に渡って
御土居を確認することができます。
つながっていたと考えると御土居の
規模の大きさと歴史と道路や建物が御土居を
貫いていく現代生活とのコラボが
また面白いですよね。






⑤<大宮交通公園内>
大宮公園内の御土居は史跡としては認定
されていないそうですが、形や高さなど
公園内にあるので登れたり、体験できる
御土居と今後も残してほしいです。
また、公園としても交通公園として自転車で
走れるコースがあるみたいですので親子連れの
方が多くみられました。



⑥<大宮>
規模は史跡の中では最大規模で
これを数ヶ月で作られたと
誰も信じないでしょう。
それくらい御土居の大きさを間近に
感じられる場所となっています。




⑦<紫野>
この場所にある御土居は
正直に言いますとちょっとした
公園にある人工山です。
住宅地にあるのでこれが史跡として
残す限界だったのかなと思われます。



⑧<平野>
私が御土居に興味をもった最初の場所です。
BSの番組で磯田先生と千田先生が京都で
秀吉に関する番組をやっておりこの御土居が
紹介されてこんなものを秀吉は作っていたのか
と知ることになったのです。
そしてこの御土居には美しさすら感じ、
これが京都を囲っていたと思うと
圧巻の景色だったと思う一方で…
金・人・時間を膨大に使ってまで
この御土居を作った秀吉の執念と
すら思える気持ちに恐怖すら感じました。




⑨<盧山寺周辺>
京都府立医科大学周辺に
御土居の跡があり学生が歩く中、
御土居の写真を撮るおじさんの私。
少し恥ずかしかったです。


⑩<北野天満宮>
史跡認定されている「御土居」は
現在9か所となっており今回の記事では
<大宮交通公園>を含めましたが本来の
史跡認定されている御土居は
北野天満宮内にあるのですが……
今回行った際、御土居は見られる場所
「もみじ苑」が季節限定で見学できる
とは知らず開いていなかったので今回は
見学ができませんでした。
ちなみに公開時期は2回あり
・青もみじの公開
4月中旬~6月下旬
・もみじの公開
10月下旬~12月上旬
となっているそうですので見学される際は
私のように見学できないという不運に
見舞われないよう気を付けて下さい。笑
■まとめ
今回の記事では「御土居」という
京都観光の選択肢にすら挙がらない
京都の歴史を取り上げました。
正直私自身もスタンプラリーならぬ
御土居ラリーを京都滞在の1日に使ったのは、
ある意味、京都旅行者として贅沢な使い方
だったかなと思っています。
最後に、少し秀吉の話をして終わり
たいのですが……
この御土居、京都市の説明では
「長い戦乱で荒れ果てた京都の都市改造の
一環として外敵の来襲に備える防塁と
鴨川の氾濫から市街を守る堤防として,
天正19年(1591)に多くの経費と労力を
費やして築いた土塁です。」
と書かれているのですが、
これを額面通り受け取って良いものなのか…
皆さんに投げかけたいと思っています。
あの豊臣秀吉が平和の為に京都に
金と人を使うのかなと私は疑問を
持ってしまいました。
勝手な憶測ですが、私はこの御土居は
秀吉の「脅し」だったのではないかと
考えています。
秀吉は1591年に関白の座を甥:秀次に
譲り太閤となっています。
そして翌年に一回目の「朝鮮出兵」が
始まります。
豊臣政権をより盤石にするために
「朝廷」、「武士」、「寺社」、「農民」
に京都は秀吉の一存で情報も経済も人も遮断
することができ、京都は秀吉の手の中にあると
脅していたかもしれません。
もしかしたら、御土居の中(洛中)に
甥:秀次の政務所:聚楽第もあったので
甥の秀次にもプレッシャーを
掛けていたかもしれません。
そう考えると、御土居は堤防としての
役割もあったということは、
朝廷や寺社の一部では秀吉の得意技「水攻め」を
京都にも行うかもしれないということも
脳裏に浮かんだかもしれません…
あ~恐ろしい。
以上秀吉のことを考えたら、恐ろしい
事ばかり浮かんできますよね…
次回の記事も豊臣家に関することを
書こうと思います。
次回も読んでいただけると嬉しいです。
今回はありがとうございました。
了