イニシェリン島の精霊(2022)/マーティン・マクドナー監督
すごいものを観た。
鑑賞後は胸の痛みとすごいものを観た感動を、冬の木枯らしで冷ましながら帰路に着いた。
遠く高くひろがってゆく空の下に広がる海と雄大な大地。
風はこんなに通るのに、胸に重く閉ざされた石戸があるような閉塞感を観客までもが感じながら、ある男たちの人生の岐路をスクリーンで目撃する。
イニシェリン島の美しい風景の中で暮らす人々は、心に黒ずんだ灰みたいなものを抱えながら、隣人を監視している。
一方で、何か日々とは違う風が吹かないかと待ち構えていて、けれど何も起こらない毎日にほんとうはどこか安堵しているのだろう。
家畜を飼い、夜は時間を潰すようにバーに通うこの物語の主人公である"いい人"パードリックも、きっとこの風景は変わらないと思っていたであろう。
というか、変わってしまったら、困るのだ。
愛する妹やロバや馬と日々を穏やかな景色と共に過ごし、馬のフンがどうとか、島で何があったとか、そんな話で酒を酌み交わす生活。
しかし、そんな日常にも変化の時は突然やってきた。
昨日まで友達だと思っていたコルムが、自分のことを嫌いだと告げてきたのだ。
一緒にビールを飲むことはもちろん、話すことすら拒否され動揺するパードリック。
ここからおじさん達の喧嘩、というには禍々しい諍いが始まるわけだが、とても小さな出来事から人の本質的なものが抉られるように容赦なく描かれていて、そんな作品に出会えてわたしは心底嬉しくなった。
終わってもまだ物足りなく、もう終わったの?という感覚で、体感としてはあと1時間は観てられるなぁというほどに惹きつけられてしまった。
それは映像としてのイニシェリン島の美しさもあったと思うし、どこまでいっても芽生えた信念を守り続けるコルムというキャラクターの潔さもあるだろう。
もしくはパードリックの隠された危うい依存心とか、予言を告げる老婆の存在にもハラハラさせられて、ああもうそれ以上やめてくれ、と言いたくなるタイミングが何度かあった。
人間はこういった問題でよく諍いを起こす。
ただ、この諍いというのは最早話し合っても解決しないことがほとんどだ。
だから今作でも、コルムは「言ってわかんねぇならこうしてやる!!!」という血生臭い選択をするわけだが、正直、そこまでしたい気持ちがわかる。
人や相手や、矢印がどこへ向こうがそれは暴力なのでその点、不毛さはあるのだが、信念を貫くための犠牲というのは時に美しく見えてしまうから困ったものだ。
"人生は死ぬまでの暇つぶしではないか"
これは誰しもが一度は考えたことがあると思うが、それ以降の答えは人それぞれ違い、死ぬまでの時間をどう過ごすかはひとりひとりに委ねられている。
そして、その過ごし方がまるで違う、ということは、住む場所や話す言語が違う、ということととてもよく似ていると思う。
同じことについて話しているはずなのになぜか伝わらない、みたいなもどかしさとか、この国ではこれが善のはずなのに、みたいな決定的な価値観のズレが、やがて大きな軋轢となって争いになっていく。
閉鎖的であればあるほどそこでの常識や価値観は固着されていって、風穴を開けようものならそれは暴力だとか病気だとか言われたりする。
一方で、安定を求める気持ちもわかる。
みんなでそこで楽しくやっていたのに、そこに石を投げられたら怒るだろう。
状況を壊さないでくれと訴えかけるだろう。
でもそうやってどちらかが誰の選択が間違っているとか正しいとか言い始めてしまったらそれはもう戦争のはじまりなのだ。
片方はそれを望んでいなくとも。
難しいことだよなあ、と思う。
住む場所が違い、話す言語が違えば常識も価値観も違う。
けど住む場所が同じで、話す言語が同じでも、常識も価値観も違うこともある。
そしてそれは時間の経過や経験の積み重ねによっても動いていくものである。
コルムは音楽に乗せて息をしようとしただけだった、ようにわたしには見えた。
でも、そうはいかなかった。
厄介者扱いされていたが実はこの島の"風穴"であったドミニクも、もういない。
そんな窓のない閉鎖空間の中で依存関係が生まれてしまった時に、どうそこから脱却していくのが一番平和的な方法なのだろうと思いを馳せる。
変わらない日々。息苦しい空気。
そこから息をしたくてきっと人は祈るのだろう。
そして何人かは、目に見えない何かを感じとろうとするのだろう。
今日も閉じられた島の中で、あんなに広く遠く美しい景色の中で、警官は鬱憤晴らしに誰かを殴り、売店のおばちゃんは目新しい話題を持ち得ない客に悪態を突く。
精霊の息づく島で、鬱憤が噴出するかのように内戦は終わらない。
死ぬまで、終わらないみたいに。
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