春秋時代の易占 南蒯のクーデター
歴史上の有名な占例をご紹介します。
本日も魯の国のお話。
前回ご紹介した話、叔孫豹の家来である牛が殺されてから7年後(BC530年)の出来事となります。
前回、前々回は叔孫氏(叔孫僑如、叔孫豹)という魯の国の貴族の名門が出てきました。
今回は、魯の国の貴族の名門 李孫氏に関するお話です。
もっといいますと、季孫氏の家来である南蒯のクーデターに関するお話となります。
■南蒯のクーデター
(本田濟「易」67頁。岩波文庫「春秋左氏伝(中)」164頁、襄公4年。岩波文庫「春秋左氏伝(下)」141頁、昭公12年。148頁、昭公13年 )
(1)人物関係の整理~叔孫氏、季孫氏、季孫氏とその有力家来 南氏について
まず、人物関係を整理します。
叔孫氏、李孫氏は、当時魯国で政治の実権を握っていた貴族であり、魯の公族でした。
先祖をさかのぼれば、魯の国の第15代君主 桓公(生年不詳~BC694年)にたどり着きます。もう一つ孟孫氏を加えて、三桓氏と呼びます。
三桓氏の「桓」とは、桓公の桓ですね。
桓公の子供に、第16代君主 荘公のほか、慶父、叔牙、季友の兄弟がおりました。
3人の兄弟は、君主の地位を継いだ荘公を重臣として支え、その子孫は魯の国で重きをなすようになりました。
慶父の子孫が孟孫氏、叔牙の子孫が叔孫氏、季友の子孫が季孫氏となりました。
前回、前々回ご紹介した、叔孫僑如、叔孫豹は叔牙の子孫となります。
そして本日ご紹介する占例は、南蒯が自分の主君である季孫氏、これは季友の子孫となりますにクーデターを起こしたときのお話となります。
当時の魯国では、魯の君主は名ばかりの存在となり、政治の実権は、この三桓氏、季孫氏、叔孫氏、孟孫氏が握っていました。
とくに三桓氏の中で、一番力を持っていたのが李孫氏でした。
その季孫氏の家来 南氏は、季孫氏の中でかなりの権力を持つようになっています。
南氏は、季孫氏の支配している「費」という邑の代官でした。
現在の山東省臨沂市費県に位置します。
「費」は、魯国にとり、隣国との戦略的に重要な場所に位置し、城があります。
この城を築くいために、南氏は大きな貢献をしました。
「費」という邑の軍事的戦略的役割が増大するに伴い、李孫氏の魯国での発言力が増大し、さらに、南氏の発言力を増大していきました。
あたかもロシアがワグネルの活躍で勢いをつけたがために、ワグネルの創設者プリコジン氏のロシアでの発言力が増大した、そのときのような感じです。
(2)季孫氏の代替わりと南蒯の怒り
そのような状況において季孫氏に代替わりが起こりました(BC530年)。
新たに家を継いだのが季平子。
季平子はあちらこちらに代替わりの挨拶にいきます。
けれども、家来である南氏の当主 南蒯(なんかい)への挨拶をしませんでした。
南蒯は怒ります。
「礼儀を知らないやつだな。」
「いつくるか」「いつくるか」と南蒯は、待ち続けます。
煮えくり返る心の中でグルグルと独り言の不満を積み重ねていきます。
季平子氏の実力は、わが南氏の支配する費があってのものではないか。
主君であるからと俺への礼を欠くばかりか、主筋である魯国の君主をもないがしろにし、君主への礼も欠いている。
あいつはいらない。
そこで、南蒯は、魯国の公子 憖に話をします。
「憖さま。いかがでしょう。
私は、主筋にあたる季平子を追い出します。
そして、「費」邑を魯国の皇室に返します。
あなたは、追い出された季平子の代わりとして「卿」に付いていただく。
そうすれば、私は「費」邑の代官として、あなたの下で公臣となりますよ」
そもそもこの「費」という土地は魯国の君主のものでした。
しかし、李孫氏の始祖である季友が、戦争での功績をたたえられ褒美として季孫氏の私邑として与えられたのです(岩波文庫「春秋左氏伝(上)」182頁、偉公元年。)
季孫氏、叔孫氏、孟孫氏の三桓氏が政治的に台頭し、季孫氏の私邑「費」が戦略的に重要な土地となった今となれば、魯の皇室としても、本音を言えば返してもらいたい。
南蒯の申し出は渡りに船でした。
魯国の公子 憖は答えます。
「よかろう」
(3)占い
南蒯は、事の正否を易占で占いました。
大それた企てです。
秘密裏に、外に漏れないように。。。
他の人が見てもわからないように、漠然と占います
(「枚筮す」)
出た卦は「坤為地の水地比に之く」でした。
大吉だ!
南蒯はニタリと笑います。
周囲に悟られないように、おそるおそる占ってみたところ、よい結果がでた。
誰かに話したい。
そして背中を押してもらいたい。
そこで、魯の大夫(卿の下の身分で自分の土地を持っている貴族)である子服恵伯に、意図を隠しながら聞いてみます。
「子服恵伯よ。
例えばの話、なのだが。。。。
何か事を起こそうとして、この卦が得たとしたならば、お前ならばどう考える?」
子服恵伯は、しばし熟考ののちに答えます。
「私は、過去に易を学びました。
あくまで易の解釈としてお答えします。
この卦の場合、忠と信を守って行うならばよし。そうでなければ失敗するでしょう。
黄は中正を示す色。
装、つまり「はかま」は下半身の装い。
元は善の極致を意味します。
心が不忠ならば黄にふさわしくない。下位にあるものが慎みを忘れれば美しさは失わる。することが不善ならば、善の極致とはそもそも無縁です。
いまは何よりわが身を修めるべきでしょう。」
子服恵伯は、南蒯の意図を知り、クーデターを止めるように遠回しに説いたのかもしれません。
(4)南蒯の叛乱
けれども、BC530年(※1)、南蒯は、費を根拠地に兵をあげました。
これに対して李平子は、討伐の兵を差し向け、費を包囲します。
しかし、兵は攻めることができないままに敗北します。
李平子は怒ります。
「費の人を見たならばことごとく捕らえて捕虜にせよ!」
家来が諫めます。
「李平子様!そのようなことをすれば、民は季平子様を憎むようになり、却って南蒯の味方を増やすようなものです。
むしろ、費の人を見つけたら、凍えている者には衣服を着せ、飢えている者には食物をやるようにすれば、民は季平子様に従うでしょう」
李平子が、家来の言に従うと、民は南蒯から離反しました。
結局、南蒯は敗北し、斉に亡命をしました。
(5)考察
南蒯の占いには問題点が2つあったと私は思います。
「占いながら易経を学んでいく講座 ① 「どうやって占うの?編」」を受講されていた方はお気づきでしょうか。
1つめ。占的を曖昧にしたまま占ったことです。
占的を具体的に絞らないと、よい結論が出ても、それが何について言っているのかわからなくなることがあります。
結果、自分に都合の良いように解釈し、誤占しがちです。
2つめ。爻辞の「吉」という言葉に引きずられていることです。
易占の解釈は、いろいろな考え方がありますが、私は、卦の解釈が8割、爻の解釈が2割と考えます。
南蒯は、クーデターを起こそうとしている状況で、「坤為地」の卦が出たことの意味を真剣に考えるべきでした。
「坤為地」の卦の意味は、臣下の道。
牝馬のようにおとなしく健やかな生き方を正道として持続する場合にのみ利益がある。
人の先に立とうとすれば迷い、人のあとについてゆくようにすれば、しっかりした主人を得て、上手くいく。正しい道にしたがい安んじていれば吉である。
おとなしく今の主人に従い臣下としての自分を磨けば、クーデターを起こさずとも、別のキッカケで、ちゃんとした主人の下で働くことができたかもしれません。
南蒯は、結局、「費」(※2)の土地を根拠にクーデターを強行し、人民の離反によりクーデターは失敗します。
坤という八卦が、大地という意味や、庶民・人民を意味することを考えると、易の神妙さと皮肉を感じます。
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(冒頭画像引用元)Yeu Ninje, CC 表示-継承 3.0, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=1956670による
※1)南蒯が兵をあげたBC530年は、孔子23才のときでした。その3年前の20才のときに、子供 孔鯉が生まれ、魯の国の下級役人に仕官したといわれています。(諸説あり)。
※2)この「費」という土地は、その後も季孫氏の重要拠点でありつづけ、魯国の君主との間のトラブルの元でした。
魯の皇室は、「費」を返してもらいたいですが、季孫氏には返す意図はなく、重要な家来を「費」の代官に充てるようになります。
そうするとこの代官が、力をうけ、今回の南蒯のように季孫氏へクーデターを起こすことがありました。
論語には、この背景を前提とした言葉が色々あります。
一つご紹介します。
BC501年の出来事。孔子、52才、魯国の中都の長官となったときのことです。
季孫氏の家来である。公山弗擾が、この費城に立て籠り、主家の季孫氏に反旗を翻しました。
この叛乱をおこした公山弗擾が孔子を招いたところ、なんと孔子がこれに応じるそぶりを示したのです。
公山弗擾の行為は、孔子の信じる礼に反します。
けれども、孔子は、費という邑は、季孫氏から魯国の君主に、本来はお返しすべきものと思っていたのかもしれません。
だとしても、謀反人 公山弗擾の謀反に応じるのは処世からしても筋悪の言動です。
弟子の子路が止めに入ります。
「え~いくのですか。なんでいったい公山殿のところにいくのですか?」と(「論語」加地伸行 395頁)
孔子は答えます
「私を召し出そうとするのであれば、単なる呼びかけではあるまい。
もし私を用いてくれるならば、私は東の周を興すのだがね」
君主を卿が、卿を大夫が、大夫を士が軽く扱い、平気で叛く当時の魯の国の風潮は、孔子の目には、ただただ醜く残念な現実だったのでしょう。
公山弗擾の言動、これも「はぁ~」と呆れてしまうくらい問題外の言動だったでしょう。
であるからこそ、やけくそ紛れに弟子の子路に冗談めかした諧謔をするほかなかったのかもしれません。