両目洞窟人間ビデオゲーム感応小説集 Inspire5『どうぶつの森&ホットラインマイアミ』
人は0からものを生み出しているわけではない。自分の体験を元に作り出しているものだ。では、そんな元となる体験はビデオゲームからでも可能なのか? それが両目洞窟人間による、ゲームに感応した実験小説集。
今回はなんとふたつのゲームに感応した小説が誕生した。ほのぼのスローライフの『どうぶつの森』と、パラノイアックな殺戮アクション『ホットラインマイアミ』の二作だ。まったく雰囲気もゲームデザインも違うふたつのゲームの体験から、深い鬱に沈む女性の苦痛とやすらぎ、怒りと解放の物語が誕生する——。
執筆・写真 / 両目洞窟人間
編集・ヘッダーグラフィック / 葛西祝
『とても痛い呼吸』
#1
ずっと深海にいる。
光も音も届かない海の底に私はいる。
そして深海にいる私を、私は見ている。
深海は呼吸が詰まる。そして寂しい。
二人だけが私を地上に連れてってくれる。
私はやっと息を吸うことができる。
私はコップに水を注ぐ。
ぱきっ、ぱきっと薬をシートから取り出して飲み干す。
朝はADHDの薬と精神安定剤と抗うつ剤。
夜はそれに加えて双極ともう一つ鬱の薬。
眠れない日は睡眠薬。
色とりどりの薬。
今日は私の誕生日。
物を四方に寄せ、ベッドもきれいにして、ローテーブルの上も片付ける。
これで二人が来ても大丈夫。
高校卒業以来、久しぶりに二人に会える。
「大学入学前の忙しい時期にごめんね」派手なシャツを着た篠崎くんが入ってくる。
「ハルコの下宿先、きれいじゃん」ゴシックロリータ服を着た野々原さんも入ってくる。
篠崎くんと野々原さんはハッピーバースデーを無邪気に歌う。
「ハルコ、誕生日おめでとうー!!!」篠崎くんと野々原さんが叫ぶ。
「ありがとう」
ローテーブルにホールケーキ。
そのてっぺんには数字のろうそくの「1」と「9」が隣同士に刺さってて、火がゆらゆらと燃えている。
私は「19」に向かって息を吐く。
火が消え、二人の歓声。
この二人に会っている時だけ、深呼吸ができる。
「あとこれ」と野々原さんが、つぶらな瞳をして微笑んでいる犬か猫かわからない小さいぬいぐるみをくれる。「作った。オリジナルキャラ。かわいいじゃろ」
野々原さんがスマホでyoutubeを開いて「一時間耐久ハッピーバースデー」を流す
ループし続けるオルゴールのハッピーバースデーの中、篠崎くんがケーキをカットする。
誕生日会が高校近くのファミレスじゃないなんて不思議。
「ここまでどうやって来たの?」私は言う。
「軽自動車。免許取り立ての篠崎の運転で」野々原さんが言う
「実家からここまでだったら車で1時間だし楽勝よ。ハルコも家から通えば良かったじゃん。電車で二時間くらいなんだし」篠崎くんは言う。髪に当てたパーマが似合っている。
「地元から離れたかったんだよ。篠崎くんは実家に残ったの?」
「ほぼ地元の大学だし。野々原も実家だよ」
「服の学校、お金かかるし、家から通ってお金浮かせなきゃなんだよ~」野々原さんが言う。
「そういやサークルは入るの?」篠崎くんが聞く。
「わかんない。どうせ、誰かと関わってもいいこともないし。静かに過ごしたい」
「ハルコさ、何を我慢してるの?」篠崎くんが言う。
私は何を答えたらいいかわからなくて「何にも」と言う。
「この時期の男はすぐ食おうとしてくるやつ多いから気をつけなよ」野々原さんが言う。
「食うとか言わない。そんで、ハルコは19歳の夢ない?」篠崎くんが言う。
「20歳になった時も二人に祝ってもらう」
二人は「祝うに決まってるじゃんか!」と笑う。
私はお礼を言いながら怯えている。
ねえ、離れないで。
中学の同級生みたいに離れないで。
誕生日会の最後にみんなで写真を撮った。
普段、自撮りなんてしないから全然撮れなくて、一枚目は失敗して、二枚目は肩組んだりしていい感じに撮れてそれでまた笑った。
「今年はさ、ちゃんとこうやって誕生日会やろうな」篠崎くんが言う。
「次は10月の野々原ちゃんのな!」野々原さんが言う。
私は頷く。
二人に会える時までまた耐えなきゃいけない。
それまでの日々を。
*****
朝、目を覚ますと、私はコップに水を注ぐ。
ぱきっ、ぱきっと薬をシートから取り出して飲み干す。
初めての一人暮らし。大学近くに借りた家。
それでも変わらず、ずっと薬を飲んでいる。
数年間ずっと。
昼に飲む薬がないのはいい。
大学に薬を持っていってバレる危険性が減る。
高校の時は、昼に薬を飲まなきゃいけなかった。
その時の周囲の目を思い出す。
私のことをどう扱っていいかわからないあの目。
大学に入学した私は、屋根が尖った校舎で入学ガイダンスを受け終わり、外に出た途端におびただしい量の人に囲まれる。大量の新入生、それから大量のサークルの勧誘。誰もが大きな声を出している。
全ての音や風景がぼやけているように感じる。
何を言ってるのか、何をしているのかわからない。
深海には光も音も届きづらい。
それでも耳元で騒がれるのは苦しい。
音がぐわんぐわんと耳の中に渦巻く。
こんな人が多いところに爆弾を投げ込んでやりたい。
大きな爆発。立ち込める煙。破壊される建物。割れる窓ガラス。阿鼻叫喚。バラバラになった身体。雨のように降り注ぐ血肉。
気がついたらまた意識が妄想の世界に飛んでいる。
私はサークルの勧誘の群れから逃げる。
比較的、人が少ない広場の端っこにあるベンチに座る。
呼吸が浅くなっている。
ふぅ、ふぅと息が荒くなっていく。冷や汗も出ている。
苦しい。
「大丈夫?」
金髪の女性が私を見ている。
私は頷く。大丈夫じゃないけども頷いてしまう。
「もしよかったら水飲む?これ、まだ蓋あけてないやつだし」
私はその女性を見る。貰うなんてできない。
「遠慮しなくていいよ。ほら」
女性は半ば強引にペットボトルを渡してくる。
私はそれを受け取り水を飲む。
水を飲む、息苦しさが少し楽になる。
「全部飲んじゃっても大丈夫だから。こんだけ人が多いと疲れちゃうよね」
私は頷く。
「ヨシノ先輩、勧誘してんすか?」
ぽっちゃりしてメガネをかけた男性がこちらに近づいてくる。
男子は私のことを勝手にがっかりだのどうのこうの言ってくる。だから嫌だ。
「新入生?」男子が聞いてくる。
私は怯えつつ頷く。
「俺も新入生。大友タケシって名前で、大友でタケシだから一人アウトレイジじゃねえかバカヤロウ!」
大きな声を出すのでびくっとする。怖い。私は一気に息が荒くなってしまう。
「大友、大きな声をだすなって!大丈夫?」女性が私の背中をさすってくれる。
私はまた頷く。全然大丈夫じゃないのに
「どうしたの?」落ち着いた男性の声。
細身で白シャツと灰色のカーディガンを着た男性が近づいてくる。
「林田くん。ちょっとこの子、調子悪くなったみたいで」
「そう、大丈夫?」
林田先輩と呼ばれた男は私に向かって微笑む。
「あのさ、もし良かったらうちの部室で休憩していく?気分が落ち着くまで、いていいからさ」女性が言う。
「お茶とかジュースもあるし、あとお菓子もあるし」林田先輩と呼ばれた男もそう言う。
私は嫌だと思う。一度、部室なんかに行ってしまったら、後々めんどくさいことになるかもしれないと思う。誰かと関わってもいいことなんてない。ここは断ったほうがいい。
だけど、私は冷や汗が止まらない。そして息が苦しい。
私は断ることができない。断ることで、怒られるのが嫌だから。相手が嫌な気分になったという顔を見るだけで私の心が傷つくから。
私は頷く。
女性はにこっと笑う。
「私は鬼頭ヨシノ。三年生で一応、部長」
「……竹村ハルコです」
「ハルコちゃんよろしくね。私のことはヨシノ先輩でいいからね」
深海に潜っている私を、私は見ている。
私は今、広場を横切っているなと私は思う。
私は今、学生会館の階段を上がっているなと私は思う。
私は今、サークルの部室に向かっているなと私は思う。
全てが遠くの出来事で、全てが他人事のように感じる。
その部室はとても狭い。通常の部室の真ん中に仕切りをいれて、二つのサークルがそれぞれを分けて使っているからだ。隣は演劇サークルだ。どうやらサッカーのゲームをしていて、歓声が度々聞こえる。
私はヨシノ先輩に貰った水を飲んでいる。
椅子に座って、息のリズムを意識する。吸う、吐く、吸う、吐く。
「大丈夫になってきた?」ヨシノ先輩が言う。
私は頷く。少なくとも冷や汗は止まった。
「良かった。さっきから気になってたんだけども、その犬か猫のぬいぐるみは何のキャラクター?」ヨシノ先輩が私のカバンを指さして言う。
「……あ、誕生日会で友達に貰ったやつで、その子のオリジナルで」と言ってしまい、迂闊なことを言ってしまったと思う。
「へー、ハルコちゃんの誕生日会で」ヨシノ先輩は言う。
途端に息苦しくなる。
引かれて、こいつは変な奴だとレッテルを貼られたらどうしよう。
水の入ったペットボトルをじっと見る。二人の目が怖い。
「いい友達がいるんだね」ヨシノ先輩はそう言う。
私は引かれなくて、攻撃されなくて、少し呆気に取られる。
「ハルコちゃん、うちらはね、シャボン玉サークルのビッグ・フィッシュって言うの」
なにそれと思う。
「まあ、そんな顔になるよね。たまに公園でシャボン玉吹いたり、飲み会したり、部室でだらだらしたり、まあゆるいサークルだよ」ヨシノ先輩が言う。
「団員も誰がいて、誰がいないかも正直把握してないくらい」林田先輩が言う。
「そんなんだからさ、ハルコちゃん、もし良かったら、うちの部室に気軽に来てよ」ヨシノ先輩は笑顔でそう言う。
私はもう来ません。サークルに入るつもりはありませんと思っている。
でも、それを言う勇気がやっぱり無い。
「頑張ります」前向きなことを言っておけばその場にいる人は喜ぶ。
「そんな頑張ることじゃないよー」ヨシノ先輩が笑う。「あとこれ、私のLINEアカウント。一応送るね」
隣の演劇サークルから絶叫が聞こえて、点数が入ったんだなと思う。
次の日、大学終わりに、一時間ほど電車に揺られて、大きな病院に行く。
真っ白い待合室。テレビが一台置かれていて、とても静かな音量で国会中継が流れている。
ここは精神科が充実していることで評判の病院だ。
だからこの病院に通っているって言ったら「精神科」通いなのがわかってしまうんだけども。
機械に診察券を入れると受付票を吐き出す。
待合室に置かれたモニターには30分待ちと書かれてある。ということは1時間は待つだろう。中学から通っているのだ。もう時間感覚はばっちりだ。
静かな国会中継をなんとなく見つめる。国の問題事を誰も彼もがこっそり話すような音量で話している。
私はiPhoneを取り出す。そしてメモアプリを開く。
今月あったことを箇条書きしていく。
読み通り、一時間経って、私の番号が呼ばれる。
私はお医者さんに向かってメモアプリの箇条書きをそのまま読んでいく。
緊張して呼吸が浅くなる。
「やっぱり中学生の頃のことはどうしても思い出してしまいますか」お医者さんが言う。
「なんでもない時に急に思い出して苦しくなります」iPhoneのメモ帳をじっと見ながら私は答える。
「フラッシュバックが来たときはもう過ぎ去ったことだと強く念じて、もう大丈夫だと思っていきましょう」
そんなのできるはずない。
中学二年生の頃、私はゴミくずになって、生きる価値が無いことになった。
そして私の心は深海に潜ってしまった。
私の触ったものは皆、触ろうとしなかった。私についての無い噂話が沢山話された。
「もうハルコちゃんと話せないんだ。ごめんね」友達は秘密を打ち明けるようにそう言って離れていって、次の日から平然と私を痛めつけた。
笑いながら、私の悪口を大きな声で言った。
友達は平気で私を裏切る。
友達は簡単にいなくなる。
それは一年続いた。
その頃から私は、私からよく解離するようになった。
私は、私を俯瞰で見ている。
私は、私がいじめられているなと、思う。
私は、私がゴミくずのように扱われているなと、思う。
私は、辛いことが起きると、私を遠くから見るようになる。
一年が過ぎると、今度は別の誰かがゴミくずで生きる価値がないことになった。
私はそれを見て、救われたと思った。同時に自分は本当に生きる価値がないのだと思った。
私の精神を壊すには一年は十分すぎる時間だった。
そしてそのあと、何年も私は病院に通う。
いじめがなくなった高校時代も壊れた精神は私についてくる。
私は何年も自分の壊れた心に苦しむ。
まだ息ができる場所は全然無い。
「わかりました。お薬、頓服を増やしておきますね」お医者さんが言う。
私はお辞儀をする。
「あれ?ハルコさんじゃない?」
月に一度の病院診察を終えて、駅に向かって歩いている時だった。
自転車に乗った見覚えのある男がいた。多分、あのサークルの先輩だった気がするけども名前が思い出せない。
私は会釈をする。
「名前はまだ覚えてないか。林田です。昨日は大丈夫だった?」
私は「はい」と答えながら、こんな場所で人に出会ったことに緊張し始めている。
精神科通いがバレたら、私のことを腫れ物扱いするだろう。
「そっか、しんどそうにしていたからさ、ずっと心配してたんだよね」林田先輩はほっとしたように言う。
私は優しい言葉をかけられることに驚いている。
なんで出会って、ちょっとしか経ってない人にそんな声をかけられるんだろう。
「また良かったら、サークル来てみてよ。ハルコさんの居場所になるかもしれないし」
居場所。そんな場所ができるのだろうか。あの二人以外に。
でも、もしそんな場所ができたらいいな。
「じゃあ、またね、ハルコさん」
林田先輩は自転車に乗って去っていった。
*****
疲れた。
大学に通院。
これからこういう生活なんだな。
病院帰りの電車で、篠崎くんや野々原さんのことを思う。
みんな忙しいから誕生日会くらいしか会えないけども、本当はもっと会いたい。
グループLINEに「みんなともっと会いたい」ってメッセージを打ち込むけども、送信できなくて、消してしまう。不用意なことを言って嫌われたくない。
少し呼吸がしたくなった私はiPhoneのカメラロールを開いて、この前の誕生日会の写真を見ようとする。
先日、撮った写真を見ると、全体的に赤っぽいモヤがかっている。
私の顔だけしかちゃんと写っていなくて、二人の顔を塗りつぶすように濃い赤いモヤがかっている。
あの日はちゃんと確認できたはずなのに。
写真をさかのぼっていく。
普段、私は写真を撮らない。行事と二人と遊んだ時に少しだけ。
高校時代までさかのぼる。
ほとんどの写真に赤いモヤがかかっている。
篠崎くんと野々原さんがまともに写っている写真は一枚もない。
誰もいない風景が赤いモヤがかかった写真ばかり
ファミレスのテーブルにケーキが一つ乗っている写真。
日付は私の誕生日。
この日、私たち三人でそれぞれケーキを頼んだはずだった。
でも写真に写っているケーキは一つだけで、他にケーキが置いてあるはずの場所には濃く塗りつぶしたような赤いモヤがかっている。
夜、電話がかかってくる。ヨシノ先輩からだった。
「ハルコちゃん。昨日、喋ったヨシノです。今、電話大丈夫?」
どんな要件なのか、何の電話かわからなくて不安になる。
「来週にね、お花見するんだよね。それで、ハルコちゃんの体調もあるだろうから、来ても来なくても大丈夫なんだけども、もしあれだったらスケジュール送ったりするのに便利だからサークルのグループLINEに招待してもいい?」
私は別に入ろうと思ってもいないサークルのグループLINEなんて招待されたくないと思う。
だけど、いらないです、と答える勇気がない。電話越しでも言えない。
だから私は「お願いします」と言う。ヨシノ先輩が「やった!」と喜ぶ声が聞こえる。
「ハルコちゃん、それでね、もし色々と心配なことがあったら、私に相談していいからね。私、こう見えてもロシアの護身術習ってたりするから。あ、変な話しちゃったね。また色々と連絡するから、元気で気が向いてたら来てみてよ。夜遅くにごめんね。じゃあね」
電話が切れて、私は驚いている。
なんでヨシノ先輩はこんなに私に優しくしてくれるんだろう?
私なんかに優しくしたところで何にも良いことないのに。
サークルの先輩ってこういうものなのかな。
私は優しくしてくれる人に対して、私は怯えてしまう。
どうしても裏切られる想像をしてしまう。
ヨシノ先輩。林田先輩。
だからこそ、何か期待を裏切ってしまうのが怖い。
でも、それこそ頑張れば新しい居場所になったりするんだろうか。
そんな期待しない方がいいとわかっている。
私の心は相変わらず深海にいて、そこから浮上することができない。
#2
高校一年生。放課後、私は帰り道、高校から少し離れたところの公園のベンチによく座って音楽を聞いていた。
その公園は木々に囲まれていて、少々見えづらい場所にあった。
影も多くて、涼しい風が吹いていた。
ベンチに水色のウォークマンを置いて、耳にイヤホンを突っ込んで、チバユウスケのがなり声を聞く。
家に帰っても何もないから、私はそこでよく時間を潰す。
音楽だけが私の生きる支え。
今よりも、もっと心が深海に沈んでいた頃。
中学のいじめで何もかもぼろぼろだったころ。
昼ごはんを食べて、色とりどりの薬を飲む。
無口で、内向きで、薬を飲んでる私に、誰も話しかけてなんかこない。
中学のいじめが鮮明にフラッシュバックする。あんなことがまた起きるんだったら、誰とも関わらない方がいい。
一人なら傷つけられることも無い。
またいじめが始まるのが恐ろしい。
そうならば、何も起こさないようにじっとしているのが一番だ。
でも、ずっと一人なのは寂しい。
公園のベンチに座って音楽を聞いていると、同じ高校の制服を着た男子が遠くにいるのが見える。
その男子は私に向かって会釈してくる。
私も会釈し返す。なんだこれ。
するとその男子はずんずんとこちらに近づいてくる。
なになになに。怖い怖い怖い。
男子は何か喋っている。私は恐る恐るイヤホンを外す。
「ウォークマンじゃん」
ベンチの上においてあるウォークマンを見て、その男子は私に話しかけてくる。
え、あの距離でこのウォークマンが見えたの?
「俺さ、視力いいから見えちゃって」その男子はまるで心を読んだように言う。
きしょくて怖いなと思う。
その男子は少しだけ制服を着崩して、ラフな雰囲気を出している。
私と対照的な人。苦手かもしれない。
「ウォークマンで聞いてるってことはサブスクやってないの?」
ぐいぐいと話しかけてくる男子に私は圧倒されている。
怖い。心がまた潜りそうだ。
「あ、俺は篠崎。君は?」
「……竹村ハルコ、です」
「じゃあ、ウォークマンの中身見ていい?」篠崎くんはどんどん自分のペースで進めていく。じゃあって何?って思っているうちに私のウォークマンを取って、触り始める。
怖いと思うのと同時に引かれるんじゃないかな。私が好きなものなんて引かれるんじゃないかな。嫌だ、怖い、やめて。
「え!The Birthday聴いてるんだ!渋いなー!しかも”さよなら最終兵器”な!泣けるよなー!」
「……知ってるの?」私は思わず言ってしまう。
私が聴いている音楽で引かれない。
中学の時はみんなが知らない音楽を聴いていただけで、馬鹿にされてたから。
「俺、ハルコと仲良くなれる気がする」気がついたらもう呼び捨てだ。
「なんで?」私はまだ仲良くなれるか、仲良くしたいかもわかってないのに。
「だって、ハルコのウォークマンに入ってる曲めっちゃいいし」篠崎くんは笑う。
私のウォークマンの中身ってめっちゃ良かったんだ。
私はすこし笑う。
そして少し息を吸う。
放課後、あの公園に行くと、篠崎くんがいる。
篠崎くんは何が楽しいのか私に話しかけてくる。
最初、怖いなと思っていたけども、段々と篠崎くんと喋っていると楽しいという気持ちになり始める。
音楽の話を楽しそうにする篠崎くん。好きな菓子パンのことを延々と語る篠崎くん。俺はケーキ作れたりするんだぜ意外だろという篠崎くん。
私はその話を聞いている。
ある日の放課後の公園。
「明日の放課後って空いている?紹介したい子がいてさ、多分、ハルコと仲よくなれそうなんだよね」篠崎くんは言う。
私は頷く。別の人?仲良くなれそうって言うけども、本当?私は心配になっている。
次の日、篠崎くんが長い黒髪に丸メガネをかけた女の子を公園に連れてくる。
「彼女は手芸部の野々原で、野々原は服とか作ってんの」篠崎くんが言う。
「ハルコ、いい顔してるな」野々原さんは開口一番、そう言う。野々原さんも私のこと呼び捨てだ。
「そんなことないよ……」私は恥ずかしがる。私は顔には自信がない。中学で散々、顔のことを言われたからだ。
「ハルコ、今度似合うやつ作ってあげるよ」野々原さんは笑う。
一週間後、私は野々原さんから赤いヘッドドレスを貰う。
「こんなの作れるの」私は感動している。綺麗でかわいい。
「野々原ちゃんにしてみたら余裕だよ。ほら、ハルコ、一回着けてみ?」野々原さんが言う。
「……似合うかな」自信がない。つけた途端がっかりするんじゃないだろうか。作らなきゃよかったって思わないかな。
じっとしててね、と言って野々原さんは私の頭にヘッドドレスを乗せて、顎あたりで紐を結んで落ちないようにする。野々原さんが至近距離にいて緊張する。
野々原さんはヘッドドレスをつけた私の姿を見る。そして笑う。
駄目だったんだ。
「かわいいー!いいじゃんいいじゃん!やっぱハルコ似合うんだよ!」野々原さんは言う。
えっ?と驚く。
ちょうど、自販機まで飲み物を買いに行っていた篠崎くんが戻ってくる。
「篠崎ー。こっち来い来い。ハルコ、これ似合ってるだろー」野々原さんは言う。
「ハルコめっちゃ似合ってるじゃん!かわいいよ!」
二人に褒められて私は照れる。
だんだんと二人の前で息が吸えるようになる。
篠崎くんと野々原さんとで沢山喋った。
放課後の公園で。暑くなったらファミレスで。休みの日には野々原さんの先導で古着屋に行ったこともあった。
二人でいると私は自分が精神疾患持ちなことも、クソみたいな過去があったことも全部忘れられた。
深海にいた私に息を吸わせてくれたのは二人だった。
二人といる時だけ、私は私だった。
けれども二人のことは遊んでいた時のことしか思い出せない。
二人を学校で見かけたことがなかった。どのクラスにいたか。普段は何をしていたか。他の生徒とどう交流していたか全くわからなかった。
二人のことを考えると、私と仲が良い以外のことがわからない。
二人が私以外といた場面を、全く思い出すことも想像することもできない。
あんなに仲良かったのに、会うのも遊ぶのも決まって公園かファミレスだった。
学校で会うことは一切なかった。
篠崎くんの誕生日。
私たちは篠崎くんの家に行く。
初めて、公園とファミレス以外の場所で私たちは会う。
家は真っ白で、インテリアも凝っていて、私と野々原さんは凄いなと言っている。
「出来合いのだけど」と言って篠崎くんは小さなケーキを3つテーブルに置く。
野々原さんはスマホでyoutubeを開いて「一時間耐久ハッピーバースデー」を流す。
野々原さんは楽しくなってスキップなんてしたりする。
「おい、どたどたすんなって!」と篠崎くんが怒る。
「ほらハルコも!」と野々原さんが誘ってきて、私もおずおずとスキップする。
「なんで、ハルコもスキップすんだよ!」って篠崎くんは言うけど、顔は笑っている。
大学の後期が始まった。
昼休み、学食の端っこで昼ご飯を食べている。
テーブルに水色のウォークマンを置いている。容量は16ギガ。好きな音楽を詰め込んだ私のウォークマン。
耳にはイヤホンを突っ込んで音楽を聞きながら、本日の定食(小ライス)を食べていると、前に誰かが立っている。
見上げると、林田先輩だった。何か喋っている。
私はイヤホンを外す。
「それって、ウォークマン?」
私は話しかけられて少し硬直してしまう。やっぱり怖い。
「珍しいね。それで聞いてる人ってまだいたんだ。何聴いてたの?」
「The Birthdayってバンドを」恐る恐る言う。
「いいね!僕も好きだよ。あ、隣いい?」
林田先輩は隣に座る。
「何の曲が好きなの?」林田先輩は聞いてくる。
私は何曲か曲名をあげてみる。”さよなら最終兵器”、”爪痕”、”なぜか今日は”。
その度に、林田先輩はリアクションを取る。
「ハルコさんが、あんまりサークルに来ないのは、精神科に通ってるから?」
林田先輩は突然、重たくて、それでいて見透かしたような声で言う。
私は呆然としてしまう。
なんで。わけがわからない。
この人はなんで私が精神科に通っていることを知っているんだろう。
背筋が冷たくなっていく。
「僕、あの病院の辺りが実家だから。あれって精神科が有名な病院だよね。もしかしてそうかなって」
途端に息ができなくなる。
胸が重たくなっていく。
途端に私は自分が解離していくのを感じる。私は、林田先輩に詰められている私を見ている。
「先週も実家に帰っててね。あの病院から出てくるハルコさんを見てね。もしあれだったら、僕からみんなに説明しておこうか?」林田先輩は優しく私に言う。
でもその言い方は同時に身に覚えのある感覚を思い出す。
中学の時、いじめてきたやつが、私がされて嫌なことを把握した時のあの空気。
嫌だ。
みんなに言わないでください。
でも、そんなこと言えない。喉が閉まっているし、言う勇気もない。
私は今、どんな顔をしているかもわからない。
「ハルコさんさ、毎週この時間、ご飯ってここで食べてる?」ただ予定を聞いているだけなのに、妙に威圧的なものを感じる。
私は怯えて頷くことしかできない。
「じゃあ、また喋ろうよ」そう言って、林田先輩は去っていく。
林田先輩が去っていたあと、私は息を吐きだす。
呼吸が浅くなっていたことに気が付く。
毎週のように林田先輩が喋りかけてくるようになる。
嫌だと思ってたけども、実際に目の前に現れると断ることができない。
林田先輩は主に音楽の話を私に振る。
私は好きな音楽を答える。それに林田先輩はまるで知っているかのようなリアクションを取る。
どこか白々しさを感じる。
白々しさを感じる度に心は深海に潜っていく。
海の底から林田先輩と話しているような感覚。
音楽の話は篠崎くんとしていた。でもあの頃みたいな心地いい空気はない。
林田先輩と喋っている間、ずっと薄い氷の上を歩かされてる気分になる。
なにか一つでも間違えてしまうと、全てが割れて、何かが壊れる予感。
私は林田先輩がサークルのみんなに精神科通いをバラしていないか不安になっている。
もしバラされたら、私はもうここがとても苦しい場所になる。
私は、林田先輩と話している私を見ている。
林田先輩が私の精神科通いをバラしていないか不安になって、部室に行く。
部室に入るのが怖い。ドアを開けるのが怖い。
すると後ろから演劇サークルの人が「ごめん!入るね!」と言って、ドアを開ける。
部室の奥で、ヨシノ先輩が窓際のソファーにたったひとりで座ってる。
「あ!ハルコちゃんだ!久しぶり!元気にしてた?」ヨシノ先輩が言う。
私はぎこちなく頷く。
ヨシノ先輩は林田先輩から私のことを聞いていないだろうか。
息がしづらい。
「どうしたの?そこにいるのもなんだし、こっちに来たら?」
私は頷いて、ベンチに座る。
ヨシノ先輩と二人きり。どうしよう、何を話したらいい?
先輩、私が精神科に通ってるって知ってますか?
そんなこと聞けるはずがない。
私は息苦しくなる。
「ハルコちゃん、そういえばさ、音楽のフェス行ったことある?」ヨシノ先輩がそう言う。
私はヨシノ先輩がなんでもない話題で話しかけてきたことに驚く。攻撃してこない。腫れ物のように扱ってこない。
私は首を横に振る。私は当然、音楽のフェスに行ったことなんてない。
「凄くいいよー。多幸感あってさ。今年も年末にあって行きたいんだよね」
「……誰が出るんですか?」私はおずおずと聞いてみる。
ヨシノ先輩は「今年のラインナップはまだだから、去年のだけど」とスマホで去年のタイムスケジュールを見せてくれる。ヨシノ先輩が近づいてきて、私は少しどきっとする。ヨシノ先輩のスマホを覗き込む。
どれも好きなバンドばかりだった。
フェスに行けば、好きなバンドをこんなにも沢山見ることができるんだ。
私の知らない世界。
「でも、ちょうど就活始まるんだよなー。どうしようかなー。ハルコちゃん音楽好き?良かったら行かない?」ヨシノ先輩が言う。
私は黙ってしまう。
声を出せないでいると、部室の扉が開いて「この時期って半袖と長袖どっちかわかんないですね」って大きな声で言いながら大友が入ってきた。
「カーディガン羽織ったらいいじゃん」とヨシノ先輩は大友と話し始めて、私は何も言えないまま、会話は終わってしまった。
*****
酷い風邪をひいた。
久しぶりの高熱。
水を飲むだけで喉に激痛が走る。
カレンダーを見る。
”野々原さんの誕生日会”。
何もこんな日に。
連絡しなきゃと思いながらも身体が重たい。
思考もぼんやりしていて、そうこうしているうちにまた寝てしまう。
目を覚ますと窓から夕日が差し込んでいる。
iPhoneを見る。
LINEの通知がたまりにたまっている。
私は慌てて電話をかける。
「ハルコ!大丈夫か!」野々原さんの声。
「ごめんなさい」
「ちょっとビデオ通話にするね」野々原さんが言う。「見える?」
私は頷く。
「ハルコ、全然連絡つかなかったけども、どうしたの?」篠崎くんの声。
「熱が出て寝込んでて、それで連絡遅くなって」
「大丈夫?今から行こうか?」篠崎くんが言う。
「風邪うつしても駄目だから。篠崎くんは野々原さんの誕生日を祝ってあげて」
オルゴールで奏でられているハッピーバースデーが聞こえる。「一時間耐久ハッピーバースデー」が流れている。
私が唯一息ができる日なのに。
私が唯一自分でいられる日なのに。
「仕方ないよ」野々原さんはそう言う。「また会おうぅウウウウウゥゥ」
声が突然歪んでいく。
「ウゥウウゥウウ」突然、画面と音声がフリーズする。
あれ、もしもし?もしもし?と言う。
画面は二人の顔のアップで止まっている。
二人の顔がどんどんノイズに侵されていく。
オルゴールの音が伸び切っていってざらざらした音になっていく。
二人の顔がまるで叫んでいるかのようになる。
もしもし?
ねえ、篠崎くん、野々原さん?
「ハルコ?おーいハルコ?」篠崎くんの声がして、画面が元に戻る。
「あ、なんか、今、通話が変で」
「そう?全然そんなことなかったけど」野々原さんが言う。
二人の後ろで流れているオルゴールのハッピーバースデーは元に戻っている。
「今日は本当にごめんね」と私は言う。
「いいよ。身体治すのが一番だし」
「次の篠崎くんの誕生日会は行くから」
「元日だけども、来れる?」
「それくらい都合をつけるよ」
「じゃあ年始で忙しいかもしれないけどもまた三人で集まろうよ」篠崎くんが言う。
「私、その頃、卒業制作もやってるからめっちゃ忙しい!」野々原さんが言う。
「はいはい。じゃあ来年、集まろうね」篠崎くんが言う。
そう言って、電話を切ると、私は途端に涙が溢れ出す。
吐きそうになる。風邪ではなくて二人に悪いことをしたって気持ちから。
大切な友達なのに。
二人に見捨てられてしまうんじゃないかって思って、私は何度もえづいてしまう。
「11月の最後の土曜日、ハルコさんは空いてるよね?」林田先輩が言う。いつもの曜日のいつもの昼休みの学食。
私は頷く。いつも大した予定なんてない。
「その日さ、シャボン玉サークルの飲み会があるんだよね。僕ら3年生が幹部を辞める日でさ、そのお疲れ様でしたっていう飲み会。場所もいつもの鳥貴族じゃなくて、ちょっとした宴会場でやってさ。その日だけは幽霊部員たちも来たりするんだ」
私は嫌な予感がしている。
「ハルコさんも来なよ」
飲み会には行きたくない。うるさいし、お酒も飲めないし、人が密集しているところは苦手だし。
「ヨシノさんもハルコさんのこと気にしてたよ。元気にしてるかなって。あの子が部長を辞める日だし、ねぎらいに来なよ」
ヨシノ先輩の顔が浮かぶ。初めて会ったときに水をくれたことを思い出す。
でもやっぱり飲み会に行くのは嫌だな。
「やっぱ飲み会に行けないのも、その精神の病とか関係してるの?」林田先輩が言う。
林田先輩が私の病気について触れてくると、私は身が固まってしまう。
途端に嫌な予感がする。
「じゃあさ、やっぱりヨシノさんに言ったほうがいいよ。あの子優しいから、ちゃんと話も聞いてくれると思うし。その勇気が無かったら僕がみんなに言うから」
「あっ」と私は声を漏らして、首を横に振る。言わないでください。それは言わないで。
「じゃあさ、飲み会に行こうよ。君もヨシノさんに少しはお世話になったわけだし、そのお返しにさ。ね?」
林田先輩は私の顔を見る。
私は「はい」と言う。
私はそう言って、テーブルをじっと見る。
嫌だなあとバスに乗って街に向かう。
会場は歓楽街の真ん中。そこに向かうけども、人通りは激しく、うるさい音と声が耳に飛び込んでくる。
会場に到着する頃には私は既に疲れ切っている。
宴会場に向かう廊下を歩いていると、ヨシノ先輩が壁に寄りかかってスマホを触っている。
「えっ!?ハルコちゃん!?」ヨシノ先輩が私を見て叫ぶ。
私はお辞儀をする。
「よく来てくれたねー!ありがとうー!本当、無理しなくていいからね!まあ、座って座って」ヨシノ先輩はそう言って私を宴会場に誘導する。
私は座席に座る。
「ハルコちゃん来てくれてうれしいなー」とヨシノ先輩は上機嫌になっている。
「じゃあ、先輩方、幹部お疲れ様でした!かんぱーい!くぅー!喉が濡れますなー!」と大友がビールを飲んで叫ぶ。
ヨシノ先輩が「きしょいってー」と言う。
宴会場では大友を中心としたはしゃぐ人たちが延々とはしゃぎ、ヨシノ先輩のようにお酒好きな人が水のようにお酒を飲んでいた。
私はどちらにも馴染めず、隅っこでオレンジジュースを飲んでいた。
がやがやした音が四方から塊になって耳に飛び込んでくる。
息苦しい。
やっぱり来るんじゃなかった。
対面には林田先輩がいる。
林田先輩はほほえみながらこちらを見ている。その目がなんだか嫌で私は目をそらす。
「俺、まじで昔は痩せてましたし、めちゃくちゃモテてたんっすから!ねー林田先輩信じてくださいよ~」大友がやってきて、林田先輩に絡む。
「ハルコさんさ、楽しい?」林田先輩が聞いてくる。
私は頷く。全然楽しくない。
私は、楽しくないと思っている私を見ている。
騒がしい空間に疲れちゃって、廊下に出ると、ヨシノ先輩がぼんやり立っていた。
まるで幽霊みたいに。
「……先輩どうしたんですか」私はおずおず聞く。
「飲みすぎちゃって、風に当たってる」ヨシノ先輩は低い声で言う。
「ここ廊下だから、風吹いてないですよ」
「宴会場よりはまし……うっぷ」ヨシノ先輩は口を抑える。
私はなんかさすった方がいい気がして、ヨシノ先輩の背中をさする。
「ありがとう……ハルコちゃんはやさしいね……うっぷ」ヨシノ先輩がえづく。
「大丈夫ですか」
「大丈夫、大丈夫。全然だいじょうぶだからあ……ハルコちゃんにもし辛いことがあったら私が話を聞いてあげるからね」ヨシノ先輩は言う。
わからない。なんで私にそんなに優しくするのかわからない。
私は返事ができない。
「あ、限界だ」
ヨシノ先輩はそのまま廊下に吐いた。
「二次会行く人ー!」と大友が手をあげる。
はいはい!行く行く~と多くの人が手を上げる。
ヨシノ先輩もぐでんぐでんに酔ってるけども、手を上げている。
私は黙って抜け出して、バス停の方に向かう。
これでヨシノ先輩への義理を果たしたことになるんだろうか?
あまり手応えがない。
「待って」林田先輩が横にやってくる。
「僕も帰ろうと思って。ハルコさんもそうでしょ」
私は頷く。少し緊張が始まる。
「ハルコさんさ、僕のこと怖い?嫌われてるのかなって思う時があってさ」
「そんなことはないです……」本当は少し怖い。毎週話しているけども、ずっと緊張している。
「じゃあ今から飲み直さない?」
「え?」
「ハルコさんの家でさ」
私はまずいことになったかもしれないと思う。
嫌だと言うべきだ。部屋が汚いとか、なにか理由を言うべきだ。
私だってさすがにわかる。家に来たいって理由くらい。
ここは断らないといけない。
けども、嫌だと言ってしまうと、林田先輩が突然怒り出すんじゃないかと思ってしまう。
それがたまらなく怖い。
だから、私は「はい」と答えてしまう。
バスに乗る。
その途中で、林田先輩が手をつないでくる。
何も感じない。
温度も感触も何も感じない。
そして今、手を握ってくる意味について、あまり考えないようにしている。
首のあたりがきゅっとしている。
私の家に到着する。
「あの汚いですけども。ごめんなさい」
林田先輩がずかずかと家に入っていく。その勢いに私は苦しくなっている。
リビングに私と林田先輩。誰かがいることの圧迫感。
息ができない。
「あ、林田先輩。何か飲まれますか?一応、紅茶とかあるんですけども」空気を変えたくてそう言う。
「じゃあ、それ貰おうかな」
私はケトルでお湯を沸かして、ティーパックを入れたマグカップに注ぐ。
ローテーブルにマグカップを二つ持って行く。
「どうぞ」と私は言う。林田先輩は黙って受け取る。
林田先輩はこの家に来てから、いや、バスの時から妙に言葉数を少なくしている。
「あの、紅茶、冷めちゃうので」と私が言うと、顔の近くに林田先輩の顔。
ファーストキス。
舌を入れてこようとしてくる。
気持ち悪い。
私は顔をやっとことで、引き離す。
林田先輩の目がとてもぎらぎらしていて、怖いと思う。
林田先輩の顔がまた近づいてくる。
私の身体を触ろうとしてくる。
私は、だめだ、このままじゃだめだ、だめだ、言わなきゃいけない、こわい、助けて、くるしい、息ができない、もう嫌だ、と思っているうちに、涙がぼろぼろと溢れ始める。
「だからさ埋めてあげるからハルコ」と言いながら、林田先輩は私にまたキスをしてくる。
私は、身体が人形のようになっていくのを感じる。
私は辞めてほしいと言わなきゃいけない。
私はもう辞めてくださいと言わなきゃいけない。
私は嫌です、こんなこと本当に嫌ですと言わなきゃいけない。
私の身体がすっかり人形になっている。その人形になった私を私が見ている。
林田先輩は息を荒げている。
林田先輩は私の身体をべたべたと触る。
林田先輩は私の体中を舐め回す。
林田先輩は自分の服を脱がせている。
林田先輩は私の腕を抑えつける。
下腹部を無理に貫く鈍くて遠い痛み。
私は声をもらしている。
声に興奮したのか、林田先輩は身体を動かしてくる。
何も楽しくなかった。
気持ちよくもなかった。
嬉しくもなかった。
ベッドのそばには私が立っていて、私を覗き込んでいる。
「すぐ食おうとしてくるんだから」野々原さんの言葉が頭をよぎった。記憶の中の野々原さんは笑っていた。
私はそれにふふっと笑って、林田先輩はそれにまた興奮したのか身体を早く動かす。
私は天井を見ている。
フィルターをかけたような視界だ。
それでも蛍光灯が眩しいと感じる。
とても眩しいと感じる。
林田先輩は身体を早く動かす。
林田先輩はうめき声をあげる。
身体に何かがかかる。とても気持ち悪い、嫌な臭いのする液体。
息を切らした林田先輩が私に向かって微笑む。
遠く遠く遠くで、微笑んでいる。
私は人形だから身体が動かせない。身体に何の力も入らない。
ベッドで横たわっている人形の私を、ベッド脇の私が見ている。
その顔と目が合う。
夢を見る。
夢の中で、私はまた一人ぼっちになっている。
教室の中でみんなからゴミのように扱われている。
その中には大友もヨシノ先輩、林田先輩もいる。やっぱりそうだったんだと思う。
どうせそんなことだろうと思っていた。
けども篠崎くんも野々原さんもいる。二人は私に向かって手を振っている。
私は二人がそっち側にいるのがとても辛くて、そっちにいかないでと叫んでいる。
私と友達でいてくださいと叫んでいる。
息ができなくて、私は喉をかきむしる。
目を覚ますと、私は泣いている。
林田先輩が私の身体に抱きついている。気持ち悪い。
昨日の晩、薬を飲んでいなかったことを思い出す。
途端に、早く飲まなきゃと私は怯える。
林田先輩をゆっくり振りほどく。
キッチンに行き、プラスチックのボックスから、薬を取り出して、シートから薬を吐き出していく。
ADHD、精神安定剤、双極性障害、鬱病、頓服。色とりどりの薬。
コップに水をためて、薬を飲む。
飲み切ると安心が身を包む。
少なくと、今日はおかしくなることはない。
「飲んでるんだ、薬」林田先輩が起きていて私に言う。
私は林田先輩の声に心臓をつかまれたようになる。
「本当にメンヘラだったんだね。わかってたけども」林田先輩は笑う。
私は苦しくて喉を掻きむしりたくなる。
林田先輩は朝方、家から出ていった。
帰り際にも林田先輩は私にキスをした。
キスをされているなと遠く離れた私はそう思っている。
私はリビングに戻る。
全ての距離感が曖昧だ。
何もかもが遠くに感じる。
ローテーブルに置かれた紅茶を見る。すっかり冷めている。
それを私はキッチンのシンクに持って行く。
まるで私は私を遠くから操縦しているみたいだ。
冷めきった紅茶をシンクに流し捨てる。
途端に悔しいという気持ちが湧き上がる。
嫌だったという気持ちが湧き上がる。
途端に痛くなる。物凄く痛い。
私は咄嗟に笑ってみようとする。
なんでもないことだと思うように笑う。
ははは。と笑ってみようとする。
大学生だ。これくらいよくあることだ。
私は私にそう言う。
よくある、大学の先輩に迫られて、そのまんま許しちゃったってよくあることだ。
許しちゃった?許してはないけども。
よくあることだ。よくあることだ。よくあることだ。
私は私に言う。
けれども、私はもう耐えることができない。
私はよくあることで泣き始める。よくあることで私は苦しくなっている。
私はふとももを殴る。よくあることだ。よくあることだ。
よくあることで私はもう死んでしまいたいと思っている。
#3
生理が来る。
安堵のため息を漏らす。
それ以外は全てが最悪だった。
生理痛が酷くて、床に横たわっている。
鬱も悪化している。
なんで私が、と思い続けている。
大晦日。
年末から、私はずっと家に籠もっている。
大学には行けない。
一日中、横たわっている。
ベッドはあの日以降、使いたくないから、床に寝転んで毛布を被っている。
眠るわけじゃない。
どんな夢を見るかわからなくて、眠るのが怖い。
明るいのが怖くて、カーテンを閉め切る。
それでも明るい時はクローゼットの中にこもる。
外から登下校の子供の声が聞こえる。
夕方のチャイムが聞こえる。
どこかの家からの笑い声が聞こえる。
私は、もう嫌だとクローゼットで泣いている。
病院に行かなければと思う。
薬がもう少しで切れてしまう。
離脱症状の苦しみがフラッシュバックする。
全身のしびれ、倦怠感、精神不安定、希死念慮。
壊れてしまう前に病院に行かなければならない。
だけども、怖い。
病院に行くのが怖い。
あの駅に林田先輩がいるかもしれないから。
吐き気がして、身体が震える。
私は病院に行くことができない。
クローゼットの中で、私はボロボロと涙をこぼす。
えぐっえぐっえぐっと嗚咽を漏らしている時、どこかの家から「あけましておめでとう~!」って聞こえる。
新年だ。
「あああああああ!!!」
私は叫ぶ。でもここのところまともになんか声を出してないから、全然上手になんか叫べない。
それでも私は喉が痛くなるくらい叫ぶ。
何度も叫ぶ。クローゼットの壁と扉を叩きながら叫ぶ。
沢山叫んで、涙を流して、喉が乾いたと思う。
だけどキッチンに行く気力もない。
叫んだけども私の気持ちは沈み込む。
深い深いところまで沈み込む。
私はそのままクローゼットで眠り込む。
「ハルコ!起きろ!ハルコ!!」
篠崎くんと野々原さんの声がする。
目を開ける。眩しい。目が痛い。
二人がクローゼットを開けて立っている。
「え?篠崎くんと野々原さん?なんでここに」
家の鍵だって閉まってるし、なんで?
「ハルコ。俺らで林田、やっちゃうから」篠崎くんは予定を告げるように言う。
「処分だよ処分!どうする?ミシンで手を縫う?ペンチで歯を抜く?シャベルで頭ぶっ叩く?」野々原さんが言う。
「どうして、知ってるの?」
「だってずっと叫んでたじゃん。聞こえてたよ。全部」篠崎くんが言う。
まずいと思う。
別に林田先輩がどうなろうがしったことじゃない。
でも二人を犯罪者にするのは駄目だ。
「ねえ、駄目だって。二人がそんなことをするのは」
「何を我慢してるの?」篠崎くんが言う
何を我慢?
「処分したいんでしょ。林田先輩もだけど、それ以外のみんなも」
みんなって。
「みんなはみんなじゃん。サークルの連中。大学の連中。高校の同級生。中学の時、ハルコをいじめた奴ら。なんなら病院の先生もいれてもいいよ。いい先生かもしれないけども。でも全員皆殺しにしたいでしょ」篠崎くんは言う。
皆殺し。
その言葉が聞こえた瞬間に、血肉沸き立つのを感じる。
「……したい。ぶっ殺してやりたい。ひとり残らず全員ぶっ殺してやりたい。殺して殺して飽きるくらいまで殺して、それでも殺して、なんなら世界なんて壊れてしまえばいい」
「ハルコそうだよ!やろうよ!」野々原さんが言う。
「やるぞ、やるぞやるぞやるぞ!」私は叫んでいる。
私は今、息ができている。
篠崎くんが軽自動車を運転してくる。
軽自動車の荷物スペースを開くと、大量の武器が入っている。
「ね。殺せるだけ殺そうよ」篠崎くんが言う。
私はドアを閉める。
車内で音楽を流す。人を殺すんだからThe Birthdayじゃねえ。チバユウスケでもミッシェル・ガン・エレファントの方だ。スモーキン・ビリーだ。爆音で流しながら、まず向かうは林田先輩の家だ。
野々原さんがドアの隙間にバールを突っ込んで、無理やり開けて、私たちはズカズカと入っていく。他人の家にズカズカと入るのってこんなに気持ちよかったんだね。
ベッドで寝転んでいて「なになに?」となっている林田先輩の顔に、篠崎くんはビニール袋をかぶせて、何発か殴る。
あっ!ぎゃっ!って叫び声が聞こえる。
野々原さんが業務用ミシンを持っていて、林田先輩の手をセット。ががががががが!って音がして林田先輩の絶叫が聞こえる。その迫真の絶叫に私はmoreruってバンドを思い出していて、叫び声ハードコアじゃんって笑ってしまう。
私はビニール袋を取って、ペンチをかちかちさせて、流石に何が起きるかわかった林田先輩が泣いていて「ごめんなさい、もう許してください」って言うけども、私がごめんなさいって言った時、お前さ「寂しいからだよね」とか「埋めてあげる」とか言ってたよね、きっしょ。まじできっしょ。だから私は「抜いてあげるからね」って言って、歯をペンチで何本も抜く。
その度に、血が溢れ出して、林田先輩は叫ぶ。やっぱり叫び声がハードコアで「林田先輩、バンドをすればいいじゃん」って笑う。
その後、篠崎くんが林田先輩の頭にハンマーを振り下ろして、頭を破壊して「完成~」って『つくってあそぼ』のゴロリの口調で言って、林田先輩の家を跡にする。
次はどこ?ちょっと大回りになるけども、一回地元に行こうよ、いいねってなって、地元に車を走らせて、私はコンビニの前にたむろっている元同級生(exいじめの主犯格)をショットガンで吹き飛ばす。ショットガンの反動って凄くて、肩をぶん殴られたみたいに痛いんだけども、それよりも楽しさがずっと勝ってる。ついでに元同級生の友達も撃ち殺す。知らない奴だけども、殺しておいたほうが世界のためだろ。バン!バン!バン!
一通り殺し終えて、コンビニの駐車場が血肉で染まったら、今度はいよいよ大学に向かうぞー!って「本当大回りだったね」って私たちは笑いながら言う。大丈夫、ミッシェル・ガン・エレファントは大量に曲を残している。次はデッドマンズ・ギャラクシー・デイズだ!!
大学に着いたら、私はショットガンとライフル持っていて、動くものをみんな撃ち殺していく。立体的なワニワニパニックみたいで楽しいよ。あ、ワニワニパニックも立体っちゃ立体か。私が撃ち漏らした人間を篠崎くんがさらに撃ち殺していく。野々原さんは建物に向かって火炎瓶を投げていく。屋根が尖った校舎が燃える。
辺り一面、死体の山が築かれていく。
「逃げられると思うなよ!!」私は叫びながら狙い撃つ。私の命中率は100%。こんな才能があったなんて、お前はゴミだって、無力だって言ったやつのことを思い出して、腹いせに警備員さんの頭を吹き飛ばす。
最後は学生会館だ。全ての部室に入り込んで、皆殺しにする。
運動部から文化系まで。
フットサルから天文学部まで。
私たちは皆殺しにしていく。
最後は勿論、ビッグ・フィッシュの部室(with演劇サークル)だ。
入ると部員が勢揃いしている。
私はショットガンを弾が切れるまで撃ち込む。
大友がひき肉になるのを見る。
野々原さんが演劇サークルの方に火炎瓶を投げる。
サッカーゲームで点数が入ったときのような絶叫が聞こえる。
弾が切れる。ライフルも既に弾切れだ。
窓際のソファーにヨシノ先輩が怯えて座っている。
私はハンマーを持って、ヨシノ先輩に近づく。
ヨシノ先輩は恐怖で腰が抜けて動けないみたいだ。
ヨシノ先輩の額にハンマーを添える。あとは振り上げて振り下ろすだけ。
ごめんなさい。ヨシノ先輩。このサークルに誘ってくれたのに。
だけど、皆殺しにしなきゃいけないんです。
そうじゃなきゃ私の心は救われないんです。
「ハルコちゃん。辛いことがあったら私が話を聞いてあげるからね」ヨシノ先輩は笑顔で言う。
そう言われて、私はヨシノ先輩を殺さなきゃいけないと思う。
こんな時に私に同情するような人間なんて殺さなきゃいけない。
けども、殺すことができない。
私はなんか急に呆然としちゃって、それでハンマーを篠崎くんに返して「ごめん、帰ろう」って言う。
軽自動車に乗ろうとする。するともう篠崎くんと野々原さんが乗っている。
「どうしたの?」私は聞く。
「ハルコ、楽しかった?」篠崎くんは聞く。
「疲れたけどもね。めっちゃ楽しかったよ」
「うちら、これから帰るわ」野々原さんが言う。
「乗せてくんないの?」私は言う。
「ごめん。無理なんだわ。ちょっと遠くの方へ行かなきゃいけなくて」篠崎くんが言う。
野々原さんが窓から身体を出して、私を抱きしめる。
「ハルコは私らの友達だよ」
「じゃあ、行ってくるわ」篠崎くんが言う。
軽自動車は走り去っていく。あっという間に見えなくなる。
大学は燃えている。
私は深呼吸をする。
私は、私だという感覚になる。
私は歩いて下宿先まで帰る。こんな時に近くに住んでいて良かった。
目を覚ますと強烈な喉の乾きを感じる。
私は玄関で寝ていた。全身が疲れ切っている。身体がバキバキと痛む。
ふらふらとなりながら、キッチンに行き、水を飲む。
あ、薬飲んでない。
今は何時とiPhoneを見ると1月6日の7時37分。
何日寝ていたの?
全然わからない。
二人の姿は当然無い。
離脱症状。
身体のしびれ。
薬。飲まないと。でも薬はもう切れてしまったはず。
早く、なんとかしないと。病院に行かないと。
でも。
その時、キッチンを見る。
ビニール袋がある。
あんなところに置いた記憶なんてないのに。
中を覗くと、薬がある。
ADHD、精神安定剤、双極性障害、鬱病。色とりどりの薬。
私は慌てて、薬を飲む。
飲んで、一時間もすると、身体のしびれが収まっていく。
私は安堵から溜息をつく。
さっきまでのことを思い出している。
皆殺し。皆殺しだ。全員殺してやったんだ。
街は至って静かだ。
サイレンの一つも鳴っていない。
iPhoneを開いて「大学 大量殺人」で調べる。
海外の昔のニュースがヒットするだけだ。
私はベランダから外を眺める。
いかにも平和そうな街並み。
あれはなんだったんだろう。
長い夢を見ていただけだったのかな。
でも、手には感触があって、とてもじゃないけども夢だとは思えない。
夢だと思いたくない。
これが夢だったら、私はこの先どうしたらいいかわからない。
iPhoneが振動する。LINEの通知。
シャボン玉サークルのグループLINE。
ヨシノ先輩からだった。
「後ほど、今後のサークル運営・活動についてのご報告があります」
え、みんな生きてるの?
呼吸が浅くなる。
苦しいけども、大学に行く。
ぼろぼろになっていてほしい。
燃えカスになっていてほしい。
あれが夢でありませんように。
何度も願いながら。
結局、何にも起きていない。
建物は燃えていないし、死体の山なんて無い。
顔を吹き飛ばしたはずの警備員さんは元気に私に挨拶してきた。
私はがっかりする。心の底からがっかりする。
結局、私の願いなんて何も叶わないんだ。
大学にいるのも、もう嫌だ。
早く帰ろう。
とても息苦しい。
「あ、ハルコ!」通りがかった大友が私に話しかける。
私の身体は硬直して動けなくなる。肉片になったはずの大友に話しかけられている。
「あの話聞いた?林田先輩のことなんだけども」
林田先輩の名前を聞いて、きゅっと首が苦しくなる。
「逮捕されたんだよ」
私は呆然としている。
「同じゼミの人に強引に、その、何人も手を出してたらしい。だから、サークルもどうなるかわかんないって。もしかしたら活動停止にしれない」大友は青ざめている。
「……だから?」
「だからって!だってあの林田先輩が逮捕されたんだぜ。しかもその、性犯罪って!それにビッグ・フィッシュもそのせいで潰れるかもしんないとか、俺、もうどうしたらいいかわかんなくてさ」
私はどうでもいいと思っている。サークルに愛着なんて持っていない。活動休止になるんだったらなったらいい。潰れるんだったら潰れたらいい。
でも、ヨシノ先輩のことだけは気にかかる。
「本当か嘘かわかんないんだけども、林田先輩が逮捕された時、なんか酷い状態だったんだって。なんか顔を殴られてたり、手を縫われたり、歯を抜かれたりしてたんだって。嘘か本当かわかんないし、本当だとしても誰がやったかわかんないんだけどさ」
私は思わず笑ってしまう。
あまりも笑うから大友が「え、どうしたの?」って聞いてくるけども、うるせえ、私たちはやったんだ。
やりきったんだ。
後日、サークルのグループLINEが動く。
「サークルメンバーの逮捕を受けて、シャボン玉サークルビッグ・フィッシュは活動を休止することになりました。活動再開時期は未定です」
その文章を送ったのはヨシノ先輩だ。
私はヨシノ先輩の顔がよぎる。
怯えながら「ハルコちゃん。辛いことがあったら私が話を聞いてあげるからね」って笑顔で言ったことを。
多分、今も怯えているんじゃないかって思う。
意外な発想が頭に浮かんでいる。
ヨシノ先輩に連絡しようって思う。
なんていうか、林田先輩をボコって、夢の中で大量殺人をした私は物凄く全てのことに前のめりになれる気がしている。
ぐいぐい、いける気がしている。
みんなこんな気持ちで生きているのかな。
だからみんなあれこれ楽しそうにしているのかな。
「ヨシノ先輩、お忙しい中、お疲れ様です。もしよければお会いして喋りませんか?」
送信。
すぐに返事が返ってくる。
「もちろんだよー。トリキでいい?」
鳥貴族で私とヨシノ先輩は向かい合っている。
怯えていた顔とは違ってとても明るい顔をしている。
「ハルコちゃんが誘ってくれるなんてねー」と上機嫌だ。
ヨシノ先輩はジョッキでビールを頼み、私はオレンジジュースを頼む。
焼き鳥を食べながら、私たちは喋り始める。
他愛もない雑談。趣味の話。好きなものの話。嫌いなものの話。好きな音楽の話。
「あれ、ハルコちゃんってそんなに喋る子だったっけ?」ってヨシノ先輩は笑いながら言う。
ヨシノ先輩が笑ってくれるのがとても嬉しいと思う。
二時間くらい鳥貴族で飲んで、私たちはじゃあ帰ろうかとなる。
帰り道が途中まで同じだったから、私とヨシノ先輩は同じ道を歩いていく。
人は誰もいない。
冬の静かな空気。
途中、小さな公園がある。普段、近所の幼稚園の子供達がよく利用していそうな公園。
「ハルコちゃんさ、ちょっと座っていかない?」ヨシノ先輩がベンチを指差す。
私が頷くと、私たちはベンチに座る。
ヨシノ先輩はベンチに座ると黙ってしまった。
でも不思議なことに間を埋めなきゃという気持ちは出てこなかった。
私は街灯の灯りで生まれた遊具の影を見ていた。
「……林田をさ、警察に通報したの私なんだよね」
私は呆然としている。
「学部の友達がさ、あいつに手を出されて、勇気を出して、警察に行ったんだよね。凄く怖かったけども、行ってよかったって思ってる。」
そうだったんだ。なんで逮捕されたかそういえばわかってなかったけども、そういうことだったんだ。
「……私さ、一年の時に、面倒を見てもらってた学部の先輩に、そのさ、強引にやられちゃってね。あの時さ、まだ根暗ちゃんだったし、女子校上がりで全然なんもわかってなくて、それで……」
私は何も言えなくなる。
「だからね。金髪にしたし、性格も変えようとしたし、ロシアの護身術も習ったんだけども、本当はさ、そいつを通報すれば良かったんだ。けども一番簡単なそれができなかったんだ。怖くて。……林田もね、ずっと嫌な噂があってさ、もっと警戒するべきだった」
「……私も林田先輩に手を出されました」私は言う。
私は急に息苦しくなる。私は息が荒くなって、涙が溢れる。
ぼろぼろと泣いている私の背中をヨシノ先輩はさすってくれる。
「ごめんね。結局、私は誰も守れなかった。あいつらがクソ野郎ってわかってたのに。サークルも活動できなくなって、何やってるんだろう。」
ヨシノ先輩は涙を流す。
私はこんな時なんて言えばいいかわからない。
ずっと人と交流してこなかったからだ。
友達はあの二人だけだったからだ。
自分の苦しみで精一杯になっていたからだ。
けども、私は言ってみることにする。そちらにかけてみることにする。
「月並みな言葉かもしれないですけども、先輩は悪くないです。……悪いのはその学部の先輩と林田先輩です。だから、自分を追い詰めないでください。……私はヨシノ先輩が好きです」
私は言い切る。ヨシノ先輩の顔を見ることができない。
遠くの街頭の灯りを見ている。
涙で滲んでいる眩しい光。
「私さ、根暗ちゃんだって言ってたじゃん。初めてハルコちゃんを見た時に、昔の私を思い出しちゃってさ。昔って言っても1~2年前くらいだけど。だからハルコちゃんを見てると、私は守らなきゃって思ってたんだよね。……それはできなかったけども。でも、ハルコちゃん、私はあなたと知り合えて良かったと思ってるよ」
ヨシノ先輩の顔を見る。泣きながら笑っている。
ヨシノ先輩は私の手を握る。
それが暖かくて、やわらかくて、それはちゃんと私の感覚だと思う。
その時、少しだけ息ができるような感覚になる。
冬の終わり、LINEで電話がかかってくる。
篠崎くんからだ。
「どうしたの?」
「ハルコ、元気にしてるか~」野々原さんの声。
「野々原さん?今どこにいるの」
「あれからずっと軽自動車走らせてる」篠崎くんの声。
「どこまで行ってるの? なんでそんなに走れるの?」
「走れるよ!1年から10年?わかんない!」野々原さんが言う。
「とりあえず当分」篠崎くんが言う。
「二人に会えない間どうしたらいいの?」
「さあ?でも色々あるじゃん。サブスク入ってもいいし、大学から服飾の学校行ってもいいし、ロシアの護身術習ってもいいじゃん。何してもいいよ。死ななかったら何してもいいんだよ」野々原さんが言う。
なんとなく、ヨシノ先輩の顔が浮かぶ。ヨシノ先輩と仲良くなってもいいのかな。
そんで二人は私のこと、ずっと好きでいてくれるかな。
私も二人のことずっと好きで入れるかな。
「……帰って来る?」私は言う。
「勿論だよ!だってハルコの誕生日会しなきゃだろ!」野々原さんが言う。
「いつになるかわかんないけど、その時は遊ぼうよ」篠崎くんが言う。
「ハルコ。またさ、虐殺しようよ」篠崎くんが言う。
「今度はどうする?爆弾作ってさ、ヘリコプターから落として街一個燃やし尽くすとかどう?あ、トンネル入る。じゃあねー」野々原さんが言う。
「ちょ、ちょっと待ってよ!待って、行かないで、私を一人にしないで」
通話が切れる。
私は途端、不安に襲われる。
深海から引き上げてくれるのはいつもこの二人だった。
だから行かないで、私の前から消えないで。
*****
二人のLINEは通じなくなった。
何を送っても既読はつかないし、電話も繋がらない。
軽自動車でどこに行ったのかもわからない。
わかったとしても、物凄く遠い場所だろう。
下手したら私が行けないような。
私はなんとかしなきゃって思う。
でもどうしたらいいかわからなくて、何もすることができない。
春休み、実家に戻った。
実家に戻ったところで、何もすることがない。
だから二人の痕跡を探そうとした。
二人がどこへ行ったかもしかしたらわかるかもしれないから。
私は二人とよく遊んでいた、高校近くの公園に行った。
公園は私達が遊んでいた頃よりも、草木が生い茂っていて、荒れ果てている。
当然だけども、私達が遊んでいた痕跡なんて残っていない。
篠崎君の家は記憶の中では真っ白だった。
でも見る影もなくぼろぼろになって朽ち果てて、廃屋のようになっている。
夕焼けも相まってどこか不気味に見える。
私は立ち尽くす。
ここで合ってるよな。
間違ってないよな。
表札を見る。
「篠崎」と書かれている。
やっぱりここだったんだ。
ここで間違ってないんだ。
「あ。ああ。あああああ」と声にならない感情を吐き出しながら、座り込んでしまう。
涙が溢れ出る。
二人がどこに行ったか、もう本当にわからないんだ。
二人の痕跡はどこにも残っていないんだ。
二人は本当に消えちゃったんだ。
行かないで、どこにも行かないでって思っていたのに。
ぎぃぃぃ、と音がする。
家を見る。
扉が開いている。
さっきまで閉まっていたのに。
扉の向こうから、かすかにだけど音が聞こえる。
オルゴールのハッピーバースデー。
私は立ち上がり、その扉の向こうの暗闇を見る。
先が見えないような暗闇。
暗闇の向こうで人影が動く。
「篠崎くん?」その人影の背格好がどこか似ていて、そう言ってしまう。
人影は家の奥へと入っていく。
「待ってよ」私は、家へと近づく。
扉をくぐる。
さっきよりも大きな音でオルゴールのハッピーバースデーが聞こえる。
それはリビングの方から聞こえる。
リビングへの扉は引き戸になっている。
私はそれを開ける。
蛍光灯の眩しい光が目に飛び込む。
オルゴールのハッピーバースデーがより大きな音で聞こえる。
ほとんど何の家具も置かれていない真っ白な部屋。
フローリングの床のあちこちには物が置かれている。
私は歩き出すと、足に激痛が走って叫ぶ。
何にと思って足元を見ると、トミカが落ちてある。
それは軽自動車のトミカだ。篠崎くんが乗っていたのと同じ軽自動車のトミカだ。
部屋のあちこちにあるものが段々とわかってくる。
レゴだ。
レゴで作られた色々な建物や場所だ。
木々に囲まれた公園のベンチ。
学校の校舎。
レストラン。
お店。
アパート。
そしてぼろぼろに壊された建物。
屋根が尖った建物。
私が通っている大学の校舎だ。
レゴで作られた建物が部屋のあちこちに置かれている。
それはまるで地図上に置いてあるような距離感で。
部屋の奥にソファーが置いてある。
そこにはぬいぐるみが二体置いてある。
それはつぶらな瞳をした犬か猫かわからないぬいぐるみで、その二体のぬいぐるみはそれぞれ派手なシャツとゴスロリ服を着ている。
それは篠崎くんと野々原さんが着ていた服を思い出す。
自分が持っているカバンにぶら下げている野々原さんから貰ったぬいぐるみを思わず見てしまう。
部屋のどこからか延々とオルゴールのハッピーバースデーが流れている。
ここがなんなのか、全くわからない。
この異様な部屋が何を意味しているかわからない。
けれども、ここだ。
こんな異様な部屋じゃなくて、普通の部屋の時だったけども。
ここで私たちは誕生日会をした。
私と野々原さんはオルゴールのハッピーバースデーに合わせてスキップしていて、篠崎くんがそれを見て怒っているんだけども、顔は笑っていて、凄く楽しい日で。
ここに私たちはいた。
私は部屋の真ん中で立ち尽くしている。
ソファーに置かれた二体のぬいぐるみを見る。
そのぬいぐるみ達をよく見ると、少し離れて座っている。
一体分のスペースを開けているように。
誰かを待っているように。
「だってハルコの誕生日会しなきゃだろ!」
「いつになるかわかんないけど、その時は遊ぼうよ」
二人の声を思い出す。
私はカバンからぬいぐるみを取り外す。
そして、そのソファーのぬいぐるみとぬいぐるみの間の空いているスペースに私のぬいぐるみを置く。
三体のつぶらな瞳をした犬か猫かわからないぬいぐるみ。
小さな篠崎くんと小さな野々原さんと小さな私。
私は笑う
本当の私たちはいつ、また会えるかわからないけれども、小さな私たちはこうやって肩を並べている。
これでいいと笑う。
オルゴールのハッピーバースデーが鳴り響いている。
#4
深海に潜っている私を、私は見ていた。
全てが遠くの出来事で、全てが他人事のように感じていた。
私は私を守るために深海に潜っていた。
すべてが遠くで起きていて、すべて息苦しかった。
まだ潜っている感覚はある。
他人事のように感じることもある。
私を、離れた私を見ている瞬間もある。
それでも少しだけ前より浮上できるようになった。
前より少しだけ自分を自分のこととして感じられるようになった。
潜っている。
でも、ずっと深い場所にいるわけじゃない。
私はコップに水を注ぐ。
ぱきっ、ぱきっと薬をシートから取り出す。
朝はADHDの薬が二錠。精神安定剤が一錠。抗うつ剤が一錠。
色とりどりの薬。
薬を飲み干しながらカレンダーを見る。
今日は私の誕生日。
部屋を片付ける。
物を四方に寄せ、ベッドもきれいにして、ローテーブルの上を片付ける。
部屋を見渡す。
これで友達が来ても大丈夫。
「誕生日おめでとうー」ヨシノ先輩が家にやってくる。
「ありがとうございます」
「これあげるよー」と箱を渡してくる。「ケーキだよ。小さいの二つだけど」
私は頭を下げる。
ヨシノ先輩は就活のためすっかり黒髪になってしまった。早いこと受かったら金髪に戻すけどもねと言ってるけども、なかなか就職は難しいらしい。
「そういえば、大友がビッグ・フィッシュ復活のために動いてるらしいよ。あいつそんなにあのサークル好きだったんだな」
「まあ、楽しそうにしてましたし」
「復活したら、戻る?」ヨシノ先輩は聞く。
「正直、わからないです」
「無理して戻ることはないよ。嫌な場所には特にね」
私は頷く。
「そういえばさ、来月フェスがあってさ。こんなタイムスケジュールなんだけども」
ヨシノ先輩がスマホでタイムスケジュールを見せてくる。
あのバンドもこのバンドも出る。ウォークマンに入ってる好きなバンドばかり。
「就活もあるし、行こうか悩んでるんだよねー。というかまだチケットあるかなあ」
ヨシノ先輩は悩んでいる。
「先輩、もし良かったら一緒に行きませんか」
「ハルコいいの?人多いところとか大丈夫?」
「フェス行ったことないですし、不安もありますし、だからこそ一緒に行ってくれたら嬉しいです」私は目を伏せながら言う。
「じゃあさ、ヨシノお姉さんが連れてってあげる」ヨシノ先輩は笑う。
私も笑う。ほっとして、胸の辺りが暖かくなる。
誕生日会の最後にヨシノ先輩と写真を撮った。
普段、自撮りなんてしないから全然撮れなくて、一枚目は失敗して、二枚目はいい感じに撮れてそれで私たちは笑った。
「これ、前に言ってた誕生日会の写真?」ヨシノ先輩はカメラロールにある写真を指差す。
赤いモヤがかかっていたはずの三人の写真だ。
その写真をタップすると、写真が画面いっぱいに表示される。
私と篠崎くんと野々原さんで肩を組んでとても笑っている。
涙がとめどなく溢れ出て、私は頷くことしかできない。
私は息が吸えるようになる。
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