Vtuberの批評文から臨床文へ ーー届くはずのない手紙の行先へ
Vtuberに対して批評は(原理的にも気持ち的にも)できなかった ーー「共創」時代にどうやって文章を書くか
理論的な理由
批評や評論をされている方に励まされたのにも関わらず、このようなことを書いていいのだろうかと考えながら文章を書いている。
それはVtuberに対して素朴に批評を書くことが、私にはあるときから違和感のあるものになっていたからだ。これを理論の面からも気持ちの面からも理由を書いてみよう。
まずは理論の面。私が見ているにじさんじ・ホロライブ・神椿という三つの事務所は、それぞれ言葉は違うものの「共創」という理念を元に会社の経営を行っている。
「共創」とはもともと、経営学の言葉である。1960年代から産業革命の中で、冷蔵庫・テレビなどの三種の神器をはじめとした、新しいテクノロジーに支えられて生まれた製品が社会を大きく変えた。
しかし、時は経ち、生活必需品(第一次産業)の生産はピークを迎え、サービス業(第三次産業)が圧倒的にシェアを持つようになった。
この時に注目されたのが、これまでのように会社が一方的に製品を売りつけるのではなく、消費者の視点を取り入れ、消費者が財を消費しているときにどのように感じているのかを生産に取り入れる「サービスデザイン」「共創」の考え方である。この考え方からできたのは、例えばお金を払って入室する本屋である文喫である。
この考えは、実はVtuber達の圧倒的な相互交流性と相性がよい。
打ったコメントや絵やイラストが推しの放送を後押しする。広告をファンたちで制作し、自分たちが大切にしている思い出を作っていく。
一方で、この環境は演者たちが自分たちだけで自分のキャラクターや活動方針を決め切らないことになる可能性もある。例えば、「かわいい」キャラクターをファンが好んでいても、演者が「かっこいい」方針で行きたいとなった時に、やはりそこでどうしてもコミュニケーションの必要が出てくるのだ。
そして、おそらくはキヨや加藤純一、スマブラや格ゲー勢のゲーマーの方ならわかるように、最近では配信者も独特のコミュニティを形成していることがある。
私は元々文化人類学を勉強していた時期があるので、こうした問題系は文化人類学の分野で1986年に出版された『文化を書く』という本の問題系と同じに感じている。文化人類学では、「異民族のいる集落に数年かけて住み込み、その文化のシステムを描き出す」というエスノグラフィーという試みが行われてきた。その時、「調査されるもの/調査するものの非対称性」「書き手の権力性」などが実は問われなくてはいけないのではないか?というのがこの本の趣旨だった。
この本が出てきてから、異民族を単に異民族として描くだけではなくて映像や詩を使う、デザインの道具として使うなど、さまざまな実験が行われることになった。
私がVtuberにおける批評的な行為について感じているのは、Vtuberにおける批評行為はファンダムや企業の行動にもろに影響を与えうるものであり、その時に文筆業を行っている人はどうであるべきかである。
少なくとも私は古い小説批評のように、作品をたたき切るようなタイプの批評は、覚悟を決めるか相当言い回しに気をつけないといけないと、私は界隈の様子を見て考えている。
※アメリカを見てみると、音楽批評家のFantano氏のようにズバズバ切り捨てるタイプの批評はまだまだ生きている。ただ、これはアメリカの文化の中にお互いの判断を話し合う土壌がかなり根強く残っているからに感じる。実際にFantano氏は自分の批評について若者たちに大学で聞く動画も投稿し、積極的にアーティストとインタビューも行っている。
つまらないと感じたコンテンツがあるとして、そのコンテンツに対してどうコメントをするべきか。それはおそらく、BTSやHIP HOPのファンダムなどでいま話し合われている話もよく参考になるだろう。
2018年ににじさんじ一期生は、自分をフォローしてくれた人にフォロー返しまでしていたという。そして、実際ファンの方と話してみて言われたのだが、二次創作はもちろんのこと、文章であれツイートであれ、「自分の発言が(良い方向でも悪い方向でも)放送に影響を与えた!」と感じることがにじさんじでは多いと聞く。そして私も3年noteを書いてきて、無視できない数ライバーが私のnoteを読んでないとおかしい現象が起こったのを見た。
相手はコンテンツとか、作品とかカッコいい名前を付けていてもリアルタイムに生きている人である。批評で生きている人間について語る場合、そこで与えられる影響について、考えることが必要ではないか。
ここまでが理論的な理由付けである。
気持ち的な理由
さて…そのうえで私が批評という言葉を使いにくいのは、やはりそこに生身の顕名の人がいるという感覚がぬぐえないことが非常に大きい。
Vtuberは、絵に見えて親しみやすい。何時間も見ているものだから、勝手に友達感覚になって、いいたいことを言える。
そして本当にリアルな体験になってしかも詳細な出来事は語りにくいのだが――批評をやっていた人が心身を壊したり、あるいは何らかのものさしでひとを計ることに耽溺しすぎて、周りが見えなくなる様子を何度も見てしまったからだ。
当然、人と違う意見を言うことになるジャンルであるから、そういった衝突があってもいい。ただ、創作者や活動者との関係がこじれる場合もみてきて、私個人も、あまり文章で何かができると最近は思えなくなっていた。
いくら本を読んで〇〇主義とかジャーゴンを集めても、『いまここで』自分が持っている具体的な文脈の中で悩んでいる活動者のためにはならないのではないか。そしてその意味で、その人について文章を勝手に書くことは、人のことをダシに自分の承認欲求を満たしているだけなのではないか。
最近ではそこまで考えていた。
サブカル少年少女の絶望と、にじさんじがいた場所 ーー2018年前後と「匿名性」の終わり
いわゆるゼロ年代批評に影響を受けた批評家の文章を読んでいると、その中によくあらわれ出てくるのが「匿名性」に対するある種の憧れである。批評家の黒嵜想は、京都アニメーション放火殺人事件について語った文章の中で、京アニが守ろうとしたものは「共に作る」喜びだったことを繰り返し強調する。
多くの人はアニメーターたちのように躍動感のある絵を描くことができない。歌手のように、カッコよく歌うこともできない。しかし、それでも、もしかしたら、思わずなぞってしまった線で誰かが熱狂してくれるかもしれない。
「涼宮ハルヒの憂鬱」「けいおん!」「日常」といった作品は、ダンスや音楽、MADの素材として、視聴者が作品に参加できる間口を広く持ち続けた。
黒嵜氏(そして東浩紀氏)によれば、ゼロ年代批評の主張の核心は2000年代に入り平等幻想が失効するなかで、何とか「消費の平等」(社会的な格差・金銭的格差があっても、同じものを見て笑うことができる)を保とうとするものだった。しかし、SNSの発展とYouTuberの誕生により、どんどんインターネットはニコニコ動画に代表される匿名性の世界は壊されていった。
今や、Vtuberも含めて、ネットの世界は顕名性に制作でも消費の場面でも支配されるようになっていった。
一次創作と二次創作は本来は固定された上下関係ではなかった。しかし、MADにあふれ、ある種の無法地帯だからこそ生まれていた幸せな創作関係は、今や壊れてしまった。
北出栞が<セカイ系>をキーワードにした本『「世界の終わり」を紡ぐあなたへ」』もまた、黒嵜とは違う形で『匿名的なつながり』についてげんきゅうしている。ヒトとモノの境界線も溶けていくなかで、すべてのものを素材に分解し、再構築すること(エヴァ)、岩井俊二監督が、個人サイト・匿名掲示板・手紙といったメディアが媒介する「匿名のコミュニケーション」が、一見幻のような微かさながらも、いや、微かだからこそ、つながるはずのない思いがつながるかもしれないという、あるいは世界が本当に終わってしまうという残酷な絶望を前にして、それでも目の前の人を、人は大事にしてしまう。その一瞬の寂しさに著者は賭ける。
みんなと一緒に過ごす幸せな「日常系」を描き続けた京都アニメーションに、黒嵜が捧げられた文章。
ガジェットや機材への注目から、ヒト・モノの関係性まで解体し、そのようなある種冷たい目線を持ちながらも、最後にはそれでも大切な人を求める祈りをささげた「セカイ系」に捧げられた北出の文章。
一見、真逆のものを題材にした文章は不思議なことに、祈ること、本当はあるはずのない関係性を幻視することという、人間にとってもっとも大事な根源的な営みについて話していた。しかも、そうしたコミュニケーションは「匿名性」の中でしか培われないという主張も共通している。
でも、個人的にはこうした想像力は、単にセカイ系だけではなく、世界中の遊びに共通する、大事なものではないかと思われる(まさに、ゲーム的想像力として)
この環境を作り出すものこそ、まさにポケモンに代表されるゲームだった。
にじさんじが生まれた2018年は、私の経験ではけものフレンズ2とそれに関連する炎上騒動で、ニコニコ動画からYouTubeへ大きく視聴者が流れていった時期だと記憶している。
そのころに現れたにじさんじは、先駆者であるキズナアイやバーチャル四天王と比べて、中の人のキャラクター/タレントで勝負したことで勝ったと言われがちだった。その事に対して剣持のように、クリエイターとしてのむなしさを感じた人もいた(『虚空教典』)。
にじさんじが生まれた時代は、Netflixが成長しお茶の間からアニメが消え、「どんなひとでもエヴァは見たことがある」「ポケモンは見たことがある」そういうお茶の間の神話が壊れていく時代だった。
その時代に、にじさんじのライバーたちは小さな日常を続けようとした。
※視聴者にもらった家具で自分の部屋を飾る月ノ美兎
(さすがに6年経っているので、同じ意見とは考えにくいが)黒嵜は2018年に『ユリイカ』2018年7月号の文章「縫い付けられた声」で、特に声優や初音ミクに比べて、Vtuberが「声優とは違うキャラクターを作り出せない」構造になっていること、実写の口唇運動とむりやり縫い付けられたアニメーションをあまりよくは思っていなかった。キャラクターは声優の所有物にすぎない状態になってしまうからだ。
これは、卒業と同時にグッズの販売が停止することの多い昨今であっても一聴の価値がある意見である。
ただ、一方で――この6年間のVtuber達の奮闘を見ていると事態はそう単純とは思えない。
この文章では深く追求ができないが、北出の文章と気になる共通点がある文章があった。泉信行は論考『「明日の子供」と実質的現実のVTuber』の中で、Vtuberたちがイラストレーターにより描かれたイラストを「写真」と呼ぶような、あるいは「バーチャル東京」「バーチャル九州」といった私達が住んでいる場所とは違う場所にいると言った例を挙げる。
そのうえで、こうした「VTuberが2次元的な姿で生きているように想像される」という需要のされ方こそが、Vtuber独自の「実質的な現実」を生み出していると考えた。
この時に、泉はカメラとVtuberの関係性を深く確認したうえで、次のように述べる。
前回のnoteで星街すいせいと月ノ美兎の動画から感じていたのは、(それが細かくどんな意義があるかまでは書けていないが)このVtuber特有の独特な想像力を捨てずに、作品を作り続けることに成功しているのではないかということだった。
実は、この論考でも北出の論考でも、その虚構性を担保しているものはカメラの取り扱い・カメラワークなのである。とすれば、ゼロ年代以降の文化におけるカメラワークやギャルゲーにおける独特なUIの画面の美学こそが、そこに独自の虚構性を生んだ――などといって、探求する価値のあるものに私は見える。
にじさんじやホロライブは「ファンの力を使って、ファンと一緒に成長した」という単線的なロジックではなく、このVtuberの世界の独自の不思議さの探求にこそ、何かVtuberがこの後続く鍵があり、技法的に批評が役に立つ可能性があるように感じる。
大脱線:闇の自己啓発を絶望先生で脱構築してみる ――中動態と体が勝手に動いてしまうようなワクワクの方へ
人と目的論の関係はややこしい。
この文章を書き始めたのは、江永泉さんらが編著された『闇の自己啓発』という著書に触発されてのことだった。そこには、普通の自己啓発とは違う形で、世間に殺され人形にされないために、自分の意志で世界を作ることができるために、反出生主義をはじめとしたシビアな話題に対して向き合おうとする。
でも、私はよこしまなことに、この本の最後の江永さんの補論「補論 闇の自己啓発のために」を読んで、私は違和感をもってしまった。
いや、正確に言えば怖いと思ってしまったのだ。
この本の読書会の中で触れられた本は、切実な問いを孕んだもの、自分とは強く違う視点を持つものが多く、違う視点をいくつも植え付けられた。
特に「反出生主義」については、最近「Vtuberになんてならなきゃよかった」という言い方で、通常の人間に使う言葉とは違うニュアンスで反出生主義らしき発言を聞くこともあり、考えることが多かった。
しかし、最後の江永さんの論考は、何かの実践・何かを行うことの衝動が爆発しており、どう読めばよいかわからなかった。非常に焦燥感を感じた。
冒頭で引用した文章では、人生に対し「自分で」解釈することを高らかに称揚している。それまで戸山田や江川らがさんざん「自由意志」に対抗するかのうような文章を書いているにも関わらず、それに歯向かう/切断するように「己が始めなくてはいけない」「実践しなくてはいけない」という宣言を繰り返している。
直前に啓蒙や啓発の難点として、「教えを説くには、まず聴き手を従順にしなくてはいけない」という支配関係を想定することにあると指摘していたにもかかわらず、である。
私は、補論「闇の自己啓発のために」の、カチコチに固まったその論旨をほぐすために、國分功一郎の中動態と自由の議論を導入してみたい。國分が唱える自由の論理は、明らかに江永さんのものと違う。
國分功一郎は2017年の著書『中動態の世界 意志と責任の考古学』にて、一般的に我々が考える能動態/受動態の言語では、依存症やカツアゲなど「やりたくないのにやってしまう」現象をうまく説明できないと考える。
そこで、國分は中動態と呼ばれる「能動/受動」ではなく、「内か外か」、つまり動詞が名指している過程が内で終わるか外で終わるかに着目する。例えば、「私が●●を欲しい」というとき、その「欲しい」は能動的に何かを欲しがっているというより、私の中で何かが欲しがっているという状態を表す単語となる。
ここから、國分は意志を何物にも影響されていない純粋に自発的なものだと考えるのは間違いであり、その時、冒頭に引用したように自由とは「目的から逸脱した」ある種の贅沢なものになるだろうと考えた。
この論理を通じた見たうえで、江永さんの「補論 闇の自己啓発のために」を読み直すと、その文章が能動態と目的論を回避しようとして、しかし結末の文章にあるように、なぜかひとつの宣言文の元にとどまってしまう。
最初に引用した江永と國分の文章を比較したときに、江永は「人生を自分で解釈する(能動態)」ことに自由を見出していたが、國分は対話の可能性を否定せず、真剣さの中で生まれでる(中動態)喜びに自由を見出している。
私は必要なのは闇の自己啓発というより、闇の欲望発生装置(としての本)ではないかと感じた。
ところで、なぜVtuberについて語るときに闇の自己啓発について語るのか。
それは、にじさんじを見ていると、少なくないライバーが世間から外れることに対するに悩みを発信し始めているからだ。あまり人の内面に入ることなので細かくは言わないが、魔界ノりりむさんや壱百満天原サロメさんの話をよく調べるとそうしたものが出てくる。
でも、世間から外れた人達が作る共同体が押し付けるのが、例えば「推し活」や「マッチョイムズ」、「面白くないやつは認められない」といった新しい世間だったら?
所詮、The Beatlesが”Revolution”という曲の中で警告したように、あるいは、カリフォルニアのITで世界を変えようとした人々がいつのまにか保守化していたように、新しい世間を作るために犠牲をいとわないようになっていったら?そうならない共同体の可能性はないのか?
ここで必要なのは、「闇の自己啓発のため」といった目的論とは別に、この本から何が生まれ出るかを見守ることではないだろうか。
さらにバフチンが「ポリフォニー」という言葉で表したように時に様々な意見がありながらも、それが対話の中で溶け合わずにも共存しているような世界ではないだろうか。斎藤環は、國分との対談の中で、「オープンダイアローグ」の議論を引きながらこう語る。
「闇の自己啓発」の本にはあまりに多様な、読書の例がある。
そしてあまりに膨大な知識の量が故に、人は(わたしも含め)この本に書かれていることに、どうにかして現実を当てはめようとしてしまうのかもしれない。
だが、大事なのは、現実を本に当てはめるのではなく、現実と本の違いをたのしむこと、そして違う傷を持った人々と――すべては無理かもしれない、あるいは時に人を傷つけることがあっても――違いを認識しながら肯定することではないか。
そこには、私のようなちゃらんぽらんが簡単に触れてはいけないような、
トラウマと孤独が転がっているのかもしれない。その時に、そのトラウマや孤独をただたんに「つながれば救われる」と言ってしまうのは、『闇の自己啓発』を読んだ意味がない(まさに、「アンチソーシャル」の章でフーコーが語っていたように)。
一方で、『闇の自己啓発』ではあまりに人と人のつながりに消極的なことしか書かれていないようだとも感じた。
それは大槻ケンヂとさよなら絶望先生のことだった。
成城大学文学研究科の鈴木健人(2013)の論考「<パロディ>によるサブカルチャー再考試論 ー『さよなら絶望先生』を例にー」では、宇野常寛『ゼロ年代の想像力』で、2008年当時ゼロ年代批評が「セカイ系」の批評と考察で止まっており、これが東浩紀の言説の劣化コピーを繰り返していたのではないかとした考察を取りあげる。
そのうえで、単純に「ひきこもる」のではなく、決断するわけでもない(つまりゼロ年代の<セカイ系>や決断主義的な文学とは違う)想像力の一例として、『さよなら絶望先生』を上げる。
『さよなら絶望先生』は、パロディと諧謔が詰め込まれたマンガである。この本の世界の中では、ひたすら諧謔と突っ込みを、現実の漫画家と球団にどす黒い角度から突っ込み続ける物語である。
しかも、この漫画の描線からは徹底的に西洋的な遠近感が抜かれており、女の子はペラペラの紙が重ねられた絵の中で続けられる諧謔は、どこか現実感を感じさせない。
この世の中に絶望して、死にたがる(というポーズをとる)絶望先生と女の子たちは、不思議な会話を続ける中で、飛んでもない結末を迎える。
最初に自殺しようとしていた絶望先生を止めた、風浦可符香という女の子はそもそも存在していなかった。彼女は、移植可能な部位をすべて他の少女たちに移植していた。
移植された女の子たちが共通でもっていた記憶をもとに、集団でかわるがわるその子を演じていた――風浦可符香は『共通人格』だったのだ。
ここを読んだ瞬間、私には電撃が走ったのを覚えている。
この本は、月ノ美兎が好きということで読み始めたものだった。
そして、まるでこの断章が、にじさんじの子たちがたどってきた道筋そのもののようだったからだ。
『さよなら絶望先生』は、ジョー力一をはじめとして多くのにじさんじライバーたちに愛された作品の一つである。
2018年にバーチャルチューバ―をやり始めた人たちにとって、Vtuberとはいくらバーチャルというテクノロジーの最先端の名前をしていても、本当はいない人たちを顕現させるための、混沌としていた場所だった。
にじさんじも絶望先生もパロディとパスティーシュと、本当は実在しない本当じゃない人たちだった。それがいつの間にか、大切な思い出になっていた。これは私の思い込みかもしれない。
大事なのは、絶望先生にまつわる物語が、感動的な締め方で終わったことにあるのではない。思い返してほしい。
この物語に出てくる女の子たちは、みな自殺未遂者の子たちだった。
大槻ケンヂは、このアニメの主題歌で『ニート釣り』や『人として軸がぶれている』『空想ルンバ』のように、劣等感に心が引っ張られている人々に、そっと違う世界を見せるような曲を歌い続けた。
それらの言葉は、慎重に、いかにもこの世に希望があるような意識の高い言葉や、わかりやすい言葉を避けていた。
久米田先生は、30巻にわたって、まるでお喋りの応酬のようなマンガを描き続けた。
それは、シニカルでメタ視点でものを見がちな人たちにとって、絶望するほどクソ野郎な絶望先生と、ちょっとおかしいおんなの子たちの存在は――ずっと寄り添い続けたのではないのか。
鈴木の論文によれば、さよなら絶望先生のラジオでは積極的に絶望先生にも関係ない声優も巻き込んで、しかもファンと声優の壁も取っ払ってお互いにひたすら放送の中でもパロディにパロディを重ねていく。
絶望先生の放送なんて人気がないですよとネタにして、ファンがハガキでネタに参加することができる。タイトルもすべてなにかのパスティーシュであることが徹底されている。
「どうせすぐおわりますよ」とかずっと言い続けているにもかからわらず、不思議なことに、さよなら絶望先生が終わった2024年に至ってもこの絶望ラジオは続いているのである。
ここにはファンも声優も、本物も偽物も意味がない。
作り手も読み手も、その間の境目もないように見える。
國分は、『目的への抵抗』の中で、目的によって開始されつつも目的を超えることができる行為は「遊び」であると考えていた。そして、繰り返し強調して、遊びというものは本来真剣なものだと言っていた。
黒嵜が二次創作の望みとして『ヴァイオレットエヴァ―ガーデン』を見ながら語ったのは、関係を幻視して、思わず手を動かしてしまうその「自動性」だった。人は本来的に通じ合うことはないのかもしれない。しかしヴァイオレットが手を動かして自動的に書き続けるその手が、新しい孤独と新しい関係を作り出す。
北出は、セカイ系を分析する中で「終わるために生まれたセカイ」の極限において、「それでも最後の瞬間に思い浮かぶ人はいないか」と問う。
その祈りは、ほとんど能動的なモノとは言えない。誰に祈らされているわけでもない。どうせ世界は終わる。
「にもかかわらず」人は、大切な人を思って勝手に祈り始めてしまう。
絶望を知ったことがない人に、祈りは起動しない。
これらのあてずっぽうに広げた風呂敷を閉じてみよう。
『闇の自己啓発』の中では、「第五章 反出生主義」にダナハラウェイからの関係で少しだけは書いてあるが、集団として人と人がどのようなつながりがよいだろうかということを語っている部分は少ない。
その時に考慮にいれるべきなのは、ある種の中動態的な遊びの観念――お互いに真剣に、かつ余裕がありながらなんでも言えるような関係性を持ち続けることではないか。そして、ゼロ年代の批評は――たとえ時代遅れといわれようと――人と人がつながるときに必要な慎みと孤独の倫理を描いてきたのではないか。
そしてまさに私はにじさんじに、その残滓のようなものを感じている。
意識に先行する身体と言うテーマでは伊藤亜紗『体はゆく できるを科学する<テクノロジー×身体>』が参考になる。
人の自意識を考えるときに「集中しろ」と心で命じて集中できるならわけない。その時にこの本に書かれているテクノロジーによって新しい自分の身体の動かし方が生まれる様子を見ていると、自意識を離れていかに現実の自然が不思議な世界か読んでいて楽しく感じる。
そしてまさにテクノロジーと人のかかわりの中で出てくる想像力こそ、泉と北出がそれぞれの文脈で指摘したことだった。故に私はここから批評や思弁から降りて、それぞれのテクノロジーや身体のかかわりから、自分の具体的な世界や作品への目線を向けはじめることができる。
最後に:この文章は批評ではない ーーただの勘違いである
私が文章を書く時、特にVtuberに関する文章を書く時に、読み直していたのは、中井久夫と橋本治の本である。彼らの本は、もちろん使う時もあるがなるべく具体的な状況の判断から入り、そこから得られた知恵を言葉にしたものである。
そして、彼らの文章は「わからない」ことやその人の繊細さに対して、どのように向き合えばよいかのヒントを与える。よく中井久夫が「教条的な教えを残さなかった」と言われる。「魚を与える」のではなく「魚の釣り方を教える」。それを使うかどうかは本人が決めることができるような間を残されている。
そしてさらに、この二人の文章は即断での解決を目指さない。少しずつ、自分の心のうぶ毛――やさしさと敏感さと余裕――を取り戻していくために、友人や家族との関係を調整し、少しずつ信を積み上げていく過程を大事にしようとした。
それは、さよなら絶望先生の女の子たちが、諧謔とブラックジョークの中に、
『ヴァイオレットエヴァ―ガーデン』で愛を知らなかった主人公が代筆の仕事を行う中で、愛のいくつもの形を知り
<セカイ系>と呼ばれる物語の中で、絶望的な状況を追体験し、終わるために生まれたセカイの中で、それでも守りたいものを思い出す。
今回のnoteはいくつかの形で闇を抱えた人が、ほかの人たちとの関係性を築き、(時に衝突し)それでも進もうとしたその流れを描写してみた。
そこにどのような関係があるのか、私には「わからない」。(特にVtuberとゼロ年代批評をつなげるのはかなりアクロバティックでもある)
でも、私は橋本治のように「何かここの間につながりがあれば面白いのに」と考えてしまった。
だから、うっかり間違えてこんな文章を書いてしまった。
そういえばもう3年前で時効だからこんな話をしよう。
3年前ごろ、確か2021年の1月か2月ごろに月ノ美兎が失踪したことがある。
結構音沙汰が突然なくなっていて、ファンの人たちの不安な声が大量に流れてきたのを覚えている。
当時はそこまでにじさんじをガツガツは見ていなかった私は、気になってnoteなど含めて彼女のことを調べていた。その時に気づいた。
2020年12月にダブルスタ丼氏が非常に長文の、『にじさんじがなぜつまらないか』についての文章を投稿した。この文章は強烈な反響を呼び、見てのとおりとんでもないいいね数を稼ぐことになった。
これに対してにじさんじの子たちがどのように読んだのかはわからない。ただ、月ノ美兎のアカウントからそのタイミングで次のようなnoteが投稿された。
すると、2021年1月19日に突然月ノ美兎の放送で、ポケモンについてクレーマーが謎のサトシ()がモンスターボールにポケモンを入れないことにクレームをつけ始めたり、イーブイトレーナーに対して本当に貴様はポケモンを大事にしているのかを滔々と語るnoteについての解説が始まる。
この時に作られたnoteはまるでダブルスタ丼氏をまねるようにサムネにいらすとやが使ってある。だから、時期的にも、私はこれはダブルスタ丼氏への応答――つまり、あなたがやっていることは
昔のにじさんじは、こういうアンチ的なものに関しても、うまい感じでネタにすることで――ラッパーのSneak Dissばりのハイコンテクストだが――なだめようとする様子がところどころで見られた。絶望先生みたいなドスグロブラックジョークに慣れているからこそできたものだろう。
ただ、問題は――この直後に月ノ美兎が1カ月間失踪したことである。
人がネタにできるには、あまりに元のnoteが伸びすぎていたようにも思えるし、なによりも同僚の頑張りを横で見ている人が、しかも「面白い人間である」ことを生きざまにしている人がいる団体に向けて、こんなnoteが飛んでいったのだ。
その時に、私はVtuberで月ノ美兎ですらこれだけ心を壊してしまうような環境であるならば、さっさとVtuberなんて終わってしまえばいいと(内心で)考えていた。
だから、下のnoteを書いてみた。
このnoteはとりあえず、月ノ美兎のことを考察しておかしくなった人のふりをして書くことにした。ただその時に、
一番重要なのは、月ノ美兎だろうがどのVtuberだろうが、未来なんてだれもわからなくて、でもその中でもがいているということ。
そのことを――外野ながらも分かっていることを示すだけでよかった。
Vtuberというセカイの先頭に立った人なんて10本の指で数えられるほどしかいない。
だから、そういう人に向けて厳密な分析の言葉はつかえない。
私は、その意味でnoteで無理やり星野源と月ノ美兎の共通点について語っていた。星野源ほど、劣等感を持つ子供たちに向けて曲を書き、遊びを持つことの大切さを語ることができている人はいないと感じたからだ。
そのnoteが投稿されて4日後に動画を見て、私は驚愕した。
月ノ美兎が星野源の恋を踊っていたのだ。noteを投稿して4日後に。
何が起こったかは分からない。月ノ美兎がnoteを読んだのか。読みが当たったのか。はたまた偶然か。
私にはいまだにわかっていない。ただ、そこから文章を書く手がいつの間にか続いたのは事実だ。
この文章はもう、批評ではない。
一人の勘違いしたオタクが手紙を書き続けていただけだ。
結果として批評に見えたとしても、だ。
匿名性と顕名性の間で、今日もライバー達は不思議な日常を送る。
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