教師とは桃太郎である。
ーー教師はその立場上、周りの人(こども)を巻き込む「天才」であるのだから、悪い方向に巻き込まぬよう、多様な方向にアンテナを張っておくひつようがあるのではないか
人生は物語。
どうも横山黎です。
作家として本を書いたり、木の家ゲストハウスのマネージャーをしたり、「Dream Dream Dream」という番組でラジオパーソナリティーとして活動したりしています。
今回は「教師とは桃太郎である。」というテーマで話していこうと思います。
🏨大学院の授業のフィードバック
先月末、大学院で授業をする機会がありました。「学校教育における多様性の受容と活用」という授業のゲストティーチャーとして登壇したんです。
経緯を話すと長くなるんですが、簡単に流れを説明すると以下の通りです。
全く何がどこにつながるか分かりません。僕の個人的な欲から始まった「桃太郎」の物語は、大学院で授業をするという未来に行き着くことになったのです。
そんな経緯から登壇したこともあり、僕の授業のテーマは「桃太郎からみつめる多様性」でした。
日本人なら誰もが知る「桃太郎」の物語は実は時代によって変容していて、その時代の価値観や思想が反映されているんです。それを知ることで多様性を受容することにもなるし、最近出版される「桃太郎」は「多様性」をテーマにした物語が多いので、そこに触れることでも多様性について考える契機になると思いました。
また、多様性を「受容」するだけでなく、「活用」しなければいけません。そこで僕は、現代の「桃太郎」の物語を考えるという課題を課しました。「多様性」をキーワードにストーリーを考えて表現することは、「多様性」の活用につながると考えたのです。
昨日、その課題と、僕が個人的にお願いしたアンケートが教授から送られてきました。それを眺めるだけで「ああ、やってよかったな」と思ったし、いろいろと考えさせられることも多かったんです。
今回は、いただいた以下のコメントをもとに、「桃太郎」と「教師」と「天才」の関係について迫っていこうと思います。
🏨桃太郎が天才ならば...
さっき写真を載せましたが、僕の大学の卒論は「桃太郎」、正確には、芥川龍之介の『桃太郎』という作品でした。『桃太郎』を掘り下げることによって、芥川文学の魅力を掘り下げていくというものです。そこから派生して、「桃太郎」の物語の変容も論じていきました。
芥川の『桃太郎』では、鬼が平和愛好者として、桃太郎が侵略者として描かれます。僕らのよく知る英雄譚などではありません。桃太郎が一見「悪」の存在のように描かれるのです。
しかし、芥川はそんな桃太郎を、「天才」と呼びました。
残虐非道な侵略者をどうして天才と呼んだのか、僕の興味はそこに集中し、卒論のなかではこの話題が大部分を占めることになりました。
端的にいえば、僕の考える「天才」とは、「ひとつの目的のために周りの人を巻き込み先導する存在」です。
鬼退治というひとつの目的を叶えるために、犬、猿、雉を巻き込んだのが桃太郎です。たとえそれが悪だろうと、他者を巻き込んで先導する存在は天才なのです。
僕の展開した授業の最後では、「天才」の考察を踏まえ、教師も「天才」の存在であるといえるのではないかと伝えにいきました。
🏨教師とは桃太郎である。
冒頭でも示しましたが、生徒さんからのコメントをもう一度貼り付けておきますね。
一連の流れを踏まえると、このコメントの受け取り方が変わってくるのではないでしょうか。
まさに僕の伝えたかったことを真正面から受け止めてくれている感想です。
たとえば「桃太郎」について話題にするとき、従来の物語だけしか知らなければ伝えられる内容に幅は狭くなるし、単一的な価値観でしか物を語れません。
触れずとも知識として持っておく。
教師に求められるその姿勢を保つ意義を、僕自身も大学4年間を通して学ぶことができました。
無数の感情や価値観、嗜好に名前のつく時代ですから、多様性を無視して教壇に立つことはできません。違いを認めて、受け入れて、共に手を取り合おうとする意志を訴える存在だと考えます。
「共生の文化を育てる」という目的のために、児童生徒、他の先生、地域の方々を巻き込んで先導する存在、「天才」の存在こそ、教師であるのではないでしょうか。
少なくとも僕はそう考えるので、その意味合いもあって、この度大学院で「桃太郎」の授業をしてきました。
教師とは桃太郎である。
そんなことを伝えるために。
あのコメントをくれた人をはじめ、僕の授業を聴いてくれたあの院生たちは、共生の文化を育てるための「天才」になってくれるはず。そう信じて、僕は僕のできることをやり続けます。最後まで読んでくださり、ありがとうございました。
20241112 横山黎
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