「できる人」に対してこれ以上何を教育するのか?という問い
「教育は何のためにあるのか、誰のためにあるのか」と問われると、多くの人は「知らない人」「できない人」を「知っている」「できる」ようにすると思われるかもしれません。
実際に世の中で行われている教育のほとんどがそれですが、では「すでに知っている人、すでにできている人に対してどのような教育をすれば良いか」と問われると様々な答えが出てくると思います。
ありがちなのは「より多く知る、より深く知る」「よりうまくできるようになる」ための教育ですが、それでも限度はあるのでいずれは教えることもなくなります。
そうなると「できる人」にはもはや「学ぶことはない」ということになりますが、「できる人」になればなるほど実は難しくなることがあります。
それは何かというと、「できない人の気持ちを理解する」ことです。
仕事もそうですが、学問でもスポーツでも芸術でも誰もが最初は初心者です。
そこから熟達を重ねて「できる人」になっていくのですが、その一方で「できなかったときの自分」はどんどん忘れてしまいます。
また、「できる人」の多くは短期間で初心者を卒業しているため、「できなかったときの自分」の記憶がほとんど無いという人もいます。
そのため、自分が「できる人」であればあるほど、初心者の段階で躓いてしまう人や、簡単なことがどうしてもうまくできない人のことを理解するのが難しくなります。
こうなると、自分にそのつもりはなくとも「できる人」はつい「できない人」を見下してしまいます。
一例を挙げますと、ほとんどの人は大人になる過程で社会のルールを学び、それを守ることができるようになります。
しかし世の中には「禁煙」と書いてある場所で平気でタバコを吸ってしまう人もいます。
社会のルールを守ることが「できる人」がこのようなルールを守ることが「できない人」を見たとき、「あっ、この人は何か訳があってまだルールを守ることができるようになっていないんだ」とは思う人はおそらくほとんどいません。
私を含めて多くの人は「こいつはダメ人間に違いない!」と見下してしまうと思います。
もちろん中には明確な悪意を持ってルールを無視する人もいますが、このような人はほとんどの場合単に「ルーズ」という個性の持ち主に過ぎず、特段悪意があるわけではありません。
それなのに「優劣」という物差しで見てしまうので、相手を「自分と違う人」ではなく「自分より下の人」として認識してしまいます。
余談ですが、中国人はこの傾向が特に強く、普段は礼儀正しくて教養レベルの高い人でもこういうだらしない人を見てしまうと平気で「あの人は民度が低い(素質低)」と言ってしまいます。
街中で見ず知らずの赤の他人に対して心の中で見下すぐらいならいいのですが、問題は人にものを教えるときに無意識のうちに相手を見下してしまうと、指導がうまくいきません。
仕事でもスポーツでもそうですが、一般的には「できない人」は「できる人」から知識や技術を学びます。
しかし、「できない人」があまりにもできないと、「できる人」はつい相手を見下してしまい、「何でこんな簡単のこともできないんだ!」、「何回も言ったよね?」といった典型的な”有害な指導”をしてしまう恐れがあります。
「自分ができる」と「人に教えられる」のは全く別物であるため、人にものを教える立場の人は自分の目線から初心者の目線まで意識的に下げる必要がありますが、相手を見下してしまうとそれができなくなります。
ということで、「できる人」に対してこれ以上教えることはないと思われがちですが、実は「できない人の気持ちを理解し、他人を見下さないための教育」が必要ではないかと思っています。
これがなかなか難しく、単に知識やスキルを身につけるだけではうまくいきません。
先ほど挙げた例のように「他人を見下してはいけない」と頭では理解していても人は無意識のうちに他人を見下してしまうので、自分自身の内面を自覚し、自分の見える世界を拡げる必要があります。
「他人を見下さないための教育」は即効性があるものではないためどうしても後回しにされがちですが、やはり指導的な役割を担う人や、人のうえに立つ人にとっては知識、スキル以上に重要なことだと思います。
そういう意味で、どんなに「できる人」になっても人は学び続けることはあると言えます。
最後までお読みいただきありがとうございます。