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なぜ人は絵を描くのか――ペンを握り始めて悩んでいたこと


はじめに:このnoteを書き始めた理由


2年前のRe\arise #1、および1年半前のRe\arise #1.5という二つの展示会が終わった後に、感想を含めていろいろイラストレーションについて書いてみようと思っていた。
しかし、展示会の後、私の周りでは、あまりにイラストについて、絵の外側でよくないことが連続して起こってしまい、ちょっと絵についてまっすぐ考えられない時期が続いていた。
その他にもX上でもあったように、トレースやAIによる剽窃の騒動など・・・これらが遠い存在であればよかったのだが、そうしたことが近い人にも起こったことがあり、他のジャンルのことに目線を映している期間が長かった。

そして最近、イラストについて調べていることを知った人から「絵を書かないんですか?」と言われることが多く、絵を真似したりいろいろしたのだが、早晩挫折の兆候が見えてきた。

このnoteではいったん、そもそも人はなぜ絵を描くのかについていくつか 知見を並べながら、自分の嵌った穴を抜け出す方策を見てみたい。




ヒトはなぜ絵を描くのか

京都藝術大学の芸術認知科学の教授である齋藤 亜矢教授は、チンパンジーと人間の描画行動を観察し、人がモノを描く理由は「今ここにないものをイメージして補う」と言う特性であり、それは言語の獲得と関係しているのではないかと考察した。
そのうえで、アートを見て人が感動するのは、「必要なだけに目を向け、それを記号化してしまう」癖のある大人に対して、子どもの時のように世界を新鮮に見てくれるからだという。もちろん藝術作品ひとつひとつに、その人が描いた歪みが存在している。それにより、私達の持っていた概念は揺さぶられ、感動し時に苦しくなるという。


絵を理解するとはどういうことかーー認知心理学から


認知心理学者の鈴木宏昭は、創発(答えが一意にあるのではなく、物事の相互作用の仕方は環境からの影響を受けるような、新しい何かが生まれること)を大事に考えるのならば、学校教育や工場のロジックでは語れないとする。


・「問題がある」「正解がある」「教師がいる」という前提は成り立たないため、問題は自分で作り出す必要がある。
・「基礎」をやってから「応用」をやるべきという前提が成り立たない場面がありえる
・一から百まできちんと物事を教えることはできない

こうした状況において、重要な学びは共有する体験が多い徒弟制の世界の中で、推察を繰り返し、表面上見えている物以上のものを見据える形になるのではないかと捉えた。

こうした二つの異なる真似を生み出すのは、共有経験の有無である。前にも述べたように、師匠は内弟子にはほとんど何もコトバでは伝えない。せいぜい弟子には理解できないような抽象的は批評を与える程度である。まともな稽古をしてもらえるのはむしろ通い弟子のほうである。内弟子は家事やさまざまな雑事をこなさなければならないという条件が加わり、通い弟子よりも不利な条件に置かれるかに見える。しかし内弟子は、正式な教授の機械が少ないかわりに、それ以外の事柄に接する機会が圧倒的に多い。家事をしながら師匠が他の弟子に稽古をつけている声を聴くともなしに聞く。こうしてほぼすべてを師匠とともにすることで、身体全体を通して師匠の芸や発言の意味するところ、つまり原因系を自然と理解できるようになる。こうした形の学習は、学校をベースにした、普通にイメージされる学習とはまったく異なるものとなる。ここでは学習者と教師の関係は学校に見られるような役割が固定したものではなく、同じ共同体のメンバーとなる。

鈴木宏明『私たちはどう学んでいるのか ――創発から見る認知の変化』「第6章 教育をどうかんがえるか」

ポイントは、鈴木氏の言う教育では複雑すぎる現実に、臨機応変に対応するすべを教えるためには、マニュアル化されたものではなく、その世界に棲みこむ(dwell in)する必要があるということあ。さらに模倣を行う際は、強制的な模倣ではなく、生徒側がそのものを敬愛し、知りたいという内発的な動機が不可欠だという。
教育は、一方的な押し付けではなく、相互作用の場面である。だから、生徒のチャレンジが無くては先に進むことはできない。

こうした、絵だけではなくそれに関係する様々な要素(美術館やその立地、費用、経済その他・・・)が、絵を構成していることは千住博『ニューヨーク美術案内』に詳しい。


センスとは何か

哲学者の千葉雅也の『センスの哲学』は、現代においての「センス」とは何かを、いくつもの視点で語っている本である。この本では、しばしば、小さいときからの積み重ね(文化資本)によって構成されるものであると考えられがちなセンスを、判断力のポイントを学ぶことであとから育成できると考える。

特にこの本は、芸術をモデルを正しく理解しようとする「再現」志向ではなく、新たなものを生成してみること、意味の手前の「リズム」としてそこで展開されている形がどう面白いかを楽しんでみることから始めることを勧めている。今回の文章にとって重要なのは、絵画は音楽や文学と比べても、「脱意味」的な方向を楽しむのが比較的わかりやすいと述べられていることである。
この本は読む過程に意味のある本であり、要約は困難だ。ただ、次の文章に、この後の私の問題に対応する部分があるように感じる。

芸術作品を見ることは、何かの目的達成ではありません。芸術は、いろんな見方の可能性を溢れさせており、とくに抽象的な作品となるとそれが居心地の悪さになって、拒絶を引き起こすのだと思います。しかし、ひとつの作品がある、何らかのリズムという限定によって、ひとつの囲まれた居場所を作り出しているのが芸術です。リズムを感じることは、何かを形にし、狩野安定状態をつくることです。仮の安定状態は、意味がわかるという納得まで行かなくても成立するのです。つまりリズムとして成立するのです。
(中略)「まず動こう」のようなアドバイスは、日本において、神経症治療の先駆者である森田正馬が勧めたことです。森田療法と言われます。不安であっても、とにかく仕事をしなさい、と森田は言います。不安が解消されてから仕事をしようとなど思わない、やっているうちに気にならなくなるから、というわけです。それこそが不安が解消されるということの本質なのだ、と森田は考えました。
これは技術が十分になるまでピアノを弾けるとは言えないとか、こんなものでは絵が描けるとは言えないといった自己抑制ではなく、自分なりに芸術を始めよう、というアドバイスにも似ていると思います。
タスク処理と芸術には、似ているところがある。

千葉雅也『センスの哲学』


個人的な悩み

絵に棲みこむ状態に入り切れない(マンガや映画は除く)


これまでの本で強調されていたのは、

身体的な体験を通した体験の重要性
意味以前の「リズム」を感じることの意義

になるだろう。そうしたときに、確かにこれまで絵を見る時にマンガや映画を見る時のように、その場に何らかの意味があるものと捉えがちだったように思える。
ただ、ぼんやりと思ったのは、やはり音楽に比べて私が絵を分解して咀嚼するための経験だとか酵素をもっていないことである。

音楽であれば、結構がむしゃらに歌ってみたり、いろいろ試す中で、歌がうまくなった経験がある。一方で絵では、まだそうした経験を積むことができていない。

千葉雅也氏は、ピアノの練習方法について、きちんと楽譜をなぞるような神経質な勉強法がある一方で、鍵盤をめちゃくちゃにたたいたり、ただ指をごにょごにょさせて遊ぶような適当さをまず作ってみて、そこからちょっとずつコントロールをしてみる、いわゆる偶然に開かれた練習の意味をその本で書いている。

なんとなく、絵について考えるなかで、今自分に必要なのは、こうした柔軟体操的な感覚ではないか、と思い至った。

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