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春秋時代の易の小話 君主が気を付けるべきこと
いままで、主に本田濟先生の「易」に紹介している占例を紹介しました。
ネタ元である「春秋左氏伝」(岩波文庫)には、他にも勉強になる著名な占例がありますが、
本日は、本田濟先生の「易」に紹介されている小話を紹介します。
【易の小話】
易経の火地晋 象伝の辞に関する小話です。
火地晋
象伝「君子以て自ら明德を昭らかにす。」
君子は、自分が本来持っている明らかな徳をいよいよ明らかにする。
そうすると、ひとりでにその徳は外に現れて、天下の人の仰がれる、
という意味です。
これに関連して、春秋左氏伝の下記のコトバが紹介されています。
桓公2年
人に君たるものは将に徳を昭かにし違を塞ぎもって百官に臨昭せんとす
「君主たるものは、徳を重んじて、その本来持っている徳をいよいよ明らかにし、邪悪を断ち、多くの役人に臨む際には慎重に配慮するものである」
BC710年、魯の国の第15代君主 桓公に対して、賢臣として知られる公族の臧孫達が諫めたコトバです。
桓公は、前回「春秋時代の易占 南蒯のクーデター 」でご紹介した、三桓氏の始祖である慶父(孟孫氏)、叔牙(叔孫氏)、季友(季孫氏)の父親となります。
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■君主が気を付けるべきこと
(本田濟「易」303頁。岩波文庫「春秋左氏伝(上)」33頁。隠公3年。64-67頁。桓公1年、2年 )
BC710年夏、宋の国の大宰(国政を統括する重臣)である華父督から、魯国の桓公に、贈答品が送られてきました。
魯国と宋との間に位置する郜という場所で製造された大きな鼎でし
た。
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いわば賄賂です。
この鼎は魯の桓公だけでなく、斉、陳、鄭の国へも渡されたものでした。
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大きくて非常に立派な鼎です。
桓公は、大いに喜び、この大鼎を、祖先を祭る大きな宮殿(大廟)に奉納しました。
「これは礼に合っていない」
と、臣下である臧孫達は嘆きます。
礼とは、古代中国において、国家,社会、個人の行為に関する秩序,規範を総称して言います。
儒教では五徳(仁義礼智信)の一つです。
仁(人への思いやり)が、態度や行為として外面にあらわれたものを礼といいます。
古代中国での賄賂は、現在ほどは問題視されませんが、今回、贈答の背景が、あまりに醜悪でした。
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ことのはじまりは宋の重臣 華父督が、
宋の重臣 孔父嘉 (※1)の妻に横恋慕したことから始まります。
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とある日、華父督が路を歩いていると、正面から婦人が歩いてきました。
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お供の者を連れ、その婦人は、楚々と通り過ぎます。
そのあまりの美しさに、華父督はハッと立ち止まります。
婦人が通り過ぎても、後姿をじぃっと見送りました。
「美しい。しかも色っぽい」
家来に調べさせると、その婦人は、宋の重臣の孔父嘉の妻であることがわかりました。
「なんであんな奴に」
嫉妬心がムラムラと沸き上がります。
そのうちに華父督は、陰で、孔父嘉の悪口を言うようになりました。
孔父嘉の役職は大司馬(軍事を取り仕切る)でした。
当時の宋の君主は殤公。
殤公は即位(紀元前720年)以来、10年間に11回も戦争を起こしていました。その結果、国民に大きな負担がかかり耐えきれなくなっているという報告を華父督は部下から受けていました。
彼は大宰(国政を統括する重臣)だったため、このような情報が入ってきます。
「国民の苦しみは孔父嘉のせいだ」
と、華父督は、言いふらすようになりました。
戦争は、君主 殤公の意向であるとしても、孔父嘉は軍事責任者であり、殤公の後見を先帝から依頼されていましたので、責任はあります。
紀元前710年春。
ついに華父督は、孔父嘉の屋敷を攻撃し、孔父嘉を殺し、その妻を奪います。
これを聞いた君主 殤公は激怒します。
しかし、華父督は、すぐに手を打ち、君主 殤公まで殺してしまいます。
さらに彼は次の手も打ちます。
君主 殤公には従兄弟 馮がおりました。
馮は先帝の子供でしたが、君主 殤公が即位したときに、他国である鄭に宋から移されました。
この馮を、華父督は宋の新たな君主として迎えます。
君主を殺害するというのは、当時も、問題ある行為ですが、鄭国としては、自分がお世話していた馮が君主となるのは、気心がわかるため都合がいいです。
華父督は、鄭国に贈答品を送り、友好関係を結ぶことで、馮の即位を認めさせます。
さらに、近隣諸国である、斉や陳にも素早く贈答品を送ります。
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そして馮は即位し荘公を名乗ることとなりました。
その結果、華父督が、主君を殺害したことはなんとなくウヤムヤになりました。
このような中で、華父督から、魯国の桓公に、贈られたのが大きな鼎だったのです。
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魯の桓公に対して、臣下 臧孫達は諫めます。
桓公2年
人に君たるものは将に徳を昭かにし違を塞ぎもって百官に臨昭せんとす
「君主たるものは、徳を重んじて、その本来持っている徳をいよいよ明らかにし、邪悪を断ち、多くの役人(百官)に臨む際には慎重に配慮するものです」
さらに続けます。
「徳を子孫に伝えるため、先祖を祭る廟は質素にし「倹約」の大切さを示しします。
また、冠や上衣などで臣下の区別を図り「上下の秩序」を示し、君主の刀の鞘飾りや、馬の胸飾りなどで「身分の高い者と低い者の差」を示すのです。
このように徳の基準を設けて、外に示して、役人の前に出ることで、役人たちも畏れ慎み、度を越えた行動を取らなくなるのです。」
「しかるに、いまや、君主を弑逆した華父督を認めるような態度を取り、その上、彼から送られた大きな立派な鼎を、祖先を祭る宗廟に置いて、役人に示されている。
役人たちが、華父督の真似をして君主を弑逆するのを、責めることができなくなりませんか。
国家が腐敗するのは役人の邪悪が原因です。役人が徳を失うのは、贈与が露骨に行われ徳が軽視されることを見るからです。
華父督のような違乱者の贈答品を宗廟に祀るのはいかがなものでしょうか」
しかし、桓公は
「まあ、いいじゃないか。他国も認めていることだし」として、臧孫達の戒めを聴き入れませんでした。
「あいつは頭が固いんだよな」と側近には愚痴っていたかもしれません。
この噂が周の国の首都近辺のある長官(内史)の耳に入りました。
「臧孫達は、きっと子孫が魯で続くだろう。君主が礼から違反すると、徳によって諫めることを忘れないから」
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流行は時代により変わりますが、心ある人が眉をひそめる行動は今も昔も同じです。
皆がやっている。
昔は許された。
ルールで明確に禁止されていない。
気のゆるみや思い上がりが後で取り返しのつかないこととなってしまうことは、古代の中国も現代の日本も変わりないのかもしれません。
君主や現代の立場の高い人は、周囲に常に注目されています。
あたかも地上にあがりつつある太陽が、今後いつでも地球上の人々に見られ続けているようなものです。
だから、ごまかしは効かない。
自分自身の徳を高め続け、無理のない行動をし、自分の内にある徳を外に発揚する。
「偉い」ということ、「人に影響力がある」ということ。
これは、常に人の模範とならなければならない。
その真理は、古今変わらないものなのかもしれません。
(冒頭画像引用元)Yeu Ninje, CC 表示-継承 3.0, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=1956670による
※1)言い伝えによると、孔父嘉は孔子の六代前の先祖と言われています。
中国の百度百科事典「孔父嘉」によると下記の系図が出てきました。
孔父嘉―木金父―祁父―孔防叔―伯夏―叔梁纥―孔子
インターネットは便利ですね、翻訳もしてくれますし。
さて、論語には孔子の父母について詳しく語った記述はありません。史記の孔子世家に次の記述があります。
孔子は、魯の昌平郷の陬邑に生まる。その先は宋人なり。孔防叔と曰う。防叔、伯夏を生む。伯夏、叔梁紇を生む。紇、顔氏の女と野合して、孔子を生む。
3代前の孔防叔からの系図が記載されています。
孔父嘉―木金父―祁父―孔防叔 までは宋の国に住んでいたことが分かります。