「それで結局、何が言いたいの?」と思ってしまう自分へ
誰かの話を聞いていて、
「それで結局、何が言いたいの?」と思ってしまうことがある。
「こんな出来事が起きた」「あの人から、こんなことを言われた」
という事実や状況を踏まえて、
「自分は、こんな気持ちになった」「自分は、こう思う」
という感情を説明し、
たいていは、「あの人は、分かってくれない」「こうしてほしいけれど、それが叶わない」
などと続く。
それで、「結局、どうしたいのか?」という結論はないまま、
ああでもない、こうでもないと続くので、
聞いている私は、「それで、結局、何が言いたいの?」
と思ってしまう。ただ、それを口にしたら、相手は不愉快に思うだろうし、
関係性が壊れてしまうだろう。そう思って、黙って聞いていることが多い。
武田砂鉄・著「わかりやすさの罪」(朝日新聞出版)を読んで、
「それで、結局、何が言いたいの?」と思ってしまう自分自身を反省した。
著者は、次のように書いている。
目の前にいる人は話を聞きながら、
私が「それで、結局、何が言いたいの?」と思うのは、
相手の話が「わかりにくい」時だ。
相手の話に、何らかの答えや結論、「分かりやすさ」を求めていると思う。
しかし、相手の話が「わかりにくい」のは、
その人の感情が高ぶっていたり、気持ちが揺れたりしていて、
「どうしたいのか」が分からない状態のまま、
話しているからだろう。
言葉にできないもの。
わかりやすい説明にできないもの。
そういうものがあるということを念頭に置いて、相手の話を聞く姿勢を持たないと
取りこぼすものがあるように思えてきた。
「それで結局、何が言いたいの?」と思ってしまう時は、要注意だ。
「分かりやすい」結論を手にいれることを急いで、
「分からない」ものを受け入れる余裕がなくなっている時かもしれない。