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「創作」が「現実」を越えるためには……?

――「現実世界」に勝てるのは、「非現実の作品」か、「自分だけのアングルの作品」


人生は物語。
どうも横山黎です。

今回は「創作物に何が求められてるのか」というテーマで話していこうと思います。



◆美術館にて思ったこと



昨日、とある美術館に行ってきたんですが、絵を見ていてふと思ったんです。

「現実世界をそのまま切り取った絵には何が求められているんだろう?」

たとえば、そこには「馬一頭を描いた絵」が展示されていたんですが、この絵を通じて何を伝えたかったんだろう?とか、鑑賞者はこの絵に何を求めているんだろう?とか、考え始めちゃったんですね。
#僕の悪いクセ
#そんなやつが美術館に行くな


もちろん、目の肥えた専門家がみれば価値のある作品なのでしょうけど、その馬の絵に関して僕は心を動かされなかったんです。すっごい絵が上手だとも思わなかったし、魅力的なアングルで描かれたものでもないし、むしろ写真を撮った方がいいものになるんじゃないか思ったくらいです。
#そんなこと言うな
#そんなやつが美術館に絶対に行くな


批判も非難も全部受け止めますので、話を続けさせてくださいね。


現実世界をそのまま切り取った絵って、写真とは違う魅力、効果、役割が求められていると思うんです。でも、それらが僕にはあんまり見えてこないんですよね。

すごいリアルに描かれた絵ってありますけど、それだったら実際に見た方がいいじゃん。記録として納めておきたいんだったら、写真でいいじゃん。そんな風に思ってしまったんですよね。


いや、でもありませんか?


この絵だったら、現実で見た方がいいな、とか、写真の方がいいだろうな、とか。思うこと。そこには「海に昇る朝日の絵」がありました。それを見たときに、いや、現実の朝日はもっとえもいわれぬ美しさがあるぞと思ってしまいました。
#もう一度いう
#そんなやつは二度と美術館に行くな


もちろん、展示された絵の中には、僕の心を動かした絵があります。根元がぽっきり折れた大木を描いた『ある終焉』という作品です。


※撮影OKだったから撮った


凄みを覚え、その絵から目を離せなくなりました。

でも今よくよく振り返れば、写真だったらもっと凄みを感じるだろうし、実際にその大木を目の前にしたらもっともっともっと凄みを感じるんだろうなあと思いました。


◆現実を越える創作とは?


これは文学にも通じることだと思っていて、現実世界をそのまま切り取った小説は現実に勝てないと思うんですよね。

「現実世界をそのまま切り取った」という表現がしごく曖昧でその輪郭を捕えるのが困難ですが、ただ、一ついえるのは、「現実世界」に勝てるのは、「非現実の作品」か、「自分だけのアングルの作品」だってこと。

「この世にないものを表現しました!」と「僕にはこういう風に世界が見えます!」しか、現実に勝てないと思うんですよね。


絵でいったら、前者は「天地創造」「記憶の固執」「大家族」とか、後者は「ゲルニカ」「星月夜」とか。小説でいったら、前者は「ファンタジー作品」、後者は「純文学」って感じですかね。


ここで「モナリザ」とか「ひまわり」とかはどうなんだ!って反論があると思いますが(というかこの記事を書いている最中ああいう名画の魅力の本質について考えてしまった)、それは明日の記事につらつら書こうかなと思います。



◆創作には個性を

先日、「最強の物語をつくるなら自分の体験を入れた方がいいよね」という話をしました。個人的にめちゃくちゃ大切なことだと思っていて今後もこの考えは変わらないと思います。しかし、「自分の体験」=「リアル」ですから、今回の話とちょっとぶつかっているような気がするかもしれませんが、そんなことありません。


僕がよく追及するのは、「僕にはこういう風に世界が見えます!」の方、つまり「自分だけのアングルの作品」です。ですから、自分の体験を、自分だけのアングルで、自分だけの表現で伝えることに尽力するわけです。


一言でいえば「個性」にこだわっているってこと。


だから僕は何でもない一文に個性を求めることがあるし、まだ見つけたことのない現実の切り取り方を探っています。

誰かが出した答えに用はないし、誰かと同じアングルに用はないから、これからも「個性」を追求した作品を創っていけたらなと思います。

最後まで読んで下さり、ありがとうございました。

【#288】20220414 横山黎







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