人は、自分の人生の主人公になっていい ーーにじさんじ5周年とBUMP OF CHICKEN
最初にちらっと見たのは、委員長のクソ雑魚切り抜き。本格的に意識して見始めたのは夜見さんのUntitled Goose Gameと、カラオケのために見ていた緑仙の歌ってみた動画、ライバーの名前を覚えたのは舞元のにじさんじ甲子園だったとおもう。いつのまにか、にじさんじは社会を大きくうごかすまでの存在になっていた。
大きな回り道をしてみよう。
友達と少し前に話したことがある。最近の子は、BUMP OF CHICKENの曲を聴くことはあっても、本気で信じてはいないらしい。「いやそりゃ世代的にヒゲダンとかKing Gnuとかadoちゃんを聞いてるやろ・・・」とも思ったが、そういう話ではないらしい。
BUMP OF CHICKENの歌が生まれたのは、人と人のこころのつながり方が
わからなくなった時代のことだった。家族や社会のつながりがこわれた。鍵っ子が増えて、居場所のない子どもはテレビやゲームの中へどんどん入っていった。
どんなゲームをはじめても、最初はワクワクよりも不安がまさったりする。BUMPが最初の曲に選んだのは『ガラスのブルース』だった。
いつもリンリンと鳴く猫のコエは、いつのまにか藤原さんの声へと
すり替わっていく。
BUMPの四人がそのときえらんだのは、「小さな勇者」になることだった。なんとか取り繕った、いっぱいのたとえ話と、カッコいいギターフレーズで作り上げた「とってきおきの唄」で、誰かのために生きることができる。
だいじな気持ちを歌に込めれば、そのメロディーが誰かの心に違う風景を
見せてくれる。
でも、そのコトバはよく聞いてみれば、みんなが孤独であることの裏返しだった。だって、一人のひとのコトバがどう届くなんて、誰にも保証もない。
よく聞くと、「誰かのために」戦おうとするその勇者の言葉は、自分で弱い自分へ向けた言葉でもあった(特に「ダイヤモンド」「ひとりごと」)
大事なのは、彼らがどんなに人気者になっても、自分たちの言葉を捨てずに(恐らく時には周りに迷惑をかけながらも)自分のことをつきとおしたことだった。そして、弱いことを何かそのままでいることの言い訳にしなかった。
翻ってにじさんじのことを、ぼんやり思い出してみる。
1~2年目の頃は、やっぱりいい意味で昔のゲーム実況っぽかったというか、さんばかなら、みんなでワイワイ集まって鍋の中にドーナッツ(!)とチーズケーキ(!?)をぶち込んでみたり、某銛で魚の腹をぶっさして「とったどー!」する無人島に流された男四人組がいたり、みんなワイワイやっている。細部を細かく覚えているわけではないが、エンタメってたぶん細部まで覚えるものでもないのかもしれない。
2022年はサロメ様のような超特級呪物のような子や、VTAからやってきたラナンキュラス、四人組であることをこれまでになく意識したVOLTACTIONが登場した。個人的にみることが多いのはサロメ様だけど、今日も元気にロイヤルおソフールを宣伝している。
その一方で、楽しいとはいいにくいこともあった。去年であれば、黛灰くん、メリッサさん、童田さんが引退した。誹謗中傷に関する、エンタメや虚構の世界にあってほしくない「現実」が流れ込んだ。人によっては、えにからは上場したんだからそういう「現実」の話が流れこむのは仕方ない、というかもしれない。
ファンの人たちと話すと、やはり真面目にライバーには楽しい人生を送って欲しいと考えている人が多くいるのと同時に、見たくないはずだった虚構の世界に流れ込んでくる現実に対して、絶望してみたりする人が少なからずいた。そして、少なからず――自分がにじさんじに「こうだったらいいな」と思うことを押し殺して、ひたすら推しに寄り添おうとするひとも少なくなかった。
ふと、BUMPの曲を聴きながら思う。
たぶん、ライバーの人たちであればぼくたち以上に、お金や契約やインボイスや機材やファンやアンチや色々に対して悩んでいたり、知り合いのライバーに相談したりしているんだろう。
でも、パソコンの前に坐ったその時、信じられるものは自分の心の中の声だけだ。そして、その声が今日も毎日、数千人以上の――孤独な人たちのもとに届いている。それぞれの人が、腰痛やお仕事や、どうしても自分を突き動かしてくる心の中の声の中や、恋に打ち震えている。
このような短文で言えることは限られている。だから、恐らくBUMPや月ノさんが伝えたかったことを最後に書いてこの文章を投げよう。
あなたは、あなたの人生の主人公になっていい。
この言葉を、恐らく節目になる五周年に、にじさんじに贈ります。