「三十一文字」を「みそひともじ」と読むまで
私は、一年前の夏、短歌を始めた。
短歌を始める前は、「三十一文字」を「さんじゅういちもじ」としか読めなかっただろう。もちろんこれも間違いではない。
短歌を始めて一年が経った今、「三十一文字」を「みそひともじ」と読むようになった。いや、なってしまった。これは、短歌をやっている人の一種の職業病かもしれないとなんとなく思う。
短歌を始めたきっかけは、志賀玲太さんのネットプリントを読んだことだった。妹に印刷を頼まれ、どうせなら、と自分用にも印刷した。
そこから短歌に触れる機会を増やし、詠むようになった。
三十一音で自分の頭の中を可視化するのは、楽しくて難しかった。
もともと中学時代は美術部で、絵を描くことが好きだった。絵を描くことの魅力のひとつに、私は自分の頭の中を可視化できることをよく挙げた。そのせいか、「よくわからない絵だね」と言われることが多かった。
自分の頭の中を表現するのが、好きなのだと思う。
それが絵画から短歌に変わり、私は言葉を紡いでいった。
短歌に救いを求めることが、よくある。
他の人の短歌を読むときは、だいたいこのときだ。
私は、谷川電話さんの短歌が好きだ。もっと言えば、寂しさを包み込んで仲良くなろうという谷川さんの姿勢が好きだ。
他にも様々な方の短歌を読む。
短歌は、たった三十一音で人の感情を動かすことができる。
そんなところも、私が短歌の魅力を感じている部分なんだと思う。
短歌を趣味にするなんて、思ってもいなかった。
私は、もともと国語が苦手で、短歌は国語の授業以外で目に入ることなどないと思っていた。
一枚のネットプリントから私の生活を色づける短歌に出会えたので、本当に人生何があるかわからない。
短歌は、おそらく一生私に付きまとう。いや、私が短歌に付きまとっているのだと思う。
「三十一文字」を「みそひともじ」と読むのを忘れてしまうときが来るまで、私は短歌と向き合っていきたい。