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夢枕獏『陰陽師』を読んだ感想をクソデカ感情のままに書きまとめてみた

ここ最近、私の中に嵐を巻き起こしている一冊の本がある。

それが夢枕獏作『陰陽師』だ。

陰陽師と言えばの超がつく程の有名人『安倍晴明』と、管弦の名手と言われた武士『源博雅』が、平安時代の京を舞台に巻き起こる様々な妖怪、鬼、呪術といったものが起こす事件に立ち向かっていくこの物語。
初版は1991年に出版され、2020年、令和に入った今もなお後続シリーズを次々と出している人気ご長寿シリーズともなっている。

そんな陰陽師が今、私の胸の中に大嵐を巻き起こしている。
この胸の中に起きた嵐を自分の中にだけ留めておくには、あまりにも抱いた感情が大きすぎた。そこで、今回はそれに対し、私自身が整理をつけると言った意味も込め、『クソデカ感情(大の字)』に任せたまま書き連ねていこうと思う。

思いの丈を思うがままにぶつけた感想文となってしまっているので、読んでいただく際はその点をご理解頂いた上で見て頂けると助かる。

クソデカ感想その1.「そんなバカな」

そもそもなぜ、私がこの小説を2020年に入った今、読むことになったのか。
このクソデカ感情を書き記すには、そこから始めて行かねばならない。

きっかけは、とあるイラスト投稿サイトで見かけた『陰陽師』のプレゼン資料だった。陰陽師が大好きな絵を得意とするファンの方々が描いていたもので、それをたまたま見かけた事が、最初の『陰陽師』との出会いのきっかけだった。

そもそも最初に断っておくと、私は二次元が大好きなオタクだ。
故にそういうイラスト投稿サイトは、趣味でよく訪れていた。その時も、この小説とはまた別の陰陽師が出て来る小説シリーズのファンアートを眺めるべく訪れていたのだが、その時、関連に現れたのがこの夢枕獏先生の『陰陽師』をプレゼンする素敵資料だった。

そこで私が特に目を惹いたのが、メインキャラ『安倍晴明』と『源博雅』の二人だった。
多くのプレゼン資料が、皆この二人の関係が素晴らしいのだと訴えていた。

中には、目を見張る友人同士の会話に関する話もあった。友人同士、と言うにはなんというか、少々好意がとても行き過ぎている、仲が良すぎないか!? と目を見張る内容だ。

それを読んだ私は思った。「そんなバカな」と。
いくら公式の関係が素晴らしいものであれ、流石にそこまで行き過ぎたように感じる描写のわけはない。きっと、少々盛られているのだ。プレゼンする為の資料だ、そのぐらいあってもおかしくはない――。

だが実際に手にとり読み終えた今、私はこう思っている。



「そんなバカな(本当だった……)」(クソデカ感情)(大の字)


本当だった。盛ってなどいなかった。あれらは全て事実だった。盛っているとか、思ってしまって本当に申し訳ない。彼らの言葉は皆、ただの事実だった――。

たとえばこんなシーンがある。
一番最初に収められた話『玄象という琵琶鬼のために盗らるること』での事だ。

その話しでは、始まりの方で清明の屋敷にて博雅が、彼と共に酒を飲みあうシーンが描かれている。

そのシーンに、二人の女が出てくる。
最初の一人は玄関口で博雅を出迎えてくれ、もう一人は博雅に酒の酌をしてくれる。

博雅がその女二人の事を清明に「式か?」と訊ねる。すると晴明は「試すか?」と訊ねる。
夜になったら博雅の元に女を夜這いさせてみるか、と言うのである。

むろんそれは冗談で博雅をからかう為のものであろう。
「からかうな、ばか」と博雅も言葉を返し、その後は何事もなかったように酒を飲み始めている。

これを読んだ私は、混乱した。


「は? 仲良すぎか????(クソデカボイス)」


なんでお前ら、こんな仲いいの。
相手の性格や趣味、何がどこからどこまでOKでどこまで駄目なのか、完全に理解しているからできる会話だろ、これ。向こうも相手がそういう手のからからいをする奴だとわかっているから、怒っても一言で済ませられるパターンだろ。お互いにお互いへの気の許しがないと、ここまで気の置けない会話なんてできないだろ? 

お互いのことよく知り尽くしてる幼馴染かなんかなの、え、なに、この男子高校生同士のじゃれあい、青春の1ページみたいな日常会話、なんなの、なんなの????

さらに『蟇(ひき)』という話の中で、こんな会話のシーンがある。
二人が牛車に乗り怪異が起きた場所へ向かう中での会話である。

そこで晴明は自分には狐の子であるという噂があり、もしかしたら自分は人間ではなく妖物かもしれないぞ、と博雅に言う。それが本当ならばどうするか、と彼に尋ねるのである。

博雅は「切っていたかもしれない」と答える。根が真面目過ぎるので、妖物=切らねばならないもの、という考えが根底にあってしまうのだという。

しかし次いで博雅は「だから妖物だとするなら、ゆっくりと正体を述べてくれ」と晴明に頼む。そうすれば大丈夫だから、と。そしてその理由を「清明が好きだから、刃を向けたくないのだ」と語っている。


「え? 告白した????(クソデカボイス)」


いや、わかっている。二人の間にあるのは、あくまでも『友情』の二文字。
博雅の言葉の前には「友として」という言葉が絶対に存在している事ぐらい、わかっている。

だがしかし、未だかつて、ここまで素直に友への好意を述べるキャラを私は見た事があっただろうか。いや、ない(クソデカ反語)。私は、こんなにも素直に綴られている好意を見た事はない。

この瞬間、完全に私はこの二人のキャラの関係性に魅了されたと言っても過言ではないだろう。
そして言うなればそれは、私が『陰陽師』という作品に魅了され始めた最初の要因と言ってもおかしくはないものであったのだった。


クソデカ感情2、博雅様、ぐう聖か……(ぐう聖:ぐうの音も出ないくらいの聖人)

そうこうして二人の関係性の深さに、クソデカ感情を培っていく中、それとはまた別で私の中い新たなクソデカ感情を生み出していった男がいた。

それが源博雅だった。
彼はもう駄目だ。彼程、まっすぐにこちらの心を突き刺して来た男はいない。

博雅は先も言った通り、管弦の名手とされている武士だ。それは本文によれば、今昔物語にも記載されている史実であるらしい。

そして先の『玄象という琵琶鬼のために盗らるること』は、そんな彼の逸話に則って書かれた話のようである。

羅生門にいた妖物から琵琶の名器「玄象(げんじょう)」を取り戻す話であり、その中で彼が羅生門の上にて奏でられている玄象の音に惹かれて、羅生門までやってきたことが語られている。しかし、相手の素性を訊ねた際に驚かされた事が原因で、正体を突き止めるのに失敗する。

しかしここからが彼の真骨頂である。

翌日もまた、彼は音が奏でられている羅生門へと出向いた。
そうしてなんと、正体を突き止める為に羅生門を上り始めたのである。


読書中の私「羅生門を……、のぼ、る……?(クソデカ困惑)」


ちなみにグー〇ル先生に頼って調べてみたところ、羅生門の高さは約七十尺――つまりは、約21メートルある、とのこと。

それをのぼった武士、源博雅。


「お前こそ、人か?(クソデカボイス)」


結局は途中までのぼったところで、それは終わるのだが、いや、しかしだからと言って羅生門をのぼるという発想にどうしたら至るというのか。

当初私は源博雅というキャラは、相方の安倍晴明という人物が特殊故に、きっといい意味でそれを緩和させる、読者に寄った常識的な視点のキャラクターとして描かれているのかもしれない、と思っていた。

実際、彼への第一印象は生真面目な男、というものだった。
女を夜這いさせようか、という清明に、ばかと返す博雅からは、なんだかその手の事には奥手な印象を受ける。きっと良い意味で生真面目な人なのだ、とそう思った。

しかしよく考えてみれば、彼は安倍晴明という、特殊な人物と酒を酌み交わせるような『友』なのだ。
そんな人物が普通の筈がない。

言うではないか。類は友を呼ぶ、と――。

さらに同じ話の中で、彼に関する逸話がもう一つ語られている。

それが老法師『蝉丸』が奏でる秘曲を聴く為に、彼の元に三年も通いつめた、という話である。

蝉丸は琵琶の名人であり、彼の奏でる秘曲『流泉』『啄木』を聴きたいが為に、三年もの間こっそりと彼の元へ通い続けたのだという。
それも蝉丸本人に直接頼み込んでも弾いては貰えない事がわかっていたので、彼が弾きたくなる瞬間がやってくるのをじっとこらえて待ち続けたのだという。

唖然とする。なんとも一途な人物なのか。
聴きたいと思った、ただそれだけの想いで、ただじっとその時が来るのを待ち続ける。言うのは簡単であるが、実行するのは難しい筈だ。人の心は移ろいやすいとは、よく言う。その三年の間に、他にも彼の心を揺さぶるものが起きていたっておかしくはない筈だ。

だが、彼は三年、通い続けた。三年、ただひたすらに待ったのだ。

さらに後に知った話によると、彼はそこそこ地位のある人物だったようだ。その血筋をさかのぼると祖父にあたる人物が醍醐天皇の名があるなど、その身分権威は高いものを簡単に察する事ができる。

きっとそれらの権威を用いれば、蝉丸に秘曲を奏でさせることができなのかもしれない。
しかし彼は蝉丸が弾きたくなる瞬間を待った。それはきっと彼自身が管弦の名手として、それを弾き奏でる者として、『奏でる』という事がどれほど大きなことであるかを理解していたからに違いない。

とすると、この三年という数字は、そんな彼の雅楽への深い愛を表現しているように見えて致し方ない。

先の『蟇』での言葉も、きっとこのまっすぐさ、言うなれば『一途が服を着て歩いている』とでも言いたくなるような、そんな実直さ故の言葉だったのだろう。

そう思うと、なんというか……、


「博雅様、ぐう聖か……(涙)(クソデカボイス)」


クソデカ感情3、お前らどっちも「いい漢」だよ、ばか涙

と言っても、むろん、博雅ばかりがよい人間として描かれているわけではない。
安倍晴明だってまた、一人の人間として深く個が描かれている。

安倍晴明と言えば、鬼才の陰陽師。式神も操れるし、不可思議な呪術だって使える。さらには今本では顔も整っており、外見も非常に魅力的な男性となっている。

現代の言葉で言うなれば『完璧無敵のチート主人公』とでも言えようか。
そんな人物だ。

けど、そんなチート陰陽師に、チラッと垣間見える人間性のようなものが、この作品の中には多々詰め込まれている。

特に私が涙してしまったのは、先の『蟇』の会話シーンだ。
実はあの会話にはまだ続きがある。

会話の最後の方で博雅は「晴明が妖物であっても、自分はお前の味方だ」と告げるのだ。
それを聞いた晴明が「よい漢だ」と彼に言葉を返し、この会話は終わる。

このシーンを読み終えた時、私はその短い言葉の中に詰め込まれた、この物語の安倍晴明という人物の息吹きを深く感じた気がした。

安倍晴明という特殊な人物。
京一の陰陽師として京を守った彼だが、しかしその特殊な身の上故、ずっと孤独だったのではないだろうか。

この本の中では、安倍晴明の過去に纏わる話はほとんど描かれていない(もしかしたら続刊では描かれているのかもしれないが、今の時点での私は、まだ二巻を購入したばかりなのでわからない)。
だが、「孤独」という言葉について言及しているシーンは、『白比丘尼』という話の中で書かれている。

そこで晴明は「人は、独りよ」と言っている。

1人で屋敷で暮らす清明に、博雅が訊ねた「人恋しくないのか」という問いへの返答だ。
生まれついた頃から皆独りで寂しいから、別にここで1人で暮らしているせいで寂しいと思っているわけではない、と彼は返すのである。

だが、なぜ清明がそう考えているのかは、この会話の中で言及されていない。
人が生まれたその瞬間から独りであるという、その物の考え方は、はたして一体いつ彼の中に生まれたのか。もしかしたら、そこには、彼のこれまでの孤独な人生の姿が隠されているのかもしれない。

そう読み解くと、あの『蟇』のシーンはやはり、安倍晴明という人物の個が深く書き込まれているシーンだと感じてしまうのだ。

晴明は『蟇』のシーンで、実はほとんど喋らない。
大体はふざけた問いかけをしてきた友に怒る博雅の言葉に相槌を打ち返すだけとなっている。一度、二度程、博雅の言葉の意味を問い返したが、その程度であとはほとんど博雅の言葉がつらつらと綴られている。

彼はどんな気持ちで、この友からぶつけられるまっすぐな思いを聞いていたのか。
それを想像しようとすると、この短い相づちの中には、何か深い、言葉では表現しきれない安倍晴明というキャラクター像がそこに浮かび上がってくるような気がする。

そしてそれらを全てを詰め込み、まとめた言葉がきっと「お前はよい漢だ」という言葉だったのだろう。
この言葉は、本編内で事ある事に晴明が博雅へよく言う言葉でもある。

時には褒め言葉として、時には友としてのからかいの言葉として。使う場面は、その時折々だ。

そんな日常の中で使う何気ない言葉。
それを『友』としての好意を伝えるまっすぐな男に応える為に使った晴明の姿は、なんと不器用な事か。
しかし素直に言えないなりの男の、まっすぐな思いがその言葉には乗せられている事もよくわかり、思わずその『友』という尊い二人の関係性に私は心打たれてしまった。

愚直なまでに素直にまっすぐな男と、なんでも出来るように見えて不器用な男。


もうお前ら、どっちも「いい漢」だよ……(感涙)(クソデカボイス)


現在、私の手元には陰陽師の二巻にあたると思われる『陰陽師 飛天ノ巻』がある。

その裏表紙のあらすじには『名コンビの活躍、すがすがしくて、いと、おかし。』と書かれている。
それはきっと怪異を解決する二人の活躍そのものを指す言葉であると同時に、短くもさらりとした言葉の端々から感じられる、彼らという人物自身の心情風景に関しても述べられているものなのかもしれない、とふとそんなことを思う。

あぁもう、


『陰陽師』めっちゃ好きじゃん、ばかっ(クソデカ感情ラスト)


今後も期待大でシリーズを追いかけさせて頂きたい。

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勝哉道花|創作家(小説)
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