「会社の愛し方が分からない」トンネルの先に見えた光【第二話】
歯ブラシなど口腔(こうくう)ケア製品を中心に、ユニークな商品を世に送り出す東京都品川区の「ファイン」。父が亡くなり、社長となった母とともに会社を経営することになった清水直子さんでしたが、不安と焦りが先に立ち、やることなすこと、うまくいきません。「会社の愛し方が分からない」。そんな泥沼から、はい出すまでの物語です。
「ちゃんとしないと会社は3年で潰れるぞ」。1995年、父益男さんの葬儀で、参列者にかけられた言葉が胸に突き刺さった。親切心だったのだろうが、葬儀に政界関係者を一人も呼ばなかったことを注意されたのだ。
そのことと会社の将来と「何の関係があるの」とも思ったが、当時27歳の直子さんには重く響いた。
会社が潰れる? しかも、たったの3年で? 大黒柱を失い、女所帯になる不安が一層のしかかった。
ファインの社長職は、経理を取り仕切っていた母和恵さんが引き継いだ。益男さんは生前、「自分は成り行きで歯ブラシをやることになったが、それにこだわる必要はない」と言い残していた。
歯ブラシの製造販売は薄利多売で、決してもうかる事業ではない。後に残る妻と娘の選択肢を広げるために、商売替えをしてもいいと告げていた。
それでも、和恵さんが選んだのは、歯ブラシだった。みんなが使う消耗品だから、手堅い事業なのは間違いない。下請けではなく、開発に本腰を入れて自社製品を増やしていけば、会社を成り立たせていけるというのが結論だった。
ハンドル(持ち手)の部分を輪の形にして喉突きを防ぐベビー用のリング型歯ブラシ、チタンなのに特殊な加工を施すことでくねくねと曲がるようにした介助用スプーン……。不安を吹き飛ばすように、和恵さんは次々とアイデア商品を生み出していった。
焦りと不安の日々「一生懸命やっているのに…」
しかし、取締役となった直子さんの心は晴れなかった。よかれと思ってした新製品や職場改善の提案がことごとく社内で却下されたからだ。「工場で出るロスはゴミだから、毎日、ゴミ掃除をすれば良い」という当たり前の提案さえ通らなかった。
提案の中身というよりも、言い方に問題があったのかもしれない。しかし、「こんなに一生懸命やっているのに、私は評価されていない」と思い詰めた。
さらに、父の葬儀でかけられた「ちゃんとしないと会社は3年で潰れる」という言葉が耳に残っていた。社員から何か相談を受けても「そんなことも分からないの?」ときつくあたった。それもこれも「夢」ではなく、焦りや不安に突き動かされていたからだった。
誰かに向けた剣は自分も傷つける。いつしか会社の中に居場所がないと感じるようになり、週に何度も一人、涙を流した。
異変は体調にも表れた。心が波立つ出来事があると、みるみるうちに唇の周りが真っ赤に腫れるようになった。リップクリームやマスクを手放せなくなり、商談のあるときはファンデーションで腫れを隠し、訪問先でせっかく出された飲み物もマスクを外さなくてはならず、憂鬱に感じた。
電車に乗っても、コンビニに行っても、みんなが自分の顔を哀れんで見ているような気がした。バイク仲間と連れ立ち、米国横断のツーリングに出かけたり、富士登山に挑戦したりしたのは、気分転換をすれば、この苦しさから逃れられると思ったからだ。しかし、腫れは治まらなかった。
苦しみを救った「社員の言葉」
転機になったのは、2004年3月。37歳の時のインド旅行だった。知人から「唇の腫れにはデトックスが良い」と聞き、連想ゲームのようにインドに行き、アーユルベーダのマッサージを受けようと思い立った。
「私、ここに行かなきゃ」。母に長期休暇の了解をもらい、何かに取りつかれたようにインドに向かった。暑くて不衛生な屋台の食べ物で、何度も発熱しておなかを壊したが、2週間の滞在中、唇の腫れは一度も出なかった。
会社から離れ、晴れ晴れとした気持ちになっている自分がいた。原因は、自分の仕事の仕方にあった。そのことに向き合えるようになった。
2006年、もう一つ、事件があった。海外で行われたバイクレースの事故で、仲間が亡くなったのだ。チームメートの一人として同行していた直子さんは、現地で手術と治療に立ち会い、そして仲間の最期をみとった。「人生はいつ終わるか分からない」。大きな衝撃だった。
約3週間ぶりに会社に出勤すると、社員たちが温かい言葉で直子さんを出迎えた。「本当に大変でしたね」「会社に来られるようになって良かったです」。それまでつらく当たったこともあった自分に、自らの都合で会社を長くあけた自分に、嫌み一つ言うこともなく、優しい声をかけてくれた。
「みんな、どうしてこんなに優しいんだろう。自分は甘えていた。みんなに恩返しをしたい。みんなの役に立つ働き方をしたい」。6年間続いたトンネルから抜け出た瞬間だった。
「副社長の仕事は笑うこと」見つけた自分のスタイル
同じ06年、直子さんのもどかしい気持ちを察した和恵さんの計らいで、直子さんは副社長に昇進した。最初は迷ったが、周囲から「器が人を育てる」と背中を押された。
自分が会社を継ぐのかどうか、気持ちが固まらない時間が長かったが、副社長になるということは、社長になる助走を始めることになる。インドでの経験と仲間の死を経て、直子さんにもう迷いはなかった。
まず副社長の仕事は「笑うこと」だとアドバイスをしてくれた人がいた。経営と財務の勉強にも取り組んだ。母と二人三脚で走ってきたつもりだったが、「知識がないがために会社を潰してはいけない」と本格的に学ぶことにしたのだ。
社内では、和恵さんが70歳になるのを機に「社長の花道プロジェクト」を実行しようと、本人には内緒にして、社員と相談を始めた。
社長就任以来、持ち前のアイデアと粘り強さで商品開発を進め、会社を引っ張ってきた和恵さんが安心して会社を引き継げるような状況をつくるのが目的だった。和恵さんが社長になった当時は、益男さんが闘病中で、祝える状況ではなかったから、せめて花道をつくってあげたいという考えもあった。
具体的に何をするか。今までの和恵さんの言動を思い返して考えた。和恵さんに安心してもらうには、単に売り上げを伸ばすのではなく、みんなで協力して商品開発ができるようなチームワークを確立することが大事だという結論になった。
その一環として、社内会議のやり方を変えることにした。直子さんが司会と議事録を担当する。しっかり議事録を取ろうとすると、社員らの報告や意見を聞き流すことなく、「えっと、それってどういうこと?」「もう1回言ってくれる?」と、確認しながら議題を進めることになる。
それによって、発言の機会が増えた社員たちが、自分の考えや思いを言葉にして伝えるようになり、直子さんも会社の隅々まで知ることができるようになった。直子さんが時には笑いを取りながら、「なるほど」「なるほど」とうなずきながら会議が進むので、自分の中でひそかに「なるほど会議」という名前を付けた。自らの商品開発力でぐいぐい引っ張る母とは異なり、社員を巻き込んでいく直子さんならではのリーダーシップが形になってきた。
2010年、社内をまとめ上げる求心力を備えた直子さんは社長職を引き継いだ。「自分のミッションは次にバトンタッチすること」と考えてきた和恵さんは、直子さんにこんな言葉を贈った。
「後継者はなろうと思ってもなれないし、なるつもりがないのになってしまう不思議なポジション」。それが母と娘、2人の後継者が歩んできた道だった。
(初出:毎日新聞「経済プレミア」 2021年8月3日)
<第三話に続く>
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