AroAceの文章はなぜ心に響くのか
恋愛感情として他人に惹かれないアロマンティック(Aロマ、Aro)、
他人に性的に惹かれないアセクシャル(Aセク、Ace)、
他にも名前はいくつもありますが、いわゆるAroAceと呼ばれる界隈の人の文章はとても自分の心をひきつけます。しかも、今まで読んだ小説、エッセイ、ノンフィクションとも違う形で。一体なぜなんでしょうか。
自己紹介
本題に入る前に簡単な自己紹介をさせてください。(他の文章で読んだことがある人は次の見出しまで飛んじゃってください)
私、れいすいきと申します。
他人に対して恋愛感情を抱くこともなければ、性的に惹かれたなーという経験もない、そんな人生を歩んできました。
性別は男で、20代後半。男性にも女性にも恋愛的な感情で「好き」と思ったことはありません。
そんな私はアセクシャル(Aセクシャル、ace)で、アロマンティック(Aロマンティック、aro)のスペクトラム上に位置していると自分自身を定義しています。(今まで恋をしたことがない、恋愛感情が薄いグレーAロマなのかなとも思ったりしますが、詳細は割愛します)
①近い境遇を歩んでいるから
さて、冒頭の問いですが、前提として読者がもともと近い境遇で共感しやすいというのはあると思います。
20年以上生きてきて、身の回りでAroAceと思われる存在なんていませんでしたから、その言葉が新鮮で、最初その単語を知った時は、「え?なんで分かるの?一緒なの?」と心が感動をおぼえました。
そういった文章には、共感をおぼえる体験が綴られています。
わかるわかる。
あるある。それで苦しい思いをしていたのは自分だけではなかったんだ。
自分にもこういうことあった、と心を打つ経験がAroAceの文章では語られている。だから心を打つのではないか、というのが一つ目の理由です。
いや、それ当たり前でしょ。そう言いたくなる人もいると思います。
プロ野球好きがJリーグ好きの文章にはさほど感動しないけど、プロ野球好きの文章には感動するように、同じ志向、好みの人たちは心に響くポイントが似ているはずだ、と。
たしかにその通り。
ただ、AroAceの文章が心に響く理由は、単純な共感だけではありません。
②自分の心情への考察が深いから
AroAceの方なら、こういったことを言われたことが1回は、というより何回もあったと思います。
『ジョジョと奇妙な冒険』第4部にて、吉良吉影が「質問を質問で返すなあーっ!!」と言ったように、一般的に質問に対しては何かしら「答え」を出すことが求められています。
最初は「わからない」と答えていても、何度も質問されていくと、答えを見つけなくてはいけないのかな?と思えてくるものです。
ちなみに先ほどのジョジョの吉良吉影は続けてこうも言っています。
学校では同様に「わからない」と答える、もしくは「わからない」という状態は良いこととはされていません。疑問に疑問を返すのは、話を聞いてないのかというふうに言われかねません。
個人的にはわからないことはわからないで良いと思っています。ただ自分が歩んだ学校では、しっかり学び考えていたら「わからない」という答えにはならないという雰囲気を感じていました。
自分の場合、その傾向は日常の会話にも影響していて、「分からない」で生じる会話の停滞を避けたいと思えてくるのです。
だから、答えを必死に探します。少なくとも自分はそうでした。
自分の中で納得出来ないものでもいいから、会話が止まらないように「答え」を見つけなくては。
そう思って出てきた答えは、
といったものでした。
これらの答えは事実といえば、事実なのですが、急場しのぎでとりあえず出した答え。なので、そこに実感も心情も込めていませんでした。
ただ、こういった答えを探すことが、自分の人生を振り返り、自分はどんな人間かエピソードなどを思い出すきっかけとなりました。
もしかしたら他のAroAceの方も、答えを探すため、過去を掘り起こすうちに自分自身を表現する人間性やエピソードを発見しているのではないでしょうか。
自分自身をつぶさに見つめ、エピソードも混じえて表現しているからこそ、共感できる文章が出来上がる。AroAceの方々の文章を読んで、目頭を抑えてしまう、そんな文章ができあがる理由は悲痛なまでの自己分析にあると感じています。
③悪魔の証明に挑んでいるから
AroAceは非常に数が少ないとされています。だからこそ、想像がつきづらい多くの人にとって"いない"ものとされてきました(今もされています)。
イギリスで行われた成人を対象に行われた調査では人口の約1%はアセクシャルではないか、という結果が出ています。(以下の文献になります)
"Asexuality: Prevalence and Associated Factors in a National Probability Sample." Anthony Bogaert, Journal of sex research, 2004
この調査が行われた時期、自分はまだ小学生。当時、アセクシャルなんていう単語は全く知らず、リズムに乗せて「友達100人できるかな」を歌いながら、目標にしていました(古い?)。
単純に計算してもアセクシャルが1%=100人に1人というと、自分がアセクシャルならアセクシャルに出会うにはもう100人、つまり計200人の友達を作る必要があります。
友達は総数や確率で何かを測れるものではないので、この前提はバカバカしいかもしれません。ただここで伝えたいのは仮に200人友達がいたとしても、アセクシャルであるとお互いにわかり合うのは至難の業だということ。
私自身そうであったように、学生時代はアセクシャルというラベルを知ることもなかったですし、仮に知っていたとしてもそれを明かすこともしなかったでしょう。そして周囲にカミングアウトしている人もいませんでした。
周囲に自分の性的指向、恋愛の志向を共感してもらえる存在がいない。
そんな状況が続くことで、当事者といえるAroAceにとっても、自分は「いない存在」なのではないか。「あるべき存在ではない」と思えてきてしまうのです。
ただ、アセクシャルというラベルを見つけた自分は、自分がいること、他にも自分と同じ考えを持つ人がいることを確認できました。
しかし他の人はまだまだその存在を知りません。
自分の存立基盤を確認し自信を持った私は、他の人にとっては「ないこと」を証明しようと次なるステップに進みます。ないことを明らかにするのは通称"悪魔の証明"と呼ばれたりします。
恋愛や性愛においてあることを証明するのは、1回でも誰かを好きになれば、もしくは性的に惹かれれば、証明できますね。
しかし私(たち)は、ないことを証明するに必要があります。
1度、出会った人を好きにならず、性的にも惹かれない。それでも私(たち)は証明を続けさせられます。
そういった意見への違和感から、自分たちは悪魔の証明のため、自分の心情、思考(指向)の言語化に取り組みます。
他の人からすれば、ないはずのもの。それを証明するには、何かしら目に見える形で表現するしかありません。
目に見える形で文字にして伝えていく。もしくは他の人にもわかりやすい例えを編み出したりしています。
だからこそ、AroAceの方々の文章は感情を捉える言葉がとても読み取りやすく、たとえも的確で腑に落ちるものが多いのだと思います。
苦しみから生まれた言葉
以上3つが、なんでAroAceの文章って心に響くなと思うものが多いんだろうと突き詰めて考えて出てきた理由です。
最後の、悪魔の証明に関しては、AroAceだけでなく、他の分野でも「当然のようにあること」を前提にした社会、世間に苦しんでいる人が直面しているのではないかと思い浮かんできています。
その証明に立ち向かっている人の表現力や物事を捉える能力が上がっているのは、やや皮肉な言い方になりますが、不幸中の幸い、苦しんだがゆえのご褒美なのかもしれません。というか、そう思ってないとやっていられません。