「性的欲求がない」「恋愛感情がわからない」Aro/Aceは"否定形"でしか語れないのか?
4月30日に調布LGBT&アライの会がアセクシャル自認のなかけんさん、むらかみさんを招いて開いた性と生き方の多様性講座、「アロマンティックやアセクシュアルを知ろう」に"参加"してきました。
"参加"と書いたのはリアルでの参加ではなく、後日の動画配信で当日の様子を拝見したからです。
個人的に印象に残ったことなどを短めにではありますが、レポートします。
"わたし"を獲得した、という考え方
登壇者のふたりは、以前お話したことがあったのですが、改めて生い立ちやこれまで考えてきたことについて講演の形で聞けて、「自分もそういうことあった!」「アロマンティック/アセクシャル(以下、Aro/Ace)などの単語を知るまで2人ともそんなに苦労していたのか…」と感じました。
アセクシャルスペース「ARU」のオーナーをしているむらかみさんの話の中で印象的だったのは、「他者から定められた存在ではない"わたし"を獲得した」という話です。
むらかみさんは、アセクシャルという単語に出会うまでいろいろ考え、自分の理想のコミュニティを実現する行動をしてきたそうです。
そうして、他者からの評価や定義でなく、自分でこう生きたいというものを見つけ、獲得した"わたし"ーー。そういう自我のあり方、自認についての考え方があるのかと発見でした。
自分の心地よさを優先して過ごしてほしい
なかけんさんは、どのような人生の歩みをしてきたか、以前に記事で拝見したことがありました。改めて本人の口から来し方を聞き、印象に残ったのが、イベントの最後に、ぽろっと出た「自分の心地よさを優先して過ごしてほしい」という言葉です。
自分の感覚と他の人の認識が違うという経験をたくさんしてきたから出てきたであろう言葉だと思いましたし、他のセクシュアル・マイノリティや日々違和感を抱きながら生きている人にも伝わると良いなと思う考え方でした。
否定から始まるAro/Ace
質疑応答では、当事者の方から「Apo/Aceは"A=アンチ"の否定で語られることが多い。より前向きな語られ方、説明は可能か」という趣旨の質問がありました。
これは自分も近しい感覚を持っていて、「何か、ではない」状態を指すAro/Aceを前向きに説明する言葉があまりにも少ない。
そのことによって「何か、欠けている」と自分自身を定めてしまって、自己肯定感を得ずらくなっているのではないか。漠然とではあるのですが、そう感じていました。(twitterでAro/Ace自認をされている方が前向きになれなかったり、自分自身を否定していたりする投稿を見て、そんなことを考えたりしていました。)
なくてもいいと伝えられることで…
否定が前提となるAro/Aceの定義について、なかけんさんが質問に答える中である指摘をしていて、膝を打つ思いでした。
"なくてもいいと伝えられることで安心感がある人もいる"
「なくてもおかしくないんだ」と認められる感覚を的確に表していて、たしかに自分も最初にアセクシャルという単語を知ったときにこういう感覚になったなと思い出しました。否定を前提としながら、その状態は「おかしくない」と二重否定をしていました。否定をかけあわせて無意識に肯定できていたんですね。
いつからかその感覚を忘れて、否定を前提とする「世間一般とは違う」という部分に囚われすぎてしまっていた気がします。そんなことにも気付かされた言葉でした。
今回、なかけんさん、むらかみさんのお話を聞いて、自分の感覚をこういうふうに言語化できるんだとおふたりの経験からはじき出された表現に共感と発見がありました。
そしてAro/Aceを知らない人に向けて、こういう説明の仕方があるのかと勉強になるイベントでした。
こういったイベントがどんどん開かれていって、アロマンティック・アセクシャルの存在が伝わって行くのかな、そんな希望を抱かせる機会でした。改めて調布LGBT&アライの会さん素敵な機会の提供と動画での限定配信をしていただき、ありがとうございました!
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