“本当に生きる”ということ
自分が、この社会で”本当に生きる”という感覚を取り戻していかなければいけないと思う。
主観的な経験を普遍的に広く社会で使われている言葉に実感値を持って結びつけて自分の言葉で話し、世界を見るという行為を最近していない。
他人の語る言葉を簡単に借りて、それが自分のどの経験に結びつくかを考えず軽々しく発する言葉が重なっていけば、いつか自分を見失う。
スタートアップもそうだ
今やってる別の仕事もそうだ
ただ与えられた言葉を、セオリーとして使われている言葉を、自分の中に取り込む事なくただ表面的に使っているから気持ち悪いんだ。
だから生きてる心地がしない。
時間が過ぎるたびに成長しているというよりは自分がこの世界から薄れていく、消えていく感覚がずっとあった。
その理由がやっとわかった。
自分の個人的な主観的な経験と、自分が仕事上で発言する普遍的に定義された言葉が結びついていないから自分の実態を自分が見失って存在が中ぶらりんになっている。
それが今の自分の課題だ。
だから言葉を大切に。
細かい定義まで読み取って自分の経験と結びつける時間が必要なんだ。
自分は自分の発言によって自分を見失いたくはない。
2年前、毎日noteを書いていたとき、自分は本当の現実を生きていたと思う。社会に起きる出来事が自分にすごく結びついていて、生きてる心地がした。
浮いている感覚がない。
すごく地に足がついている感覚がした。
地に足がついてるの意味を履き違えていた。
真面目に現実的なことをやるのが地に足がついている人間じゃない。
自分の実体験、自分の目線で、自分の主観的な目線で一つ一つの行動を選び、丁寧に言葉を紡ぎ出して生きているのが私にとっては地に足がついた人間という意味なんだ。
平易な言葉を使う凡人よりも、他人に提示された言葉を安易に垂れ流して高度なコミュニケーションをとった気でいる秀才の方がダサい。自分は後者になっていた。
反省する。
noteを書かなくなった理由も、秀才の言葉を使う自分が強くなってきた時期だったからだと思う。
もちろん、秀才になるのが必要な時もある。
だから0にするわけじゃないけど、社会を何者かになりきって生きていくための自分が本当の自分を飲み込んではいけない。
バランスが必要だ。
最近は言葉が身体をすり抜けていってる。自分の中に留まることなく右から左へ。それは沢山の仕事を、やりたいこともやりたくないことも含めて沢山の量をこなしているからなのだろうけどそんな自分を良しとしたくはない。
ゆっくりと自分の言葉を取り戻していこう
これは、2年前のnoteのいくつか↓