<小説>半夏生(はんげしょう)の男⑤ ~前田慶次米沢日記~
五
兼続の屋敷を訪ねてから数日後の朝、いつも朝餉の支度に来るきえが遅れてきた。珍しいことである。慶次郎は咎めなかったが、目が泣きはらしたように腫れているのが気になった。
「どうしたのだ」
「……なんでもねえす」
給仕の間も、きえは顔をそむけて答えようとしなかった。
不審に思った慶次郎は肝煎宅を訪ねた。あいにく肝煎は不在だったが、女房が出てきた。
「きえに何かあったのか」
「それが……」
ふだんはよく喋る女房が口ごもった。
「無理に話さずともよい」
「いえ」
生来が話好きの女房は身を乗り出して一気に喋った。
きえの次兄文次は、城下の地番匠町で大工見習いをしていた。今年十八になるが、筋がよいと棟梁も目をかけていたという。
ところが先日、文次は建築現場近くの商家で喧嘩騒ぎを起こし、左足の腱を切られて二度と現場に立てなくなってしまった。
いきさつは商家の娘が破落戸たちに乱暴されそうになったところを止めに入ったが、逆に手ひどく痛めつけられた挙句、足の腱を切られたというものである。
喧嘩の相手というのが他ならぬ澤ノ岩とその一党だった。
文次の足は医者の診立てでも治る見込みはなく、大工の道を諦めざるをえなくなった文次は絶望して首をくくった。幸い発見が早かったため一命は取り留めたが、今は家に引きこもっているとのことだった。
慶次郎はその夜も悪い夢を見た。夢に現れたのは例によって織田信長、柴田勝家、そして前田利家である。利家は慶次郎を嘲った。
「お前は上杉に就いたことを悔いているのだろう。今さら前田に戻りたいと言っても遅いぞ」
――誰が前田になぞ戻るか!
慶次郎は叫んだが、利家ばかりか信長や柴田勝家もそろって嘲笑をやめなかった。
*
前田利家と慶次郎とは浅からぬ因縁がある。
慶次郎は元は滝川一益の一族の生まれで、尾張荒子城主だった前田利久の養子となった。順当にいけば、やがては慶次郎が荒子城主に就くはずだった。
ところが主君信長の命により、利久は末弟の利家に家督を無理やり譲るはめになった。その非情な命令を伝えに来たのが織田家の宿老柴田勝家である。
前田利家は信長亡きあとは豊臣秀吉に仕え、加賀百万石を領する大大名に上り詰めた。
慶次郎はのちに利家の家臣となったが、勘気を被って前田家を出奔した。その理由が、真冬に利家を家に招き、湯と偽って冷たい水風呂に入れるというひどい悪さをしたのである。おまけに利家の愛馬を奪って逃げたというのだから信じ難い大乱心である。
ただしこの水風呂の一件は、江戸後期の随筆集『翁草』に記された逸話で、信憑性は低いようだ。
*
悪夢から覚めて、慶次郎は気を鎮めようと身づくろいも忘れて茶を点てた。
茶碗は例によって白天目である。しかし今日の茶は苦みばかりで少しも旨くない。手にした白天目も冷たさばかりが伝わって不快だった。
それに反して身体は内から熱くなってくる。
慶次郎がぐっと力を込めたとたん、手にした白天目茶碗が二つに割れた。知らず知らずのうちに力を込めすぎたのである。
慶次郎は茫然とした。金は惜しくはないが、旨い茶が呑めると気に入っていた茶碗だけに喪失感は大きかった。
慶次郎は身体の中に湧き立つ憤りを鎮めようとした。だが感情を抑えるほどに体中が痒くなり、座っているのも耐え難くなった。
慶次郎は畳の上でごろっと横になり、庵の柱や天井を見上げた。
そこではたと気がついた。これは我慢すべきものではない性質のものである。
――そもそも、この義憤を鎮めようとすること自体が間違っていた!
そのことに気づいた慶次郎は勢いよく上体を起こし、大きく息をついた。
耳が熱くなっている。恥ずかしかったのである。
――俺は忘れていた。こんなときは意地を通すしかないのだ。
意地とは傾奇者としての意地である。己れが正しいと思うことをし、生きたいように生きる。加えて慶次郎の場合は、弱者を助けるためなら命を賭すことも厭わぬという侠気である。それを失っては、傾奇者の名がすたる。
問題は藩や兼続にどう落とし前をつけるかだ。
慶次郎は文机に向かうと兼続に宛てて文をしたためた。致仕届である。書くほどに心が晴れ晴れとして筆が勢いづくのが分かった。
久しぶりに、身体の内から火が熾(おこ)ってくるような感じを覚えた。このまま北の大地で静かに人生を閉じるのも悪くないと思っていたが、腹に飼っている〈いくさ人〉の虫はまだまだ衰えそうもなかった。
慶次郎は寺の小僧に小遣いをやり、直江邸まで文を届けるよう頼んだ。
それが済むと、動きやすいように地味な筒袖の着物と裁付袴に着換え、脚絆をつけて徒歩で出かけた。菅笠を被り、腰には大脇差を一本差したのみである。
向かったのは澤ノ岩が根城にしている粡町の商家である。
粡町の手前の通りを歩いていると、左手の呉服屋の中で何かが壊れるような音がした。
「誰か、お役人を!」
店を飛び出してきた女が叫んだ。 (つづく)
◆<戦国きっての傾奇者>と呼ばれた前田慶次が、晩年を過ごした米沢での暮らしぶりを描いた小説です。親友である上杉家家老の直江兼続との交流や、老いてなお盛んな慶次の活躍を綴っていきます。
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