易姓革命を防いだ魔法とは? ④
神功皇后について、興味深い事実があります。
彼女の扱いが、『古事記』と『日本書紀』では大きく異なることです。
『古事記』では、神功皇后はあくまで十四代仲哀天皇の后としての記述があるだけです。神がかりしたことや新羅征伐をしたことなどが書かれていますが、あくまで仲哀天皇の条の一部です。
これに対し『日本書紀』では、タイトルも「気長足姫尊(おきながたらしひめのみこと)」として、わざわざ一巻(巻第九)を割いて扱われています。文字量も夫の3倍以上あります。
「天皇の奥さん」扱いから「天皇と同格」へとすごい出世です。こんな人は他にはいません。
「皇后」なのに条が立っていること自体が異様です。
ちなみに神武天皇は「巻第三」で単独の扱いですが、二代綏靖天皇から九代開化天皇までは「巻第四」一巻の中でひとくくり。さらに「巻第七」も十二代景行天皇と十三代成務天皇のセットです。
言葉は悪いですが、書くことがあまりなかったので一括りにされたという印象です。
それにひきかえ神功皇后は、くどうようですが「皇后」なのに単独で条を立てられ、しかもかなり詳しい。
これはもう「ほぼ天皇」といってよい扱いですね。
これはなぜか?
明確な答えはわかりません。しかしこういう想像はできます。
『古事記』から『日本書紀』編纂までの8年の間に、天皇家の系図の中に卑弥呼の存在をより明確に入れる必要に迫られた。
そこでわざわざ「神功皇后」の条を立て、「倭人伝」に書いてある記述をパクって「卑弥呼イコール神功皇后」を演出したのだと。
8年の間にこうしたトリックを編み出したというのが私の推論です。
ちなみに「書紀」には卑弥呼は2回登場しています。1回は天照大神として、そしてもう1回は神功皇后としてです。
「書紀」が編纂された西暦720年といえば、唐では玄宗皇帝の治世が始まって間もないころ。
少し前に玄宗の祖母・武則天(則天武后)が女性初の皇帝に就いたこともあり、本来は天皇だけを記すはずの『日本書紀』に、例外的に皇后の条を立てることのハードルが下がったのかもしれません。
そして卑弥呼イコール神功皇后にすると好都合なのは、3世紀に実在した卑弥呼が初代神武天皇より13代も後の世代となることで、神武天皇の年代が必然的に数百年~も繰り上がることになることです。
神武天皇即位が紀元前660年という話も、無理筋ではなくなるわけです。
ここまで書いてきて思い浮かんだのが、「歴史は勝者によって作られる」という言葉。
そこには必ずしも真実ばかりが語られているわけではない、との意味も滲ませた、含蓄のある言葉だと改めて感じます。
今回で邪馬台国と神武東征に関する私の論考はひとまず終わります。
次回は自分の病気について、少し語ってみます。
★見出しの写真は、みんなのフォトギャラリーから、motokidsさんの作品を使わせていただきました。ありがとうございます。
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