『暇と退屈の倫理学』を読んで
哲学者の國分功一郎氏が著し、その人気ぶりから最近文庫化された作品。
暇と退屈は必ずしもイコールではなく、暇だけど退屈しない人、忙しいけど退屈な人がいるのだという。
いったいどういうわけか?
気になって読み進めていくと、文章構成からして独特だ。
初めから倫理学(何が善いか悪いかの価値判断を与える)の視点で主張するのではなく、歴史→人類学→経済史→社会学→哲学などと、一見繋がりの見えないような視点から「暇と退屈」について考察を展開している。
國分氏がさまざまな視点で外堀を埋めた上で主張することを要約すると
①人間は退屈に耐えられない
②人間は常に退屈をさけようと気晴らしを試みる
ということのようだ。
例えば、人間=考える葦で有名なパスカルは、「人の不幸は部屋でじっとしていられないがために起こる」と記し、
哲学の大家ハイデガーは、退屈とは(1)何かによって退屈させられる(2)何かに際し退屈する(3)なんとなく退屈である の3つに集約でき、(1)(2)の状態になったときは気晴らしで退屈を解消し、なるべく(3)の状態になることを避ける、と唱えたという。
個人的に印象的だったのは、
なんとなく退屈だと思うことを避けたいがために何かに夢中になったり、仕事に打ち込んだりする様子は、退屈から逃れるために何かの奴隷になることである、と國分氏が強く主張していることだ。
これは少しエッジの効いた論調ではあるが、
確かにと頷ける部分もある。
つまり、本当にやりたいことか、自分にとって必要なことかを考える前に、何かに没頭することで安心感を得る側面があるんじゃないかということだ。
資格をどんどん取るとか、仕事にひたすら打ち込むとか、とりあえず画期的なダイエット法を試してみるとか。。。
退屈と共存するために日々何を考えて生きるのが善いのか、答えはきっと自分で見つけなきゃいけない(それが國分氏の意図した流れだろう)が、焦らず探していきたいと思った。