見出し画像

全アルバムを聞いて考えたキタニタツヤ論 ーーその嘯く悪魔は、まるで約束を待ち焦がれるように

(注意)
このnoteは、もともと『私が明日死ぬなら』という曲の解釈を、カンザキイオリの曲も交えて考えようとした結果、何故かキタニタツヤの全アルバムのレビューみたいになってしまったものです。
この2~3週間で聞いて考えたことをまとめたもので、意図的にキタニタツヤ氏のインタビューをあまり読みすぎないようにしています。(読んでも1~2個くらい)そのことを頭にいれお読みください。

なお、本noteを書く上で収益が入るようにめっちゃキタニ氏のカラオケを歌いました。


『不器用な男』は2021年に発売されたカンザキイオリのアルバムである。
『明日私が死ぬなら』は、2024年に発売されたキタニタツヤのアルバム『ROUNDABOUT』の一曲目に収録された楽曲である。


はじめに ーーキタニタツヤのアルバムを聴き始めた時の気づき


キタニタツヤの楽曲『明日私が死ぬなら』を聞いたとき、「ああ、これはカンザキイオリに宛てられた手紙なんだな」と直感的に思ってしまった。
ネットで検索しても実際にマッシュアップが作られたり、なんか似たものを感じた人は多かったのだろう。

カンザキイオリの代表曲の多くは、バンド形式のサウンドの上に、特徴的なピアノの主旋律を加えるのが特徴だ。キタニもピアノを使うこともなかったわけではないが、この曲ほどピアノサウンドが表に出た曲も珍しかった。
さらに、カンザキイオリのPVに特徴的な白と黒のモノトーンも、何故か『明日私が死ぬなら』のPVで採用されていた。

単なるファンの下衆の勘ぐりなのかもしれないが、それにしてはやたらいろいろなところがつじつまが合う。キタニタツヤは元々、曲の中に他の先行しているバンドの歌詞を気づかない程度にさりげなく含めることをする人である。例えば『青のすみか』のカップリング曲である『素敵なしゅうまつを!』で、「どっかの誰かが紅茶を飲んで待っている」と書いてあるのは、
同じ主題を取り扱ったthee michelle gun elephantの『世界の終わり』の「彼女」のことだろう。さらに初期の楽曲である『命なんていらなかった』という歌詞は、X上でボーカルが失踪した時期のthe cabsのことを歌っているのではないかという話も出ていた。

そして、キタニタツヤの曲を通して聞く中で、私はこの曲がやはりカンザキイオリへの手紙なのではないかという気持ちがぬぐい切れなかった。
あまりよくない勘ぐりなのはわかるが、それはキタ二が辿ってきた遍歴を考えると、あまりに意味があるように見えてしまった。

そこで、このnoteではまずカンザキイオリの曲の特徴を少しおさらいしたのち、それと対比したときに、キタニタツヤがどのようなアーティストに見えるのかを描く。ファーストアルバムから最新のアルバムまで、どのような変遷をキタ二が辿ったのかを描いてみる。
そしてそのうえで、彼が『明日私が死ぬなら』という曲を歌うことにどんな意味があるのか、そして初期のキタニと今のキタニをを聞いて感じたことを書いてみようと思う。


ホロライブ所属のバーチャルアイドル、星街すいせいに提供した曲『TEMPLATE』についてはコチラで書いている。

本当のことを語ってしまう人 ーーカンザキイオリ

以前、カンザキイオリについての記事を書いていた時に思っていたことがある。カンザキイオリは、小説を書いたり歌を書く中で確かに他の人を助けようとしたり、この世の様々な側面を暴き出そうとしている。
しかし、彼はフィクションであれ何であれ、現実をすぐに見させようとする呪いにかかっている。例えば『命に嫌われている。』であれば、冒頭いきなり「死にたいなんて言うな」という曲がはやっているのなんて意味がなく、この世界には「少年がナイフを持って走る」ような絶望が横たわっていることをわざわざ言ってしまう。
もしもメッセージが「生きろ」と言いたいのならば、こうした現実を見せる必要はないのかもしれない。しかし、そうした現実から目を背けない――背けることができないのが、カンザキイオリの魅力であり、業だった。

彼は「人は死ぬ」という現実を何回も何回も自らの体で思い知って、
その果てで「生きろ」と叫ぶことを選んだ。それが『命に嫌われている。』と言う曲だった。


それゆえに、彼の歌や小説に現れる「私」は往々にして、カンザキイオリと重なることがあった。
その最たるものが2枚目のアルバムのリード曲『不器用な男』である。
『命に嫌われている。』を思わせるピアノ+バンド構成のこの曲でカンザキは架空のものを作ろうとする。が、しかし、不器用な彼らしく言わなくてよいのに「これはフィクションなんだ」と自分で言ってしまう。
そして、この曲の主人公は、物語ではなくどんどん自分の心の中を掘り進めてしまう。物語を書こうとしている自分の自意識にからめとられ、その
「生み出したい」という欲望そのものをネタにひたすらペンを走らせた。
そして、この曲で彼は「死にたくない」と叫んでいた。

彼の曲には、「他人を救いたい」という言葉の裏に、「自分自身を救いたい」という気持ちがずっと影として付きまとっていた。

カンザキイオリの3rdEPの一曲『あんたは死んだ』。ここまでくるともはや説明が不要だが、カンザキイオリの近年の曲はレトリックを避け、どんどん言葉の直接さ、鋭利さを増している。


神様がいなくても、世界が地獄でも嘘をつき続けるデマゴーグ ーーキタニタツヤ


カンザキイオリがドンドン自分の中に入り込む没入型のミュージシャンなら
キタニタツヤはどこか向こう側からこちらを見てくる俯瞰型・憑依型の
ミュージシャンである。

ーー1曲目の「私が明日死ぬなら」もすごい曲だなと。これもキタニさん自身とは違う視点から書いているんですか?
そうですね。私が「明日死ぬなら」というキーワードが先にあって、そこから"こういう言葉を思い浮かべる人ってどういう人だろうか?"みたいな感じで作ったので。僕自身はそんなことを考えるタイプの人間ではないんですよ。常に公開なく生きようとはしてるけど、(死については)まだまだ現実離れしているというか。

THE FIRST TIMES「キタニタツヤが語る"回りくどい自己紹介みたいなアルバム"とは?インタビューから見えてきた彼の"本心"を聞く

このように、キタニタツヤの書く歌詞は必ずしもただの心情の吐露ではなく、ある人の想いを歌い手が代弁する形で書かれていることも数多い。



不気味さと異化作用

芸術は、人が生の感触を取り戻すために存在する。それは人にさまざまな事物をあるがままに、堅いものを「堅いもの」として感じさせるために存在する。
芸術の目的は、事物を知識としてではなく、感触として伝えることにある。

スクロフスキー(1917)「手法としての小説」(以下WEBサイトより孫引き

さらに、キタニの曲に漂っている「気味の悪さ」は、彼の曲が文学で言う「異化作用」を狙っているからだと思われる。異化作用とは、普通に考えたらいつもの日常であると思われる光景を、あえて変な方向から言語化することで、普通に見える物事に新しい目線と、感触を与えることである。


それが端的に現れたのが2024年発表の『次回予告』である。
この歌詞でキタ二は「毎週日曜日に楽しく放送されている戦隊もの」というお題に対して、

・いつも同じ時間で放送されるもの ⇒私達の日常であり、予定調和
「いけ、たたかえ、まけないで」 ⇒負ける人たちは悪者
そもそもこの曲自体が『戦隊大失格』というアニメのオープニング
アニメのオープニングであることすらメタ的にネタにする

という、普通のヒーロー物とは思えない意味をそれぞれの言葉に持たせる離れ業をやってのけた。
そして、単なるアニメのオープニングと思っていた視聴者にこの言葉を突きつける。「次回予告(予定調和)の僕を裏切ってしまえ」と。
これは、まさにお手本のように一般的に見られている見方を裏切る歌詞の
書き方である。
異化作用がある文書を書くためのやり方は、一般的なテンプレートを外れて、ある種「天井から物事を見る」ような、俯瞰した視点でものを見ることが求められる。いつもと違う見方でみることは、ギャグを作るにしてもアイデアを作るにしても、大きな意味があるだろう。

こうした、ある種のテンプレを避ける彼の特性は、これまでのインタビューや彼自身の発信からも、わかることである。


キタニ:僕のYouTubeのコメント欄にも「熱のときに見る夢」ってめちゃめちゃ書かれるんですよ。
みんなが熱のときに見る夢は一人ひとり違っているはずで、厳密に同じイメージを共有しているわけではないんだけど、なんか20%ずつくらい噛み合っているから、便利フレーズとして使われるわけで。
見たときに「自分の気持ちが言語化されたみたいだ」って思っちゃうんですけど、本当は言語化されきっていないはずなんですよ。残りの80%の部分があるはずなんですけど、みんなそれを“写経”することに慣れてるから、それが集合知、みたいな。一つの感性に少しずつ収斂されていっている感じがして、そこに本能的な嫌さを感じているのかもしれないですね。

キタニタツヤ×梨×大森時生「コミュニケーションとしての『不気味』論」


あるもののテンプレートがあるとして、それを外れたものは「不気味」なものとして出てくるはずである。それを描写することこそ、(伝わらないにしても)自分の本当の気持ちというものが現れるはずなのに、それをなぞってくる。
おそらく、言葉で伝えきれない情念を伝えるものとしてキタニが考えているのが『音楽』なのだろう。


1stアルバム『I DO(NOT)LOVE YOU.』で向き合った自己と人間存在の運命



キタニタツヤを私が聞きだしたのはここ1カ月である。そのため、ファーストメジャーアルバムを聴きなおした時に、びっくりした。それはこの1stアルバムがあまりにもどんよりと暗く、しかも最近の彼らしくなく「自分の心」の暗さに立ち向かっていたからだった。

しかし、カンザキイオリとキタニタツヤでは、その暗さの質は明確に違うように感じた。カンザキイオリは「死」という事を前にした時に、「自分と近い人の死」に対して苦しみ、嘆き叫んでいる。
一方でキタニにおいて嘆いている「死」は、どちらかというと「生まれてから死ぬことを決められている運命」であるように聞こえる。

『芥の部屋は錆色に沈む』は、飽き飽きとしたどうしようもない日々からの脱出のために、この日々を終わらせたいという。
『きっとこの命に意味は無かった』では、自分の存在意義を問う果てに、結局自分の命に意味がないことに気づく。(しかし、最後には何故か幸福の在り処を見つける)。
『それでも僕らの呼吸は止まない』では、何万回も劣等感にさいなまれても、生きてしまう自分自身を描いている。

理不尽が降り注ぐ日々の中の絶望を描く一方で、キタニは「水」のイメージと共に「恋」「愛」のイメージを紡いでいく。

『記憶の水槽』『初夏、殺意は街を浸す病のように』『波に名前をつけること、僕らの呼吸に終わりがあること。』『輪郭』は、上記の絶望が歌われた曲たちとは対照的に、「君」という存在がいて、その人といつかは別れなくてはいけないような寂しさが描かれている。
このアルバムに1曲1曲に込められている表情は、とても同じ時期の同じアーティストが作ったものには聞こえない。

しかし、このアルバムに一貫性があるとすれば、「君」も「僕」もいつかこの世から去って別れなくてはいけないという、運命への悲しみである。
そして、その別れの予感は、『君が夜の海に還るまで』⇒『輪郭』⇒『I DO LOVE YOU. (Interlude)』の順番に強くなっていく。

そして、アルバム最後の曲『I DO NOT LOVE YOU.』は、キタニタツヤが
「こう表現するしかなかった」ものがつまった曲である。Arctic Monkeysのべっとりしたギターリフを思わせる本曲は、アルバムを通して聞くと
「人は一人で死ななくてはいけない」という運命に抗うために書かれた曲に聞こえる。
キタニタツヤは、このアルバムで数えきれないほどのウソ(あるいは言い訳)を吐いてきた。彼は間違いなくこのアルバムで「人はいつか孤独に死ぬ」し、「愛した人とはいつか別れなくてはいけない」という運命を何度も描いてきた。
しかもそれは、『芥の部屋は錆色に沈む』であれば灰色、『きっとこの命に意味は無かった』であれば繁華街のネオンライト、『初夏、殺意は街を浸す病のように』であれば、夏のうだるような暑さとコンクリート・・・とその心象風景をレトリックとギターとベースの中に詰め込んでいた。

よく考えれば、本当に大事にしていない景色や命に対して、これまでの言葉を尽くすことはできない。でも、いくら虚飾や論理や音楽でなぞっても、「いつかこの命は終わる」「愛はいつか終わる」という事実は変わらない。
俯瞰して、天井から見下ろすように4畳半から、これほどの音楽を作れる彼なら、その厳然たる事実にも気づいていたのだろう。

何千ものウソをついて、それが何もならないことすら俯瞰した彼は、最後に救いを求めた。その絶唱がこの曲である。



キタニタツヤの躍進 2~4thアルバムの時期


セカンドアルバムからのキタニタツヤは、1stアルバムで見せたような内面の吐露に近い曲から、一点して、一つ一つの曲をコンセプチュアルに歌う題材をまとめるようになっていった。
ここから先は、1曲1曲に込められた文脈がどんどん重くなり、さらにキタニタツヤがあらゆる界隈とタイアップを行っていった時期と重なる。そのため、すべてを完璧になぞることはできないが、気になった曲をチョイスして語っていこう。

2ndアルバム『Seven Girls' H(e)avens』は、ギターロックの世界から一転して、クラブミュージックやトラップ、ファンクの世界へと傾倒していったアルバムである。
このアルバムは、現実から逃げた人たちの逃避場所としてのイメージで作られているという。そして、通しで聞くと、攻撃的な曲、人を見下げた曲、判れた相手を忘れられない曲がカオスな順番で混ざっている。

最後の曲である『クラブ・アンリアリティ』は、『Sad Girl』で歌われてきた性と愛と依存症でどろどろになった承認欲求で爆発している女の子に対して、嘲るのではなくて「人間はそうやってプログラムされてるもんなんだよ」と、俯瞰的にみることでそんな人間でも大丈夫だよと語りかける曲である。
このアルバムが暗いところも明るいところも含みこむように作られているのは、苦しい現実は明確に「ある」とみとめつつも、前に進む力強さを感じる。

3rdアルバムの『DEMAGOG』では、音楽的にはファーストアルバムで作ったロックに振り切った世界観と、セカンドアルバムでもたらされた電子的・デジタルな感覚を合わせたアルバムである。
しかし、歌詞に注目した場合、内容は非常にダーク側に振り切れている。ファーストアルバムで感じていたような、孤立する運命である人間を歌った『ハイドアンドシーク』、70億人の人々がお互いに相互監視を繰り返すことで、いつかは誰かがつるし上げられる地獄を、そして3曲目の『デッドウェイト』では、褒める言葉も、罵る言葉がどんどん自分を拘束していく様を描いていく。
1~3曲目が自分が閉じ込められた地獄の話をしているように聞こえるが、4曲目の『人間みたいね』からは、今度は同じ地獄にいることを知っているような女性(?)が現れる。「おそろいの悪夢を見よう」と語りかけてくる。
すると、5曲目の『悪夢』に突入する。歌の主人公は、「無意味で無秩序な悲劇」を繰り返し味あわせてくる世界に、ひたすら救いを求め続ける。
1~3曲目の内容が、まさにその地獄の様子を表していたのだろう。

そして、あまり一般には知られていないが重要な曲である『デマゴーグ』が現れる。1~5曲目にかけて、信じてきたものがどんどん壊れていく世界の中で、「孤独を分かち合う」ことができるなどという甘い嘘が存在しないこと、そして、現実の醜さすらも抱えて生きるその人に対して、祈りを繰り返し唱える。この曲のタイトルが『デマゴーグ』であるという事は、この
『祈り』はひとつの嘘である。しかし、この嘘は、すべての現実を受け止めた後に、どうしても人が抱えてしまう本能にも似た祈りである。

そして7曲目の『泥中の蓮』では、再び暗い現実にハードなギターサウンドで切り込んでいく。6曲目で微かな希望を歌った彼は、再び泥のような悪意の中に落ちていく。そして僕たちは「僕たちは咲くことのない睡蓮だ」と歌う。


4thアルバムの『BIPOLAR』は、キタニタツヤが本格的にタイアップを意識し、他者との共作を始めたアルバムである。アルバムのタイトル『BIPOLAR』は双極性障害を意味する。アルバムの販促動画を見ればわかるように、このアルバムは1曲目と10曲目、2曲目と9曲目・・・というように対比を意図して作られている。
1『振り子の上で』で、これまで歌っていなかったような、J-POPらしい感情を震わせるロックバラードを歌い上げる。その曲の中で「死にたい」と思った気持ちが「君」の存在のおかけで生きてよかったと語る。
方や10『よろこびのうた』では、自分がどうしても「言葉が通じない」という感覚があり、「終わるための場所」を探そうとする。希望と終わりを繰り返し選ばせる日々の運命につかれた人の嘆きがここにはあった。

2『PINK』では、ピンクに桜や愛する人のことをなぞらえて、その狂えるほどの美しさを半分ヤケクソで歌い上げる。あまりに美しすぎるものを見ると、人は「美しい」としかいえなくなる。
9『ちはる』は、「千春」という何度も繰り返す春を祈られた言葉をタイトルに冠している。n-bunaのさわやかで繊細なギターの音に載せて、春の雨の中にいる人を描いていく。その人はどうも「君(=想い人)」とは別れてしまったようである。
キタ二はこの春を「前向きなもの」として歌おうとした。一歩間違えると、暗い曲になりそうなこの曲を、彼は「ぬるい風に冬の残り香」という、寒い季節が終わったあとの感じを、何度も味わっていいんだと歌い上げる。

3『冷たい渦』では2『PINK』の後を受けるように、あまりに愛を注ぎ過ぎた故に枯れるほどまでに涙を流してしまった僕を歌い上げた。この曲で歌われたのは、止まることのない寂寥感である。
8『プラネテス』では、僕と対比され、女性をイメージされただろう「私」が、世間のニュースや綺麗な嘘ではなく、目の前にいる「あなた」と一緒に生きていきたいと歌い上げた。この曲に、明確な「好き」の言葉は描かれていない。ムーンリバーの歌詞にもあるように、『Two Drifters(二人の放浪者)』が一緒に生きていくためには、価値観も何もかも共通したものを持っていない私達は、一緒に生きていくために何度も困難を超える必要がある。
それでも生きていきたいという強さを彼は歌った。

4『タナトフォビア』と7『Rapport』はともにBLEACH20周年原画展の特別楽曲である。2曲とも「胸の中に空いた空虚」、まさに破面(アランカル)の胸に空いている穴を象徴的なモノとして描いている。
『タナトフォビア』は、死に恐怖する人間に対して、まるでアランカルのメンバーが死を宣告するように、若干の上から目線の嗜虐的な笑みが見えるナンバーである。
BLEACHを読む者たちに待ち受けているのは、愛する者があっさりに惨殺されるような残酷な運命である。この曲は、その事実に直面するときに人が「ニル・アドミラリ(無関心)」を超えられることを語っている。
8『Rapport』は、BLEACHの大切な主題の一つである「心」について、一聴すると冷酷に聞こえる無駄のないギタープレイの中で語る。
心を知るはずのないアランカルたちは、織姫や一護たちと死闘を繰り広げる中で、いつの間にかウルキオラには「心」が芽生え始める。ブリーチで描かれているのは、人と人のつながりの中で「心」が生まれるという、単純な事実と、そして4『タナトフォビア』で描かれたように、どんな人でもいつかは死ぬという事実である。
だから、この漫画の作者は、この物語の主人公に「一護」という名前をつけたのである。

5『聖者の行進』は、キタニタツヤの代表曲のひとつとなった、TVアニメ「平穏世代の韋駄天達」の主題歌である。タイトルから考えると『悪魔の踊り方』の裏の曲のように聞こえてくる。
この曲で歌われている「聖者」は、もしも「悪魔」の裏ならば弱い僕達をすべて統べてしまう世論や集団圧力のようなものに聞こえる。大抵の人たちは、「平穏な日々」に隠れて、自分の個性も押しつぶして生きてしまう。PVで描かれた黒い人たちのように。
6『夜警』では、深夜の中でどこにも出口のない千日手の中に惑っている人々の様子を、まるで飛行機の上から見ているように俯瞰してみる一曲。『聖者の行進』では、みんなと同じものを選ぶ奇妙な高まりを音楽に込めていたが、『夜警』では自らの個性をいつの間にか捨てている人々や世界を「葬列」の一つだと歌い上げる。





(あえて)キタニタツヤを批判してみる ーー依存先の神様を殺してカッコつけた英雄気取り?



ここから書くことは、わたし自身でも『言い過ぎ』と感じていることである。しかし、キタニ自身が「ちゃんと自分の頭で考えろ」と言ってくるため、ちょっと気になったところを言葉にしてみようと思う。

キタニタツヤは、『悪魔の踊り方』がPVの表現の影響で「政治批判の歌だ」と言われ、それに多数の賛同が集まったことに対して、次のように述べている。

あなたの信じるものは、本当にあなたの意思で選んだものか 他人に踊らされていないか おれが世界で最も嫌悪するのは、誰もが拝んでいる神を無批判に受け入れ、皆と同じ形で信奉し、それになんの疑念も抱かないセンスのない人間 社会批判なんかじゃない お前のこと言ってんだよ

キタニタツヤ X 2018/4/27

前述のように、キタニタツヤは神様に縋って自分の意志を捨てるようなものが嫌いであると間違いなく繰り返し言ってきた。例えば『パノプティコン』のPVには、キタニを崇拝しているファンの様子を揶揄するような描写が入ったり、4カ月前に突然発表されたショートドラマ『監禁』の内容も、ファンへの警告のようなものと捉えることができる。

しかし、ここ半年のキタニタツヤの楽曲、とりわけGEMNの『ファタール』のような楽曲を聞いていた時に、(もちろんものすごくよい曲なのは前提だが)、「キタ二はこうしたまっすぐに愛を語ってしまう曲こそが嫌だったのではないか・・・?」と、あるいは「アイドルは、まさにキタニが嫌がっていた"人を思考停止に陥れるもの"にもなりえるのではないか・・・?」と流石に最近聞き始めた私でも一瞬はてなが出てしまった。
(念のために、言えば私はアイドルは全然嫌いではないが、推し活の流行で、人々が調子を崩しているのは知っている)


ニエドヴィエツキが気づいていないのは、このようにみんなが反逆したがっていても、みんなが成功することはできないことである。誰もが「くだらない売上げトップ40」には背を向け、オルタナティヴ音楽を聴きだすなら、今度はそのオルタナティヴなトップ40になる。これはさまにニルヴァーナに起こったことだ。しかも、アルバム制作には大いに費用がかかるが、対価のプレスにはごくわずかしかかからない音楽業界にはごくわずかしかかからない音楽業界の構造を考えると、結局は大多数の人が聞くようになるバンドが極端に儲かることになる。(中略)
まあ、こういうことだ。大衆社会の圧制を避けようとした反逆者はいつしかがら空きのバーにいて、自身でも「いらいらする」と認める音楽に耳を傾けつつ、目立ちたがり屋に対する優越感に浸るのだ。

ジョセフ・ヒース&アンドルー・ポター『反逆の神話 「反体制」はカネになる』

さらにもうひとつ違う目線の突っ込みをしてみよう。

前述したように、キタニタツヤは固定した見方をすることを避け、常に既成の考え方を斜に構える、まさにオルタナティヴな形でリスナーに提示してきた。
しかし、90年代に若者たちの陰鬱な感情を代弁したNirvanaが逆に神格化されてしまい、そのことに悩んだように、キタニタツヤの歩みも一歩間違えると、既存の音楽の常識を打ち破った後にキタニタツヤを神格化するにとどまってしまうのではないか。
あの人は常識を超えたことを言ってくれる。かっこよくて、頭いい!

そして、彼がありとあらゆる方法で、レトリックを駆使して「絶望」や「愛の不可能性」も、人々の間では一つの消費財にしかならないのではないか。


さらに言えば、以前私が依存症について調べた時にわかったことだが、「依存症」を患う人は、快楽を求めているのではなく、『苦痛を緩和したい』という理由から、人や薬物に依存するのだという。
依存症の専門医である松本俊彦氏は、健康的な依存をしている人は依存先が多く、依存症になりがちな人はむしろ「依存先がない」「依存ができない」ことが極端な依存にひとを走らせるという。

そう考えると、『悪魔の踊り方』や『デマゴーグ』で歌われていることに対する目線もちょっとだけ変わってくる。確かに『悪魔の踊り方』で歌われた「おまえら」のように、人はだれかに頼ってしか生きていけないしょーもない奴かもしれない。そして『デマゴーグ』で歌われていたように、「痛みは分かち合えない」と言ってしまうのは確かに倫理的に正しい。(人の痛みをすべてわかるなんて嘘もいいとこだからだ)
しかし、キタニが他者に求めている理想はあまりに「清貧」に見えてくる。例えばカンザキイオリが『君の神様になりたい。』で言ったように、例え、それがぐじゅぐじゅのエゴだと気づいていても、生身の心の声をぶつけることも、あるいは自分が助けてあげたいという事も、時には必要ではないか?




キタニタツヤ 5thアルバム『ROUNDABOUT』ーー自分の弱さと、他者と向き合うための、まっすぐなアルバム



私のしょうもない批判を吹き飛ばすように、キタニタツヤ 5th Album『ROUNDABOUT』はこれまでの彼のディスコグラフィーの中で最もまっすぐなアルバムである。



このアルバムは、『呪術廻戦』や『BLEACH』といったジャンプアニメの主題歌で、明確に知名度を上げ、紅白歌合戦まで出場したキタニタツヤが、自分は『ROUNDABOUT』(まわりくどいやつ)だと、自分自身を紹介するように作ったアルバムである。

 『私が明日死ぬなら』は、冒頭にも書いたようにカンザキイオリや、彼を取り巻くボカロの世界へのトリビュートを感じる一曲である。キタニタツヤの曲は、カラオケなどでメロディを見ればよいがAメロBメロは非常に細かく上下に動いていることが多い。しかし、この曲はカンザキイオリのように、同じ音程を連続させ、滔々と話す言葉を伝える。

キタニはこの曲の冒頭で小さな声で「私が明日死ぬなら」と言葉を重ね始める。私が明日死ぬなら、悔やむことがある。感謝したいことがある。今日の日のつまらなさを音楽にしたい。
慎重に確認したいのは、この時に「私」は本来は死にたがっていないということである。そして、過去の歌(『デマゴーグ』)を参照すれば、死にたがっていない人が、死にたがっている人に声をかけるなんて、本来おかしいことなのかもしれない。
だから、彼は反実仮想の世界を開いた。「私が明日死にたいと思う人なら」何を思うかを、重ねて書いていった。
そして、彼はサビで爆発するように、「約束」を押し付けた

「約束」とは根拠がないけれども、二人の間で大事にする言葉である。
そして、キタニは加えて「あなたが明日も生きたら」と言い続ける。
これは、「死にたいあなた」と「生きたい私」の立場を逆転させるための
魔法の言葉だ。あるいは、本気のごっこあそびだ。

私は、この曲を聞いてカンザキイオリをどうしても思い浮かべてしまうと言った。それは、カンザキはたとえ不器用で、救いがなくても俯瞰するのではなく、死にたがっている子に対してまっすぐ言葉を放ち続けたアーティストだったからだ。そして『不器用な男』という曲にあるように、それは彼自身も死にたくないという想いをしょっているからだった。

一方でキタニタツヤが戦っていたのは、個人の死というよりも「孤独に死ぬ運命にある人間の絶望」だった。
もしも、運命として『人間が死ぬ』こと、音楽に歌われている『愛』はあっさり終わることを知っていれば、そこから生まれる言葉は愚痴と諧謔と無意味だった。そこから、彼は何度も何度も『愛の終わり』と『命の終わり』と『孤独』と、生きている人間が持ってしまう性を描いてきた。

彼は何度も、音楽の物語の中で、運命に抗えない人の弱さ(『タナトフォビア』『よろこびのうた』)と、その運命を自覚しても何度も繰り返そうとする人の心(『ちはる』『プラテネス』『Rapport』)を描いてきた。
それは、何遍も重ねられた嘘だった。いや、嘘という名前の祈りと呪いだった。彼が描いたのは、本当とウソの間にある、終わる運命に抗う人間の無力だけど、確かな意志だった。

何度も何度も、運命に抗うためにキタニタツヤは「嘘」を重ねてきた。
「はぐらかし」と「ずらし」と「俯瞰」を重ねてきた。
そして、この曲でキタ二はその「はぐらかし(ROUNDABOUT)」をもって、
死の運命につぶされそうな子に、約束という名前の嘘を、つぶやいた。

それは、いつも慎重深く、時に諧謔的に死の運命から目を背けてしまう彼の、何度も何度も重ねてきた、唯一できる誠意だった。
その言葉はもはやキタニタツヤの言葉というよりも、彼の読んできたマンガに、ボカロに、音楽に、地獄を見ながら祈り続けた人々の言葉なのかもしれない。
この曲を聞くたびに、私は静かに涙を流すことしかできない。

2曲目の『青のすみか』は、呪術廻戦の主題歌として、世代を超えた大ヒット曲となり、紅白歌合戦で披露されることとなった楽曲である。
私は残念ながら呪術廻戦を読めていないが、この曲は数多くの呪術ファンが考察を重ねてきたため、むしろ私は普通の曲として聞いた時のこの曲の感想を述べてみようと思う。
この曲で描かれているのは、何も前知識がない状態ではある意味で『普通の青春物語』に見える。
そして、『何者でもなかった僕ら』が、何者かになるにつれ、段々と別れの気配を感じさせてしまう、青春の切なさを鋭く歌っているように聞こえる。
この曲で歌われている『青』は、おそらくこのアルバムの上では『スカー』における『青天井』と狙って対比させられている。呪術廻戦の文脈を取り除くと、この曲で歌い手は別れの寂しさを歌っている。そしてその別れを受け止めた歌い手は、『スカー』でふたたび立ち上がる。

3曲目の『Moonthief』は、これまでのキタニタツヤ以上に早口のボーカルから始まる一曲である。月を盗んだら、『月が綺麗だ』という事がなくなるために、愛という言葉も死語になる。しかし、そう歌う主人公は、他と違う人間というふりをしているがどうしても「寂しさがぬぐえない」。
この曲の主語は「ぼくら」である。「愛」なんて信じられない奴らは、月を盗もうとする。この曲は6曲目の『月光』と組み合わせて聞くと、まるで芸術や先駆者に対する憧れに悩むアーティストの嘆きにも聞こえてくる。

4曲目の『キュートアグレッション』は、怪しげなアルペジオから始まって、かわいいものをいじめる心境を描いた一曲である。Bメロで入ってくるきしょい(誉め言葉)エフェクトをかけられたボーカルは、ねじりよるように女性を踏みにじってみたいと言ってくる。

5曲目の『化猫』は4曲目の『キュートアグレッション』と連続することで、「かわいい君」がどのような人間かを表すような一曲になっている。この曲では、前の曲ではサドっぽいところを見せていた歌い手が、実は化猫であるあなたにすべて奪われているかのような描写がされていた。

6曲目の『月光 (feat. はるまきごはん)』は、ボカロPのはるまきごはんとの共作である。ツインボーカルで作られたこの曲もまた、『Moonthief』と対になっているように思える。この曲で語られている「月光」は、おそらく憧れとして描かれている「あなた」のことである。
クリエイターの心をえぐりだしそうな「また誰かの焼き直し?」の言葉だが、この曲の主眼はむしろ「偽物や真実」と言ったものの向こう側にあった「ぼやけた記憶」である憧れである。
この曲を聞いた後に『Moontheif』を聞くと、あこがれだったはずの「月の明かり」はなんと「邪魔」になっている。

7曲目『旅にでも出よっか』は、これまでのキタ二タツヤの曲の中でも特に静かな一曲である。あまり大きく解釈することもない。
頑張りたくない時は、やりたいことをやっていい。
ここまでストレートにいいたいことを言っている曲は、キタニタツヤ楽曲の中でも少ないと思われる。
アルバム全体としてみた時に、1~6までのトラックは相当言葉が詰め込まれており、確かにここあたりで疲れてしまいそうだ。その意味もあってここにこの曲が入っているのかもしれない。


8曲目『ナイトルーティーン (cover)』は、もともとヨルシカのsuisがボーカルを務めていた曲を、キタニタツヤが歌いなおしたものである。suisさんが歌うことをイメージしたからか、7曲目と連続して音抜けの気持ちよさをイメージして作られていると思われる。
ポイントは、7曲目の『旅にでも出よっか』が、現実からの離脱のための旅だったのに対して、この曲は日常の繰り返しの中で、失われた君の存在を静かに描いている感じがある。しかも、2ndアルバムの『穴のあいた生活』で、「流行りの映画でもみるよ」と言って曲が終わっているのにも、ささやかに連続している。
「君がいない日常」を耐えるために、ささやかな意味のない習慣をたどっていく。コンビニを見る目は、いつのまにかぼやけている。

しかし、この曲は、この次の曲『スカー』が朝~昼の「青空」のイメージで始まっていることを考えると、ここもイメージがつながっているのである。

9曲目の『スカー』は、BLEACH 千年血戦篇の主題歌である。
私見では、この曲がある意味で、最もこれまででキタニタツヤらしくない曲であり、それを導いたのは『BLEACH』の主人公である黒崎一護である。
この曲は、『青のすみか』と同じように青天井(青空)の描写から始まる。
その空に浮かんでいるものは、BLEACHの物語に照らし合わせれば守れなかった仲間たちのことかもしれない。
アジカンを彷彿ともさせる、パワーコード+音圧の強烈なギターリフの音に乗せられて、この曲で描かれるのは、これまでのキタニの曲の中でも最も輝く傷口から垂れ流されるような覚悟だった。
カラオケで実際に歌っても相当な難曲であり、呼吸する暇すら与えないような、仄かな焦燥感とこれからに立ち向かうために描かれた名曲である。

10曲目の『大人になっても』は、おそらくは『私が明日死ぬなら』と対比を意識して作られた曲である。一瞬救世主みたいになった彼も、この曲では相変わらず、冷や水を書けてくる。これまで真面目くさった自分への照れ隠しのような曲である。

「苦しみ」はある。ありあわせの言葉でしか生きられない。
それが人間だ。このアルバムを聞いて、彼の言葉がありあわせに聞こえた人が、どれだけいるだろうか。






終わりに

貴方の望んだその世界には確かに恐怖はないだろう。だが、死の恐怖のない世界では人は、それを退けて希望を探す事をしないだろう。
人はただ生きるだけでも歩み続けるが、それは恐怖を退けて歩み続ける事とはまるで違う 
だから人はその歩みに特別な名前をつけるのだ
”勇気”と 

BLEACH 74巻

キタニタツヤには、『天国の改札』という知る人ぞ知る曲がある。歌詞は本人がXにあげている。1分に満たないこの曲は、短いがあっけらかんとこの世の真実を歌う。
ハッピーな音であふれているこの曲は短すぎるがゆえに、キタニの曲にしては虚飾なく、彼が思っていることを言ってしまっているように聞こえる。

僕たちは、いつか死ぬ運命にあって生きたくない時は、いつか死ぬ選択肢がある。そうして迷惑をかけて死んでしまっていい。
それは、特に初期の彼のアルバムに滲み出ていた気持ちだった。

人は一人で死ぬ。

それでも。

彼はこの曲の完成版を作ることはなく、5thアルバム『ROUNDABOUT』で生を歌った。死に向かう人間ではなく、天国でも地獄でも生きられない、何度も失って、人に惹かれて打ちひしがれる人間の生を歌った。
私が「いつか死ぬ」なら「約束」は無意味なのかもしれない。
でも、彼はその「約束」を歌うことを選んだ。
運命に何度も打ちひしがれ、皮肉を歌い続けた彼は、最後に『愛』を歌うことを選んだ。それは、回りくどく、色々なレトリックで歌の歌詞に自分の言葉を隠してしまう彼の覚悟のように、私には聞こえた。


子どもの頃、少年漫画で見た主人公たちは、色々な生を見せてくれた。
読者から見れば叶うはずのない恋を。
死神代行となる運命を、先祖代々から勝手に押し付けられ、それでも人を護るために立ち上がる勇気を。
仲間を失い、一人うなだれる主人公が、静かに心を取り戻すその時を。

でも、世界に出るなかで人は、『聖者の行進』や『夜警』で歌われるように、苦しみから逃れるために、子どもの時に大事にしていた大事な気持ちも忘れてしまう。

その中で、地獄のような現実に目を背けず、天国の誘惑からも慎重に離れ、勇敢に今の一瞬をかみしめて生きる少年ジャンプの主人公たちのように――言葉を紡ぎ続けるあなたに、最大の敬意を送ります。




P.S. キタニタツヤの「不気味な子どもたち」としての『ずうっといっしょ!』

キタニタツヤの『ずうっといっしょ!』は、活動10周年を記念した日に突然サプライズ発表された曲である。そして、今日2025年に至るまで、Vtuberや歌い手の人たちに次々カバーされ、いわゆる「バイラルヒット」を起こしている楽曲である。
この曲を最初に聞いた時に、確かにめちゃくちゃヒットしそうな曲だし、実際ヒットもしたのだが、10周年記念で出す曲かな……?と若干の不思議さがあった。
この曲はいつだって死にたくないような孤独を抱えた女の子が、何かを今なくしてしまったことで吹っ切れて、怨念のように主人公のトラウマのようにずうっと頭の中にこびりついた記憶になってやると歌った歌である。
『今なくしたそれ』というのは、普通に考えると、「(男が)一緒に過ちを犯した」せいでなくしたものなので、まあ「処女」か、「最初の処女を捧げた人の愛」と考えるのが普通だろう。サウンドは、おそらく初期のこんにちは谷田さんを思わせるように作られている。しかし、こんなドロドロの曲が出てくるとは……と、Youtubeで『ずうっといっしょ』を検索して、にじさんじをはじめとしたVtuberの人たちがこぞって歌ってみたしてみたのをみて考えていた。

なるほどなあ・・・と考えていて、恐ろしいことに気が付いた。

キタニタツヤが1stアルバムで描いていた主人公たちは、何らかの「誤り」を犯して、一緒にいきることができなくなった人たちだった。そしてその主人公は、最終的にとてつもない孤独を味わい、承認欲求を爆発させる。

この曲は、まるで初期のキタニタツヤみたいだ。女の子らしいかわいいものに目がない様子などはあるが、まるで自分を愛したり憎んだりする人を探す様子は、最初のアルバムで描かれた人物のようだ。
とすれば、この曲もまた、ファーストアルバムの自分を「天井から見て」「俯瞰して」描いたものとなる。
とすれば、この曲は、自分が若い時に味わった承認欲求の爆発を、
若い子たちにも追体験させようとしている――まるで自分の子供たちを生むように。

その次の瞬間、画面に映し出されていたたくさんのずうっといっしょの画像が、すべてニコ生かなんかで変顔している長髪の男の画像に切り替わった。
冷や汗が出た。

次の瞬間、私の部屋のドアが吹き飛ぶように開いた。
そこには、『ずうっといっしょ!』のサムネを仮面にした長髪の男
手には麻袋とナイフ。

銀色のピアスが光る口元は、気のせいかニヤニヤと不愉快な笑みをこちらに向けていた。

いいなと思ったら応援しよう!