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【急に具合が悪くなる】いつ死んでも悔いは残る人生

哲学者の宮野真生子さんと、人類学者の磯野真穂さんの著書「急に具合が悪くなる」は、病や治療、人生、死などを題材に2人が交わした往復書簡をまとめた1冊だ。

宮野さんは、医師から「急に具合が悪くなるかもしれない」と言われる。
「念のため、ホスピスを探しておくように」と勧められ、「死」について考えざるをえなくなる。

「死はたしかにやってくる。しかし今ではないのだ」
哲学者ハイデガーは、「存在と時間」のなかでこう語っているという。
医師から「急に具合が悪くなるかもしれない」と告げられる前の宮野さんにとって、「死」は、このハイデガーの言葉のとおりのものだった。
しかし、ホスピス探しを始めて、宮野さんは気がつき、次のように書いている。

ハイデガーの「死」についての語りが違う形で読めることに気づきました。
本来のハイデガーを「死の哲学」として読む文脈だと、「しかし今ではない」というふうに死を日常生活において回避していることは、自分の生と向き合うことを避けていると批判の的になるわけですが、果たしてそうだろうか、と。
だって、そもそも、私たちは「死」の「今」を経験することはできず、いつだって未来に「死」はあります(それはハイデガーも指摘しています)。
確かに未来の死は確実ですが、しかし、なぜ、その未来の死から今を考えないといけないのでしょうか。それではまるで未来のために今を使うみたいじゃないですか。いつ死んでも悔いのないように、という言葉は美しいですが、私はこの言葉にいくばくかの欺瞞を感じてしまいます。

(本書P27)

(中略)
私が「いつ死んでも悔いがないように」という言葉に欺瞞を感じるのは、死という行き先が確実だからといって、その未来だけから今を照らすようなやり方は、そのつどに変化する可能性を見落とし、未来をまるっと見ることの大切さを忘れてしまうためではないか、と思うからです。

(本書P31)

私は、この宮野さんの指摘を読んで、90代半ばを過ぎた祖母の言葉を思い出した。
岡山市内で近所の方やヘルパーさんに支えられながら独り暮らしをしていた祖母から、東京で暮らす私に、ある時突然、電話がかかってきた。
特に用事があったわけではなく、互いに近況について話した後、
祖母は吐露するように言った。
「まだ、死にとぉーないんじゃ」
唐突に放たれたその言葉に、私はどう返したらいいのか分からなかった。
それからしばらくして、祖母は亡くなった。
私に電話を掛けてきた時に、何か予感のようなものがあったのかもしれないが、それを確認する術はない。ただ、「まだ、死にたくない」というのは、その時の祖母の本音だったと思う。

「いつ死んでも悔いがないように」という言葉について考えると、
生きていることに価値を感じている人は、
いつ死んでも悔いは残るのではないかと思う。

価値というと大げさだが、ご飯を食べるのが好きとか、誰かと話せるのが楽しいとか、そうした日常の喜びを感じ続けたいと思ったら、生きていたいのではないか。
死んでしまったらなくなる喜びがあるなら、いつ死んでも悔いは残る。
大切にしたいのは、「今を、生きること」なのだろう。


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