その瞳の先にうつる色の方へ ーー米山舞先生の絵を並べて、見て考え感じたこと (SSS Re/arise展の感想を添えて)
そもそも人は、絵に対して何かを言うことができるだろうか。
今、手元にある画集に目をやってみる。そこにはまっすぐな目線を、画面のこちらに向けてくる、大きなメガネの女の子がいる。(『ING』146ページ)
その目線と、実在しているような強度に、私は最初この同人誌を手に取った時に、文字通り言葉を失っていた。なんだか、絵の中にいる人物――その女の子は絵を描いているようにも見える――にこちらの心の中まで全て見透かそうとするような、その目に全てを焼き付けるために覚悟を決めている様子を受け取らざるを得なかった。
これだけの覚悟や執念を持って描かれたものに、そもそも言葉がいるだろうか。これが最初の感想だった。
そこから、色々な縁や偶然が重なり、再びペンを握っている。多分この文章もひとつの無駄(Senseless)に終わるかもしれない。
前回の、焦茶さんの記事の中でちらっと米山舞先生と、SSS所属のPalow.さんに関わる話をしている。ある一人のイラストレーターの願いのお話であり、個人的には、お二人に強く関係があるお話だと思っている。
「伝える」と「伝わる」もの ーーHOWとWHY
この文章は、ある絵に関わっている知り合いに「イラスト」を言葉にすることの意味を問われた所から始まっている。前回の記事でも書いたように、今イラストレーターの世界では、中村佑介さんの提言を始め、何が問題で、何が絵にとって大事なことなのかを語る言葉が欲されている。
しかし、私はイラストレーターの絵に関して、言葉を書くことの難易度のあまりの高さから、かなり悲観的な感覚を持っている。何故悲観的かといえば、How To、つまり技術的側面に関して言えば、恐らくイラストレーターの方や周りの技術者の方の方が圧倒的に把握しているだろうからだ。細部に関する視線は、そのトレーニングや体験を繰りかえし通っていない私は、敵うわけがないと感じている。
この記事では「イラストレーター」としての米山舞さんの作品に触れに行っている。しかもその活動の中でも個人制作に向けられた作品に目線を向けている。米山舞先生の仕事を、誰の技術の系譜の上に存在しているかを語ることは、できる。特にTRIGGERの吉成曜さん、すしお先生からつなげていけば語ることは出来る。特にエフェクトの書き方については、明らかに連続性も認められる。
ただ、これらのお話は、『ネット絵史』や『illustration 特集 米山舞』にて、ご本人からかなり詳細に語られている。特にアニメーターの方は、自分の師匠にあたる方を大事にされるとよく聞くので、米山先生の対談や、SSS Re/aliseの便覧でも、その感じが伝わってきた。
では、何もかものHowは描かれきってしまっている中で、果たして人は何を書けばいいのか。私の答えのひとつは、WHY、つまり「なんの願いが込められているのか」を読むことである。SSS Re/ariseの便覧には、SSSのアーティストは「挑むべき問題を作るアーテイスト」という一つの定義が示唆されている。つまり、なんらかの問題を自己設定して、それに対して絵を描いていることが示唆されている。その問題が何なのかに思いをはせながら、見てみることである。
イラストレーターという職業の語りにくさは、その絵が「なぜ」そのように描かれているのかという理由が、立場や人によって変わりすぎるからだ。すると、それを探る作業は、恐らく決してわかりやすい前提に頼ることのできない、絵と一緒に考えるような、手探りのものになるだろう。
人類学者の磯野真穂は、アメリカの人類学者クリフォード・ギアツの「人は自らが紡ぎ出した意味の網の目(webs of significance)で生きる動物である」という言葉を、「人間が自分自身で意味を作り出し、そしてその中で生きることのかけがえのなさ」を謳う言葉として使ったのではないかと述べている。
誰しもが、憧れたものや自分が好きなもの、物語や世界観を自分なりの言葉や形で表している。そして、絵を描く人ならばその時間の厚みや、本来なら言葉にできないものや、ある時間感覚を形にできるように祈りながら、現実の様々な制約に阻まれながらも、遠い未来を想像しながら作品を書いている。すると、絵を見る経験は、本来、ある人が大事に作った意味や考えの肌理に、触ってみるようなスリリングな体験のはずだ。個人制作なら、なおさら、である。
ここから素人の私が書くのは、ある一人のイラストレーターのイラストを見て、感じたことを描いたひとつの断続的な「線」である。それは、ひとりが思わず読み取ってしまった幻覚や思い込みのようなものにすぎない。ひとりが、勝手に「伝わった」と思い込んだものに過ぎない。
「絵を時系列的に見てみる」という単純な方法
これからやろうとしていることは、非常に愚直で簡単な方法である。それは、ひとりのイラストレーターさんの絵を、時系列順に並べてみてみることだ。そして、何が大事なものとして、その絵に込められているかを――たとえそれが抽象的に見えても――考えてみることだ。
longing (2010)
「longing」は2010年に初めて「イラスト」として公開された作品である。Longingとは憧れという意味。2020年に完全食COMPの企画でもう一度書かれた、ご本人が「イラストレーターになる時の心の支えになった」と述べる原点となる作品である。
被写界深度を浅くして、ピントが合っている場所をわざと天使の目元に集約させている。拡大してみると、天使の目にはなにやらロケットが空を飛んでいる様子が反射している。この絵全体を包んでいるオレンジ色の光は、ロケットの炎か、あるいは夕焼けだと考えられる。
esc. (2018)
「esc.」は2018年の、COMITIA126に向けて作られた同人誌と、イラストの連作シリーズである。その表紙の絵となる「esc.」では、黒いジャケットのようなものに縛られた、ハリボテの天使の輪をつけた天使らしき子が描かれている。こちらもよくよくアップしてみると、なにやらこの天使の瞳は、人工的なものなのか、ひび割れてしまっているように見える。
次の絵「esc.002」では、中華街のような場所から逃げていく天使が描かれている。よく見ると背景にドラえもんやハローキティのニセモノ?らしきものが描かれている。M-59と書かれたプレートを耳に付けた彼女は、腕や腰をいびつに繋がれている。
「esc.003」では、黒い服を着た女性が、紫のネオンサイン(それは天使の形をしている)を見て、それが鏡の中に反射している様子を描いている。(個人的な想起だが、スピッツの草野さんが、「紫という色は孤独の色である」という言葉を残しているのを思い出した。スピッツは、「紫の夜を越えて」という歌を作っている)
「esc.004」では傷がついた天使が、骨折をしているようでありながらも、こちらを見つめてニッコリ笑っている。
この四つの絵の中の天使たちは、ぱっと見た限りの印象では同じようなキャラクターではない。そして、この、キャラクターの名前が確定されないままで、次々と繰り出されていくのが、米山先生の絵の一つの特徴である。しかし、一回でキャラクターが使い古されるのではなく、たまにデジャブみたいに、後の絵でその子らしき子が出てくる。
それこそ「キルラキル」を始め、日本のアニメーションを思い浮かべてみると、相当の数の人が同じキャラクターを描くことになる。すると、例えばうつのみや理さんや井上俊之さんの作画と、今石監督の作画はコマ数やデフォルメ度数は違うが、アニメーターの違いを気にせず見ている視聴者からは、一つのキャラクターとして認知される。ここを読み解きに行くのは、いわゆる作画オタクと呼ばれる人々だろう。
同じキャラクターの輪郭を破壊しない範囲で、ギリギリまで表現の可能性を模索する独特の感覚は、アニメーター(しかも特にケレン味の強いTRIGGERの作品を通して)の力と考えられるのかもしれない。米山先生の絵を見ながら私は明らかにそれが彼女の絵だと見た瞬間にわかる。一方で、そこに現れる現象や人の顔は、これほどまでにさまざまである。
SHE(2019)
「SHE」は、2019年12月6日より行われた個展に向けて作られたシリーズである。
「SHE」という言葉にかけて次々と作品が生み出されているが、ここで注目するべきは、「SHE」「SHE - BLACK RAT」の二作品である。相変わらず、キャラクターが前作の「esc.」と同じ子かどうかははっきりは同定できない。しかし、この2作の絵が、まるで「esc.」の次のシーンのように、はっきりと自分を縛った囲いを破ったように見えるのは確かである。
「SHE」の天使の、瞳・体を束縛する紐・体に付けられた傷には、おなじ明度のオレンジ色が使われている。「SHE -BLACK RAT」の方では、さらに身に着けた紐らしきものすら振り払っているように見える。
ここで、実際に米山先生の絵を見られた方はお気づきになるだろうが、初期の米山先生の画集の表紙やキーポイントになった絵には、徹底して天使のモチーフが使われている。『西洋美術解読事典』には、天使とは「神に代わって神意を地上に伝え、実行する者」と書かれている。
そこで、ふと私が以前読んだ、文章を書くための心得としての本を思い出した。フランス文学の研究者である内田樹氏は、映画『パイレーツオブカリビアン』で、海賊の主人公たちが檻の中に囚われた時に、その檻から器用に手足を出して逃げる様子こそが、人が芸術を習得する過程をよく表したメタファーだと考えた。檻に囚われる、母語をよく読み、身体に食い込むまで知る。その特性を知り尽くした人こそが、自分を縛る檻こそが逆にその人を守る盾となってくれる。
イラストレーターの焦茶さんは、亡くなる前に天使の絵の画集を出版されていたことも想起されてきたが、なにより、内田樹氏のこの比喩を思い浮かべながら絵を見てみると、「SHE」という画集や絵が、イラストレーターとして転換期の絵ではないかという部分に思いをはせざるをえなかった。longingの時期からずっと、描かれる天使たちは何かに縛られている。
そして、SHEで描かれている天使は、よく見ると羽根もボロボロで、天使というよりもカラスや悪魔に見ようと思えば見れるからだ。
アニメーターという職業は、基本的に他の人の絵を合わせつつ、伝えるべき物語のために絵を描いていく職業だと一般的には考えられる。一方で2010年以降のイラストレーターは、特にpixivとTwitterの登場により、いかに自分らしい絵柄を出すかに人々の関心は向かっていた。そうした状況を背景において考えると、邪推かもしれないが、この絵を描いた人の状況を想ってしまう。
「SHE」の時期から、米山先生の絵は具体的なモチーフから現象を激しく描き始めていく。さらに、ここで注目されたいのは、特にこのSHEの時期に強く印象づけられた「オレンジ色」がどのような場所に使われているかである。若干色は薄いが、最初は「longing」のロケットや夕焼けのようなところから始まっている。次に「SHE」では、「esc.」で自らを縛っていた紐・ベルトのようなもの、そして傷跡がオレンジ色に染まっている。
このオレンジ色のもののモチーフは、その後も「A LOT」「SHE WAS」「A LOT」「DISCOVER」「JOY」と、繰り返し繰り返しその絵を貫く基調となる色として使われている。自分を縛るモチーフだったものが、その後自分の色であるオレンジにどんどんと染まっていくのだ。
特に2021年のpixivより出版された画集「VISIONS」の表紙に使われた絵「VISIONS」で目を引くのは、カメラ、映画、メガネ、スマートフォンといった、空間を切り取るものに対してオレンジが使われている。
EGO (2021)
「EGO」は、2021年4月に行われた2回目の個展と、それに伴って作られた連作のシリーズ。このころから、いよいよ絵は具体的なモチーフのレベルを脱して、抽象的な現象をとらえた作品へと飛翔していく。
これまでの絵は、一応モチーフや題名がわかりやすい形態(天使や蝶、中華街など場所の情報)を持っていた。しかしここから先は、いよいよ表現が何を指示しているかをはっきりということが難しくなっていく。
一か所だけ、美術史的に考えたことを記してみよう。アンフォルメルと呼ばれる、第二次世界大戦後にフランスを中心に流行した芸術形態が存在している。「非定型」を意味するその芸術運動は必ずしも長続きはしなかった。しかし、当時の美術評論家である宮川淳は、「アンフォルメル以後」と呼ばれる文章の中で、その芸術運動は「フォルム(形態)からマチエール(素材の質感)へ」、「なにものかの表現」であることから「表現行為そのもの」の自立という意味で、大きな意味が存在していたという。
一瞬、米山先生の絵はこの移行を再現しているように見える。しかし、はっきりと以前と違うのは、その非定型な現象が「顔をはっきり描かれた人」を媒介に描かれることで、「わかりやすい」ものになっていることを感じることだ。正方形の形は、インスタグラムや「インスタマチック」と呼ばれる、古いコダックによる写真の規格と同じだったりする。
……と美術の知識からカッコつけたことを言ってみても、この時期からいよいよこうした定規や外の尺度がうまく通用しないような気持ちになってくる。おそらく、ここから先の絵について、もっと深く知るには二つの力がいる。一つ目は、金田伊功さんから始まる、アニメにおける爆発や水のエフェクトなどを見分ける力である。二つ目はお化粧や花など、描かれている自然の要素を一個一個丁寧に腑分けしてみる力である。「EGO -BEAT」や「EGO -GRIN」と、演出の方がその本人を食べてしまったような絵が続いていく。ここから先の絵については、他の人に意見を聞いてみて、考えたことが増えたら追記する可能性がある。
ING/YOKU (2022)
「ING」は2022年2月に行われた個展、そしてC99に向けて作られたラフ・線画本である。ここではラフスケッチ本「ING」について触れる。
有馬トモユキさんによりデザインされた表紙をめくると、そこには銀色のカッ と目を見開いた女性が、こちらを強烈に見つめている絵が赤地の紙に銀色の線で描かれている。
これまで描かれた作品や新作のラフで埋め尽くされたこの画集は、しかし、ところどころに色がつけ足されている。特に目に映るのは表紙にもある「赤」である。
実は、オレンジの色について言及していた時に立てていた仮説がある。それは、このオレンジ色というのは「血」であり(「SHE」の絵では自分を縛っていたベルトや傷口からそれは出ていた)、だとすればこの赤色――もしかするとオレンジ色で書かれていた物たちも――は、「自分の血肉になったもの」を意味するのではないか。それは、このラフスケッチを見てさらに感じ方が強くなった。
続けて、2022年3月18日に、歌手のEveさんと化粧品のKATEがコラボレーションした楽曲「YOKU」のPVが投稿された。この曲は「KATE 欲コレクション」インスパイアソングと題されており、108色のアイカラーのコレクションや、「解放する欲」「ゆずれない欲」「膨らむ欲」「こだわりの欲」とアイシャドウ・ペンシルセット・ジェルグリッター・ハイライトそれぞれにキーワードが当てられている。
Eveさんの曲と聞くと「廻廻奇譚」や「ドラマツルギー」「お気に召すまま」「あの娘シークレット」といった、特にディスコのリズムにも影響を受けたようなアップテンポな曲を思い浮かべることが多いが、この曲は彼の曲の中でもBPMがかなりさげられており、浮遊感のある音作りがされている。「レーゾンデートル」では、米山舞先生が作画監督を担当されている。
イラストレーションに限定すると冒頭に書いておいて、このアニメーションPVを取り上げるのは、サムネイルを見ていただくと少し理由がわかるかもしれない。
あえて、バラバラに見てもいいはずの「イラストレーション」を、ある作家さんの人生に沿って並べてみた。この曲のPVまでたどり着くと――必ずしもそれが論理的にならんでいないとしても――なにか一つの筋のようなものがみえないだろうか?
最初に天使がオレンジの光に憧れた時、それは遠く手の届かない「対象物」だった。しかしこのPVにたどりつくと、その光の色は自分の目の中にすでにあって、それを彩るのは自分自身であるという覚悟が決まっているように見える。
天使はもういない。しかし、ある一人の人間にとっては、すでに視界どころか、自分の髪や周りの世界まで、自分の感じた色ですべてが彩っているのは――あるいは彩られているのは――自分なのである。
どんな人だってイラストを描くときは、真っ白な下地から始まるし、そのたびに何回も再出発や生まれ変わりをしているようなもんだと、友達が言っていたことがある。だとすれば、ここに現れているのは、あるひとりの人が、キャンバスの奥に、繰り返し――色々な人が使ってきた技法や考え方を大切にしながら――何回も見つめてきた跡なのである。
花譜さんたちが所属するKAMITSUBAKI STUDIOと並列して、2021年に設立されたレーベル「SHINSEKAI STUDIO」には、米山先生がキャラクターデザインを担当された明透さんと存流さんが所属している。この二人のキャラクターデザインが、特にesc.の時期の絵から、少しずつ受け継いでいる。
SSS Re/arise #1 EXHIBITION TOKYO ーーDAWN/DUSK (2022)
(写真・著者撮影)
そして、SSS Re/arise #1 EXHIBITION TOKYOは、東京にて2022年6月11日から19日にかけて行われた挑戦的な展覧会である。そしてこの展示会に参加してきた。
この展示会の中で強く意識された言葉のひとつが「過程の体験」だったことから、この展示でも、自分の絵を見る感性の幅の狭さを感じさせられた。
例えば写真両端にある「PARTITION」シリーズの絵を、今の便覧で見てみると「stream」であれば右の足や左の腕のあたり、「offering」であれば腰のあたりは、かなり人体の構造よりも絵のリズムや、元々のモチーフを重視して描かれているように見える。これは平面の絵に対してはこういえることだろう。
しかし一方でこの絵は、家の居住空間を仕切るパティーションのために描かれている。つまり「揺れる」はずである。固定したものを見るイメージと、動いているものを見るイメージは違うものになる。さらにNAJI柳田さんの絵が「Elevation」という名前で非常に縦に長い絵を描かれていたように、この「PARTITION」も、人が実際にこの大きさで見る時は縦に目線がうつっていく。この時に絵はかなり見るタイミングによって、変わっていく。そのことを当日現地にいて、「デジタル絵ばっかり見ているのも考え物だな・・・」と再実感させられた。
今、これを描いている机の上には、アロマディフューザー(DAWN)がおいてある。展示会から三ヶ月経った今もまだ、香水は残っており、あの現場の、香りが思い出せる。
(また、この展覧会についてはおって追記していくかもしれません)
最後に 幾重にも重ね合わされた、何度でもよみがえる時間
4月13日には、毎年、米山先生のTwitterに桜の絵がアップされる。その絵は、2018年は静かに涙をたたえながら、桜の木をその目にうつしている。2019年は、散ってしまった桜の花を愛しむように横たわっている。2020年は、桜の木に顔をよせて少しだけ涙をこぼしている。
2021年には、まるで何かを振り切った表情になり――、そして2022年には、少しずつ、少しずつ、桜の木から遠ざかっているように髪のなびく方向からは見える。
この日に何があったかは知らない。というかここに描いてある女の子たちが誰なのかすら、よくわからない。でも、絵に映っている人は、何等か少しずつ、少しずつだけでも、そのものから何かをかみしめながら離れていく。ただそのことだけが、毎年少しずつ変わりゆく桜の絵からわかる。
この文章では、素材とエフェクトの効用について特に語り切れなかった。それはまずもって私自身の経験不足に起因しているし、埋めるべき欠点だろう。そうした人間のできることは、見えるものを見えるままに書いた上で、「なぜ」このように絵が描かれたかを、ほんの少し考えてみることだった。とはいえ、これ以上先にいくには、わたしも本格的にモチーフの選定やぱっとみでわかることだけじゃなく、お化粧やインテリア、アニメについてもっと踏み込んで知っていく必要があるだろう。
そのうえで、もうひとつだけ罪を重ねてみよう。
ある人が、米山舞先生のことをmika pikazo先生と一緒に、イラストレーターの宇多田ヒカルと椎名林檎だ――と喩えたのを聞いたことがある。その時ふと連想で、ヱヴァンゲリヲン新劇場版:Q(2012)の主題歌のことを思い出していた。この曲を検索すると、上向きで桜を見ながら涙を流すシンジくんの絵が出てくる。
タイトルや絵、そしてインタビューを見てみると、確かにここまで来た絵たちは、まるで自分のことを勇敢で誇りの高い存在として、エゴのある存在として描いている。しかしその一方で――いや、だからこそ、同時に、そこに描かれたキャラクターたちは、まるで誰かに恩返しをするために、さまざまな仕方で、もはやはっきりとした形すら失って、そこに存在している。大切にしてくれた誰かを祝福するために。
今もじっとこちらを見つめ続ける絵を見つめながら、私はそう感じた。
(参考文献)
・米山舞『ING』(同人誌・2021/12/31 コミックマーケット99)
・イラストレーション編集部『イラストレーション 2022年3月号 特集 米山舞』
・米山舞先生のpixiv(https://www.pixiv.net/users/1554775)
※本当は、本を買って考えるのが筋なのですが、同人誌がことごとく売り切れしておりまして・・・申し訳ありません。
・虎硬『ネット絵史:インターネットはイラストの何を変えた?』
・KAI-YOU「米山舞インタビュー 絵における「伝える力」を研ぎ澄ますには」(※有料記事のため、直接言及はしていません)
・内田樹 2012『街場の文体論』ミシマ社
・宮野真生子・磯野真穂『急に具合が悪くなる』晶文社
・ジェイムズ・ホール『西洋美術解読事典』河出書房新社
⇒To Be Continued...
この文章は構想自体はおおまかに6月ごろからあったのだが、自分自身の躊躇が強すぎて、なかなか形に出来ていませんでした。考えをまとめて聞いてくださった皆様ありとうございました。米山先生を今後も、応援しています。
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