バジーノイズ
映画『バジーノイズ』。わたしの推しである川西拓実くんが主演ということで公開初日に早速見に行ったのだが、あまりにも映画が良すぎた。推し目当てという目的を忘れて完全に見入った。その感想をここに述べていきたい。
この映画におけるキーワード。それは「好き」と「他人」だと私は思ったので、今回はそれに準じて感想をのべていきたい。(セリフが全てあやふやなので間違ってたらすみません。)
潮の「好き」
最初、清澄の髪を切りながら潮は言う。
「他人におすすめされたもので生きてきた。けど、初めて自分から良いと思ったの。だから、大事にしたいの。清澄を応援したいの。」
その日から潮は清澄を家に住ませてあげて、髪を切ってあげて、動画を撮影して、レコーディング会社の幼馴染を紹介して、ライブハウスにいってビデオカメラで撮影して、Twitterのアカウント作って、といった感じでとにかく清澄の応援を全身全霊でやってあげていた。
そこから清澄は紆余曲折を経てレコーディング会社の社長に見つかり、作曲家として地下に籠る日々。それに危機感を覚え、航太郎と陸と潮の三人で清澄を取り返そうとしたときのシーン。
信号の前で潮は清澄への気持ちを吐露する。
「知らんうちに、うちがいなくても笑うようになってた。それがめっちゃ嫌やった。」
そしていざ地下室に侵入し、ドアの前で潮が放った清澄への言葉。
「1人がいいって言うなら、誰も否定せん。でも、そこで死んだような顔してんなら、死ぬほど嫌や」
この3つの言葉から、潮の「好き」がもつ、尋常無いパワーがひしひしとつたわってくる。潮はおすすめされてきたもので生きてきたからなのか、それともそういう性格だったのか、先天的なのか後天的かは分からないけど「好き」の才能があると思った。自分の好きを(セリフでも言った通り)大事にするし、とことん尽くしていた。なにからなにまで全部やってあげて、ありえない労力を使って、普通だったら「なんでそんなに良くしてあげるの」と心配せざるをえないほどのことをしてあげていた。最初清澄が「貸しとか作りたくない。」と言ったけど、「だからウィンウィンな関係にしようや。清澄は曲作れる。私はそれがバズったら楽しい。」っていう言葉だって、衣食住の提供と清澄のバズることがイコール関係が成り立つのが凄い。でもそれ以上に納得もした。自分の心の底から、好きだと思ったもの。世間の風潮とか、他人の評判とか、そういうことを嫌でも体内にバーっと詰め込まれるこの時代で、ただ自分の心が沸き立った、なんの雑音にも揉まれていない、純粋な「好き」をもてるのはどんだけ難しいことなんだろう。だからこそ、こんなに潮は行動できたのだろう。純白の好きが人間を突き動かす描写が良かったなぁ、、、。そして清澄を取り返すシーンでも、潮の「好き」の姿勢が際立っていた。絶対に「清澄の心」に従う。あくまでもファン一号だ、という気概を感じる。自分の「好き」を大事にしてるのがよくにじみ出ている。こんなにありったけで正直な愛を表明してくれる人間、なかなかいないよ。こんな、安心できるふっかふかの布団みたいな愛の受け皿があったから、清澄はそこにダイブできたんだろうな~。
陸の「好き」
「好きなこと続けんのって、むじぃんよ。」
これは個人的に私も思ってたことだから陸さんがそう言ってくれて、なんか、あ〜有難い~って思った。さっきも言ったように、世間の風潮とか他人の評判を無作為に体内にバーっと詰め込まれるこの時代は、取り憑かれなくてもいいものにすごくがんじがらめにされてる。本来好きなことをやっているはずなのに、それを後ろめたく感じなきゃいけないとか、やりたくないことをやるのが大人なんだと思うとか。そういうことを思って辛くなる。やりたいことができない。そう思うと、好きなことを好きって気持ちだけで続けるのは本当に難しいなぁと思った。そう思うと潮は本当にすごいな。やっぱり潮が眩しすぎるな。好きだけで純粋無垢で実行し続ける、あとは何も気にしない。そんな性格が羨ましかったな。好きっていう気持ちが、それが磐石になるよう育てていくことも大事なのかな、とかも思った。
「他人」という存在への解釈
バジーノイズ、他人とどう関わるかについて所々にヒントがちりばめられていて凄い勉強になったというか、良い栄養剤になったのでそれについても語りたい。
「よくある話かもしれへんけど、清澄にとっては1度きりのことなんやろ?向き合って、後悔して。なんなら、もう前進んでええと思う」
このセリフ、本当に欲しかった言葉。そうなんだよ~~~。自分が日頃思っていたようなことをメディアの中で見つけたとき、本当に勇気づけられる…。この場面、最初潮が「言いたくなかったら言わんくていいんやけどさ、陸さんとなんかあったん?」て言ったら、清澄は「別に、よくある話や。」って言う所から始まんの。この清澄の、他人に対する諦めきった感がすごく私には大人に見えた。絶対清澄はそれをよくある話なんて思ってないのに、その気持ちを殺して、よくある話だと言い切って、必要のない傷つきを減らそうとしてるあたり、めちゃくちゃ自衛が堅い。どうせ心の内側を話しても、他人はただその話を聞くだけ、でも自分はそれを経験した側の人間。経験した人間と経験してない人間に、大きな差があることをもう分かってる。自分の想いを吐露してそれが野放しになるのが嫌だから話さない。でも、潮はそのことを理解してくれてた。他人と自分の大きな距離感を理解した上で、自分は自分のことを大切にしていいんだよ、ありきたりなんて言葉で済ましちゃダメだよ、そんなことを言ってくれた気がした。このシーンで清澄と潮の相性がピッタリだと思った。本当にパズルピースくらいカチッと2人がマッチしてる。
あと、陸と陸の彼女の会話もすごくいい考え方があってうれしかった。
「私たち、他人。」「他人。」「だけど、恋人」
この、だけど、っていうのが良かった。個人的に、私は清澄みたいにあまり人を頼りたくないタイプだし、人に期待したくない、どうせ人は離れていく、って思ってしまうタイプだから、このセリフの考え方は凄い感化されるものがあった。他人という存在であることは事実だけど、それと並列して「友達」とか「恋人」とか特別な関係であることもまた事実だ、ということを教えてくれた。そんな考え方があるのか、と思った。
印象的なシーン、言葉たち
ここからはこの映画の良かったところを言いたいだけ言うパートなんですけど、私が第一に思ったのは時々ある掛け合いが面白くてすごいニヤニヤしちゃった。
「死ねー!カスー!タンスに全足ぶつけろー!スニーカーおろしたての日に雨降れー!」
「なんで全部足元やねん。」←ここ好きすぎる
「レゴ踏めー!」
航太郎がMothersの人に謝罪するシーン。
「先に謝っときます。すみません!でも、動画の中の陸は、見たことないくらい……楽しそうでした…あ、すみません!」←死ぬ、その事後謝罪で回収できると思っとんのか
こういうたまにあるボケが堪らなかった。
あと言わせて欲しいのは航太郎のこの言葉について。信号のシーン。
「あーーーーー!!!!、、、、、、俺、たばこ辞めるわ。」
「問題とかたばこ吸って苦い顔して終わらして、大人ぶって。そのうえ辞表だしたこと後悔して。まじダセー、、、」
ちょっとニュアンスこんな感じだったぐらいで正確なセリフは違うだろうけど、この航太郎の言葉刺さった~。航太郎、根はめちゃくちゃ良い奴なの本当に出てる。自分の良くないって感じたことをなりふり構わず馬鹿正直に言う感じ。言葉にして口に出すことがとにかく最優先なのがいい。自分の良くない部分をもう声にだして言っちゃうことで、周りの人間巻き込んで、結果的に自分の行動に責任負わなきゃいけないように自分を仕向けてる。偉いなーって思った。めっちゃ鼓舞された。「グチグチ言っててもしょうがない、ダサいから、やるって決めたらやりきろうぜ」みたいな感じ。不満を不満で終わらせないようにする、航太郎なりの方法なんだろうな〜と感心しました。
最高に好きなシーンも述べさせて欲しい。
木製の椅子を鉄の扉に叩きつけて、潮が言う。
「今度は、そっちから開けてきてよ。」
なんかここ、もう言語化できないけど、すんごい気持ちになった。
清澄と潮の関係性
清澄と潮の関係性について、最後に言及させてください。最初2人で海行って、元カレへの愚痴言う潮に突っ込んで笑ったところが一番の始まりで、二人よがりのシーン、あとフィンガードラムを潮にひかせてあげるとことか、AZURのCDを最初に潮に聞かせるんだって清澄が走って帰るとこ、最終的には清澄自らドアをあけたところ。心を開く過程が綺麗に描かれているけど、ここに恋愛的感情がない。なんか、親に近い感じがした。恋人とか友達とか、そういう名前を欲しがるのが社会。私みたいなオタクもそう。推しとかオタ活とかって言葉があるから、今、私は川西くんを応援できてる。推しとファン、って言葉がこの世になかったら、一般化してなかったら、私は多分、拓実を応援できない。でも、潮は違う。潮は凄く強かった。潮は自分のこと「ファン第一号」だって言ってたけど、世間一般のファンと少し意味合いが違う。潮と清澄の関係を括れる言葉が、この世にないのに、そんな不安定なところにいるのに、潮は清澄にできるだけ奉仕して、清澄もどんどん潮を信じるようになった。そしてこの関係性をだれも否定しなかった。この関係性をゆるす世界だった。お前ら付き合っちゃえよ、とか、お前清澄のこと好きだろ、とか全部とりあえず恋愛にもっていくような人間が周りにいなかったことが凄く良かった。「潮が清澄の音楽を好きだ」。それ以上でもそれ以下でもなく、それ以外なにも要らなかった。これがめちゃくちゃ良かった。
川西拓実とバジーノイズ
※ここからは川西拓実のオタクとしての独り言です
いや、この役柄と川西拓実という人間の相性が良すぎる。意味わからない。「完結に至るまでの時間は川西拓実を見つけるまでの時間だった」←本当にこれ。拓実の人生史として、会社員からアイドルという職に飛び込んで、いざアイドルになれたとなったら10人の他人と活動を共にしなければならなくなって、最初は壁があって、それを取り払うのに時間も労力もかかった。拓実本人にしか分からない複雑な出来事、複雑な気持ち、やりきれなさ、不満があって、でもそれをファン側に見せないようにして。裏側は分からないけど、ファンの私が思うのは確実に、まる4年JO1を続けた拓実は、本当にJO1のことを愛しているし、頼っている。少なくとも私にはそう見える。他人という存在への捉え方がすごく拓実と清澄は似ていた。音楽に救われた点もそう。なにか立ち込める感情を心に有している点でもそう。拓実は表現者そのもので、色々思ってることがあるタイプだろうから、それを発揮できる、発揮してそれを歓迎してくれる環境として、この『バジーノイズ』はうってつけだった。共通部分が多い拓実にしかだせない清澄があったし、拓実が清澄を演じてくれて良かったって思う。拓実もどこか救われた部分もあると思う。拓実に清澄を演じる機会が用意されたことが本当に有難いと思った。『バジーノイズ』という作品に川西拓実が清澄役として出れたこと、拓実にとってもファンにとってもこの上ない幸せだと思った。そしてこんなに拓実が幸せになれる機会が与えられたのは、紛れもないJO1の活動が故で、だからJO1を始めてくれたこと、そして今もJO1を続けてくれていること、改めて本当に嬉しくなった。なんかエンドロール中JO1が終わる日を想像して凄く嫌になった。潮が清澄の音楽が好きなように、私もJO1のことが本当に本当にすごく好きで、JO1というものがあれば私もファンもこんなに幸せなのに、こんなに幸せを運んでくれるJO1がいつか無くなるの、本当に有り得ない。その可能性があるっていう世界線が無理、となった。JO1、絶対に終わらないで欲しい。