朝廷最大の実力者・藤原道長の生涯 〜権力の座をめぐる同族間の骨肉の争い〜
歴史No.1雑誌『歴史人』2月号から抜粋された記事を、無料で全文を大公開!
今回は、平安時代において最も名高い公卿である藤原道長についてです。
生誕から、熾烈を極めた藤原北家における天皇外戚をめぐる争い・・・。
身内どうしの過酷な抗争はなぜ起きたのか?
道長はどうやって、権力の座に着いたのか?
第一線で活躍する歴史研究者&歴史作家が、平安時代にひときわ大きな権力を握った藤原道長の人生に迫ります。
監修・文/樋口健太郎
朝廷最大の実力者になった藤原道長 誕生から没年までの生涯を徹底解明!
外戚の地位をめぐる
同族間の骨肉の争い
康保3年(966)、藤原道長は兼家の四男として誕生した。兼家の家系は代々天皇と外戚関係を結び、摂政・関白(摂関)の地位を継承してきた藤原氏北家の主流に当たる。道長が生まれた頃、村上天皇は兼家の姉安子との間に皇子憲平をもうけて皇太子に立てており、兼家も将来、天皇の外戚になることが約束されていた。
だが、道長が生まれる6年前の天徳4年(960)、兼家の父である右大臣師輔は摂関にならずに死去し、道長が誕生した頃には、師輔の兄である実頼が左大臣として政権を主導していた。しかも、兼家の上には兄である伊尹・兼通が存在した。このことから考えると、兼家は道長が生まれた頃には全く期待される存在ではなかったといえるだろう。
ところが、道長誕生の翌年、村上天皇が没し、皇太子憲平が即位して冷泉天皇となると、兼家は40歳にして頭角をあらわしはじめる。冷泉は病弱で精神を病んでいたといわれるが、兼家はそんな天皇に気に入られて蔵人頭となり、安和元年(968)11月には従三位の位階を授けられて公卿となった。
この昇進で、彼は従四位上であった4歳上の次兄兼通の位階を追い抜いたのである。しかも、安和3年5月、伯父の摂政実頼が没すると、長兄の左大臣伊尹が代わって摂政となったが、2年後の天禄3年(972)11月、伊尹は49歳の若さで急死してしまう。これによって兼家は兄弟の中で官位トップとなり、将来の摂関候補として急速に台頭したのである。
ただ、兼家はそれから、すんなりと摂関になれたわけではなかった。精神を病んだ冷泉に代わり弟の円融天皇が即位すると、冷泉の側近だった兼家は遠ざけられて兄の兼通が重用された。円融は伊尹が没した後の関白に兼通や、実頼の子の頼忠を任じ、反対に兼家は出仕を停止されて失脚したのである。
それでも、兼通・頼忠が入内させた娘が皇子を生まないなか、兼家が入内させた娘詮子が天元3年(980)、皇子懐仁を出産すると次第に状況は変わっていった。永観2年(984)、円融が退位すると、冷泉の皇子である師貞親王が即位して花山天皇となり、懐仁が皇太子に立てられたのである。
道長の出生とその一族 道長を輩出した藤原北家と父・兼家の謎
一条天皇の即位と
藤原道長の累進
一方、円融に代わって即位した花山天皇の母は死んだ伊尹の娘懐子であった。そのため、花山には後見となる貴族がいなかったが、花山が即位すると、兼家の弟である大納言為光が娘忯子を入内させた。花山は忯子を寵愛するとともに為光を外戚に準じて重用し、永観2年末、忯子は懐妊した。
ところが、翌寛和元年(985)7月、忯子は出産前に急死し、花山は深く落ち込んだ。これを見た兼家は策謀に打って出る。花山の蔵人であった二男道兼に命じて花山を出家に誘導させ、天皇は寛和2年6月、密かに内裏から東山の花山寺に入り、出家して退位したのである(寛和の変)。これに伴い、皇太子懐仁が即位して一条天皇になり、兼家はようやく天皇外祖父として摂政に任じられた。
こうしたなか、道長は一条天皇の即位とともに蔵人に任じられると、同じ年のうち従五位下から3階級昇進し、従四位下になった。そして、翌永延元年には22歳で公卿になった。道長には13歳上の長兄に道隆、5歳上の次兄に道兼がいたが(二人とも母親も道長と同じ)、道隆の公卿昇進は32歳、道兼は26歳の時だった。兼家は遅咲きで、58歳にしてようやく摂政になったため、兼家の出世は、道隆・道兼より若い道長に多大な恩恵をもたらした。
この時期、摂関は天皇の外戚から任じられたから、その子に摂関を継がせようとすれば、外戚関係を再構築しなければならなかった。その場合、外孫が生まれても伊尹のように、その即位を見ることなく死んでしまうと、摂関の地位を子に継承することはできなかった。そう考えると、兼家は道長に貴重なボーナスタイムを残したといえる。
摂関の地位をめぐる権力闘争 身内どうしの過酷な抗争はなぜ起きたのか?
天皇外戚争いで
先行する兄・道隆
道長は永延元年(987)、従三位に叙されて22歳の若さで公卿に昇進すると、翌年3月には参議を飛ばして権中納言に任官した。道長の昇進は兼家の昇進などから比べるとスピード昇進であった。だが、一方であくまで道長の上位には兄である道隆・道兼がおり、兼家は特に道隆を後継者として考えていたようである。永延3年2月、道隆は内大臣に昇すると、永祚2年(990)5月、兼家より関白の地位を譲られたのである(兼家は永祚2年正月、一条天皇の元服にともない、摂政から関白に転じていた)。
道隆は東宮学士高階成忠の娘貴子と結婚し、伊周・隆家の2男をもうけていた。彼は関白になると伊周を後継者とし、彼への摂関世襲を図りはじめる。永祚2年9月、伊周は17歳で蔵人頭に任じられ、翌正暦2年正月、参議に任官して公卿になると、同年9月には権中納言に昇進した。道長は伊周の昇進と同時に権大納言に昇進しているが、正暦5年(994)、伊周は21歳にして内大臣に昇進し、29歳の道長を抜き去った。
また、道隆は兼家生前の永祚2年正月、長女定子を一条天皇に入内させ、正暦6年正月には、二女原子を皇太子居貞親王と結婚させて、皇太子妃にしている。天皇外祖父となるべく着々と外戚関係の構築も進めていたといえよう。『枕草子 』の作者である清少納言定子に仕えた女房で、華やかな道隆一家の様子を『枕草子』のなかに描いている。
だが、そんな折り、正暦5年11月、道隆は病に倒れた。彼は酒好きで、しばしば酔態をさらしており、深酒によって命を縮めたようである。それはともかく、翌年3月、病床の道隆は、天皇に病気の間、伊周が彼に代わって政務を執ることを認めるよう願い出た。天皇はこれに応じて伊周を関白に准じる内覧の地位に任じた。道隆はなんとしてでも、伊周への摂関世襲を実現させようとしたのである。
しかし、長徳元年(995)4月10日、道隆が43歳で没すると、天皇は道隆の弟である右大臣道兼を関白に任じた。先例では摂関は天皇の外祖父や外舅(伯叔父)から任じられることになっていたが、道兼は天皇の外舅に当たり、伊周は天皇の従兄弟に過ぎなかった。伊周は内覧の経験があるとはいえ、天皇は先例を優先したのであろう。
兄たちの急死と
道長と伊周の対立
一方、この年の4月から5月にかけ全国で疫病が流行し、朝廷でも中納言以上の8名が相次いで死去したが、そんななか、関白になったばかりの道兼も5月8日に死去した。ここに再び関白人事が問題となったが、結局政権を射止めたのは伊周ではなく、道長であった。
道長は道兼同様、外舅であったうえ、道長のバックには一条天皇の母である東三条院詮子がいた。詮子は一時期道長と同居し、彼女が養育していた娘( 源高明娘明子)が道長の妻となるなど、兄弟のなかでも特に道長と親しかった。彼女は正暦2年(991)に出家して初めての女院となっていたが、以降も天皇に影響を与えており、道長を後継とするよう天皇に働きかけていたのである。
これに反発した伊周は7月、公卿会議(陣定)が行われる仗座で道長と口論に及んだり、道長と伊周弟隆家の従者どうしが七条大路で闘乱になったりと、衝突を繰り返した。しかし、結局、長徳2年正月、伊周は自滅した。伊周は藤原為光の娘のもとに通っていたが、ここで花山法皇に鉢合わせした。花山は亡き后妃忯子の妹を寵愛し、為光邸にしばしば通っていたのである。ところが、同じ女性に通っていると勘違いした伊周の従者は、花山の従者と乱闘となり、法皇側に死者まで出た。
この一件を受け、天皇は伊周を大宰権帥、弟の隆家を出雲権守に任じて左遷する命令を出した。これに対して、伊周兄弟は定子の二条北宮に籠城して抵抗したが、天皇は検非違使に命じて扉を破壊させ、邸内を捜索させた。伊周は密かに御所を脱出して、西山へ逃走したが、結局捕まって九州へ送られたのである(長徳の変)。
最新号 『歴史人』7月号
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