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後継者不在の葛藤。「自分があこがれた経営者」に第三者事業承継するまで

石川県白山市の豆腐店「山下ミツ商店」山下浩希さんは2021年10月、30年以上にわたって経営してきた会社を、茨城県取手市を本拠地とする同業の「染野屋」に売却しました。人生をかけて育ててきた会社を手放す。大きな葛藤がありましたが、後継者がいないこともあって決心しました。後継者難による第三者事業承継や廃業は、多くの中小企業が直面する課題でもあります。山下さんのドラマを通じて考えます。

石川県白山市の「山下ミツ商店」の山下浩希さん=本人提供
石川県白山市の「山下ミツ商店」の山下浩希さん=本人提供

家族経営の豆腐店「商いって面白い」

山下ミツ商店は、日本三霊山に数えられる白山のふもと、旧白峰村の地域にある豆腐店だ。もともとは豆腐の製造販売だけでなく、お酒やお菓子、日用品まで生鮮食品以外は何でも売る「家族経営の何でも屋」だった。

祖母のミツさん、母の孝尾さんがお店を切り盛りする山下家の長男だったが、幼い頃は継ぐとも継がないとも、あまり意識していなかった。

幼い頃の山下浩希さん(右)と祖母ミツさん=山下ミツ商店提供
幼い頃の山下浩希さん(右)と祖母ミツさん=山下ミツ商店提供

「オレのことはあてにしないでくれ」。大阪の大学に進学後、将来は金沢あたりに出て働こうと思い、家業は継がないと決めた。卒業後の1984年に就職したのは石川県内の地場スーパー。野菜や果物など生鮮食品コーナーの担当になった。

生鮮食品は売り場づくりが命だ。あらかじめ「今日はこれを買おう」と決めて来店する洗剤やトイレットペーパーといった日用品とは異なり、お店に来てから何を買うか決める生鮮食品は、思わず手が伸びるような品ぞろえや陳列ができるかどうかが売り上げを左右する。

入社して1年目。競合店の売り場を研究したり、業界紙も定期購読したりして勉強したが、思うように売り上げが伸びない。

「なんだか面白くないなあ」。壁にぶつかっていた時に、業界紙で「てんびんの詩(うた)」という映画の広告を見つけた。「商いの原点」を学ぶための映画だという。ぜひとも見たいと思ったが、ビデオを買うと何万円もするから、その時はあきらめた。

その日の日付は今もはっきり覚えている。1985年2月12日、たまたま立ち寄ったラーメン屋で「てんびんの詩」の上映会開催を知らせる貼り紙を見つけた。なんと上映会は2日後で、この映画を作った竹本幸之祐さんの講演も聞けるという。店長に掛け合って早退させてもらい、上映会にかけつけた。

転機をくれた映画「てんびんの詩」

映画は昭和初期、近江の大きな商家に生まれた少年が、小学校の卒業祝いに鍋のふたを渡されるところから始まる。父親から「この鍋ぶたを売って来られなければ、後継ぎにはしない」と言われ、少年は誰彼構わず声をかけて売ろうとするが、どの家にも既にあり、簡単に壊れるものでもない鍋ぶたが簡単に売れるはずがない。

「てんびんの詩」のワンシーン=オフィスTENBIN提供
「てんびんの詩」のワンシーン=オフィスTENBIN提供

小学校を卒業したばかりだから、あいさつの仕方さえ分からず、商品への愛着もないから横柄な態度になって、ますます売れない。お客さんたちも「これは両親が少年に課した修行だ」と気づいてわざと突き放す。そうした経験を通して少年が「商いの神髄」を学んでいくという内容だった。

「商売って面白いなあ」。登場人物のセリフの一つ一つに、商売をする上で大切な心構えが詰まっていると感じた。講演会の後、竹本さんの著書を買って「山下君へ、商いの原点を」とサインしてもらい、興奮のあまり会場を出ると思わず走り出した。

自分の売り場の売り上げが伸びないのは、競合店の出方や前年比の増減ばかり気にしていて、お客さんの方を向いていなかったからではないか。お客さんが望んでいる品ぞろえをすれば、喜んで買ってくれるはずだ。「自分は一番大事なことを忘れていた」と気づかされた。

映画には、もう一つのメッセージが込められていた。後継ぎを育てようとする家族と、それに応えようとする子の姿だ。「実家の店を継ごう」。一気に決心した。

「どこででも通用する豆腐店になる」

実家の山下ミツ商店に入ったのは、1985年10月。本当はもうしばらくスーパーで商売の勉強をするつもりだったが、80歳を超えていた祖母ミツさんが「もう年だから店をやめる」と言い出し、「だったらオレが継ぐよ」と家業を引き受けた。24歳だった。

豆腐づくりの知識はゼロ。ミツさんと母孝尾さんと一緒に豆腐を作り、少しずつコツをつかんでいった。その頃、山下ミツ商店が作っていたのは、この地域で古くから食べられていた「堅(かた)とうふ」。重しを乗せ、しっかり固めるのが特徴だ。

山下ミツ商店の「堅(かた)とうふ」=同社提供
山下ミツ商店の「堅(かた)とうふ」=同社提供

販売は好調だった。地元の古くからのお客さんはもちろん、「堅とうふ」の物珍しさにひかれて買い求める観光客が多かった。「親子3代」という話題性も販売を後押ししてくれた。

一方で、今のままでは長続きしないと感じていた。「堅とうふだけでは、自分が60歳になるまでは続かない。どこででも通用する豆腐屋になりたい」。絹豆腐やおぼろ豆腐によせ豆腐……。いろいろな豆腐を作れるようになって、金沢にも進出できる豆腐屋になりたい。「変わらなきゃいけない」。その思いが若い山下さんを突き動かした。

移動販売を始めた頃の山下ミツ商店の山下浩希さん=本人提供
移動販売を始めた頃の山下ミツ商店の山下浩希さん=本人提供

「国産大豆の旗は降ろさない」

そう感じていた矢先、人気マンガ「美味しんぼ」での豆腐の描かれ方に衝撃を受けた。

マンガの中で主人公は、スーパーの豆腐を「論外」と切り捨てた上で、国産大豆を使い、水にもこだわった豆腐の食べ比べをしていた。「これだ」。国産大豆を炊き上げ、天然にがりで固める豆腐を作ろう

しかし、問題があった。当時、天然にがりを使う製法は極めて珍しく、どうやって作るのか、皆目見当が付かなかった。この頃はまだ塩が専売制で、天然塩の副産物である天然にがりを入手するのも簡単ではなかった

このままあきらめてしまってもおかしくなかったが、「家族経営の何でも屋」だった山下ミツ商店がお酒も売っていたことが、思いがけない突破口につながった

川崎市に、無農薬で栽培した酒米でつくる「自然酒」で繁盛している商店があるという。自分でも自然酒を取り扱いたいと、新聞記事を頼りに「片山本店」を訪ねると、すぐに仲間に入れてもらえることになった。

仲間うちでやり取りされている商品リストの中に「天然塩」を見つけた。「天然塩があるということは、天然にがりもあるということですよね」。恐る恐る尋ねた。ある団体の会員になれば入手はできるという。

思い切って「実は、私は豆腐も作っていて、天然にがりの豆腐を作りたいが、作り方が全然分からない」と相談すると、三之助豆腐で知られる「もぎ豆腐店」(埼玉県本庄市)を紹介してもらうことができた。

家業を継ぎ、約10年がたった頃の山下浩希さん=1995年ごろ(本人提供)
家業を継ぎ、約10年がたった頃の山下浩希さん=1995年ごろ(本人提供)

もぎ豆腐店を訪ねると、幸運なことに、手ほどきを受けられることになった。天然にがりを使った豆腐作りは繊細だ。大豆の品質、豆乳の炊き上げ方、濃度や温度、それに見合ったにがりの量、攪拌(かくはん)の仕方……。これらがぴたりとはまれば、驚くほどおいしい豆腐ができるが、ひとつでもかみ合わなければ、全く味が変わってしまう。

それまでは家族で引き継いできた「堅とうふ」しか作れなかった自分が、業界の最先端と言える豆腐作りの技法を手にできた。急に視界が開けたような気がした

販売急増「オレはずっと伸びていく」

国産大豆と天然にがりの豆腐をどんどん作ろう。クール宅配便など物流網の進化もあって、白山のふもとに本店を構えていても、金沢はもちろん、全国どこにでも、自分たちの豆腐を売れるようになる。

その確信はずばり当たった。金沢市のスーパーやデパート、福井県の地場スーパー、関西や中京で展開する飲食店……。山下ミツ商店の評判を聞きつけ、取引先がどんどん広がっていった。

金沢市のデパート地下に出店していた山下ミツ商店の店舗=同社提供
金沢市のデパート地下に出店していた山下ミツ商店の店舗=同社提供

「こんな追い風は二度と吹かない」と感じ、がむしゃらに働いた。夕食を食べると、居間でそのまま眠り、早朝から豆腐を作る。家業に飛び込んだ1985年に2000万円ほどだった年商は5倍以上に膨れ上がり、1997年に法人化を果たした

新卒社員の採用も始め、2001年には自社工場を建設。20人以上の従業員を抱えるようになった。「オレはずっと伸び続けていくんだ」。そんな気持ちになった。

しかし、急成長のひずみも見え始めた。毎日、休みなく働く自分に、社員たちがついてこられなくなった。午前3時に始業し、工場での製造出荷作業が終わるのは午後6時。そこから社内会議が始まることも珍しくなかった。社員自身は耐えていても、その家族が許してくれなかった。

地元のイベントで、豆乳おからドーナツ「ミツド」を揚げる山下浩希さん=2005年ごろ(本人提供)
地元のイベントで、豆乳おからドーナツ「ミツド」を揚げる山下浩希さん=2005年ごろ(本人提供)

「今は会社を伸ばすしかない」と思い込んでいた。しかし、社員が一人、また一人と辞めていき、「将来の会社の柱」と期待していた新卒採用の男性社員3人が、わずか3カ月の間に次々と辞めたこともあった。「自分のやり方が間違っていた」と考えを改めたものの、もう一つの逆風が迫っていた。

経営理念「ミツの心」は譲れない

2010年ごろから数年間続いた国産大豆の不作だ。価格が2倍近くに跳ね上がり、採算が取れなくなった。国産大豆を使う豆腐店の中でも、輸入大豆に切り替える事業者が増えていった。国産大豆の旗を降ろすか、値上げに踏み切るかの判断を迫られた

山下ミツ商店は、祖母の名をとった「ミツの心」と名付けた経営理念で「国産大豆を使う」とうたっている。社内で会議をすると、社員は口々に「国産大豆は譲ってはいけない理念だ」と訴えた。

経営理念「ミツの心」は祖母ミツさんの名前から名付けられた=山下ミツ商店
経営理念「ミツの心」は祖母ミツさんの名前から名付けられた=山下ミツ商店

「やろう。大豆の値段が上がったのだから、商品も値上げして、それだけの価値のある商品を作っていこう」。そう思い切って、内容量を半分にする実質2倍の値上げに踏み切った。覚悟はしていたものの、売上高は予想をはるかに超える4割減と大きく落ち込んだ

金沢のデパ地下店舗の不振も追い打ちをかけた。デパートの改装に伴い、山下ミツ商店の場所を少しずらすことになった。新装開店のその日、午前10時の営業開始から数時間で「まずい」と直感した。それまで月300万円を売り上げていたが、改装によって来店客の流れが変わり、初日から売り上げが5割近くも減った。全体の販売が低迷する中では、撤退を決断するほかなかった

移動販売に挑戦…「いける」

業績が下向く中で思い立ったのが、トラックで豆腐を売り歩く移動販売だった。その数年前、東京で開催された豆腐業界の展示会で、移動販売トラックを見かけて「これは面白そうだ」と感じていた。

かつて豆腐はラッパを吹いて売り歩くのが普通だったし、自分に家業を継ぐと決心させてくれた映画「てんびんの詩(うた)」も行商の物語だったから、自然と引きつけられたのだ。

まずは自分で試してみよう。午前8時に本店を出発し、車で30分ほどの福井県大野市に。「おはようございます」。目に入った民家を片っ端から訪ねた。「今日から移動販売を始めました。トラックのお豆腐を見ていただけませんか」

最初からうまくいくはずがない。「お豆腐ならお嫁さんが毎日買ってくるから」「家の者がおらんから」と断られ、気持ちが沈みかけたが、5軒目で初めて買ってもらうことができた。

ある家でお客さんに商品の説明をしていると、通りかかった別の女性から「うちにも寄って」と声をかけられた。玄関先で断られても断られても、デパ地下では味わえなかった「売る喜び」を感じられた。しかも半日だけで売り上げは約3万円にもなった。「これはいける」。手応えを感じた

山下ミツ商店の移動販売トラック=同社提供
山下ミツ商店の移動販売トラック=同社提供

移動販売を始めて2年後、100台ものトラックを抱え、急速に業容を拡大している豆腐店の経営者がいることを知った。のちに、山下ミツ商店が自ら買収を依頼する「染野屋」の小野篤人社長だった。

迷いの末にたどり着いた「自分で決めるM&A」

山下さんは、売り上げが下り坂になる中で始めた移動販売に手応えを感じていた。なぜなら、そこに「商売の原点」を感じたからだ。「こんな商品を作りたい」という自分の思いが、お客さんに支持されれば売り上げに反映され、そうでなければ商品を見直すか、自らの商品を支持してくれるお客さんを探しに行く。

山下ミツ商店の山下浩希さん=本人提供
山下ミツ商店の山下浩希さん=本人提供

スーパーなど特定の企業に売り上げを依存していては、自分の意にそぐわない商品を作らざるを得なくなることもあるだろうが、移動販売の相手は一人一人の消費者可能性は無限に広がっているとも言える。

山下ミツ商店に入る前は、食品スーパーで働いていたから、商品を大量に陳列して来店客が手に取っていくセルフサービス方式も好きだ。しかし、自分たちが作っているのは、価格は高いが価値も高い商品であり、お客さんに自ら説明して売り歩く移動販売が適していると確信した。

移動販売車で地域を回り、笑顔で商品を手渡す山下ミツ商店のスタッフ=同社提供
移動販売車で地域を回り、笑顔で商品を手渡す山下ミツ商店のスタッフ=同社提供

しかし、もう一つの現実が目の前に迫っていた。50歳を過ぎたある日、地元の経営者仲間として親しくしていた6歳年上の食品メーカーの社長が「周囲に迷惑をかけないような会社の閉め方を考えている」と話すのを聞いて、驚いた。

その会社の業績は悪いわけではなかったが、確かに後継ぎがいなかった。後継者がいないのは、自分も同じだ。遅かれ早かれ、自分も同じような決断をしないといけないのではないかと思い始めた。

55歳になって、さらにショックな出来事があった。長年の友人である同世代の蜂蜜メーカーの社長から「実は会社を売ることにした」と打ち明けられた。業績は好調で、社員たちのきびきびした動きを見て、「とても良い会社だ。うらやましい」と感じていた。その会社が、大手企業によるM&A(合併・買収)に応じて、身売りをすることになるなんて。

「20年後、30年後のことを考えると、このままうまくいくとは思えない。大手の傘下に入った方が会社を発展させられる」と説明されたが、M&Aや身売りという言葉への拒否感が先に立って、「そうなのか」という言葉しか出てこなかった。

「買収先を探そう」…消えない迷い

実は、自分も後継者がいないことがずっと悩みの種だった。社内での後継者育成は思うように進まず、子どももいないから、心の中で「おいっ子が継いでくれないだろうか」と思った時期もあった。

しかし、口には出せなかった。移動販売に手応えを感じてはいたものの、ノウハウをつかみきれず、トラックを2台から増やせないでいた。将来もやっていける展望が開けない中では、おいっ子に人生をかけさせるわけにはいかなかったからだ。

蜂蜜メーカーの社長から打ち明け話を聞いて、しばらくは納得できない気持ちで、もんもんと過ごしたが、1年がたつ頃には気持ちが固まった。

毎月の決算をまとめ、経営の相談にも乗ってくれるなど、会社の一番の理解者である顧問の会計士に「どうしても後継者を作れなかった。いろいろ悩んだけど、M&Aこそが山下ミツ商店を残す道だと思う」と告げると、M&Aを手掛ける関連会社を紹介された。数日後には担当者が会社にやってきた。

買収してくれる企業を探すための資料作りが始まった。山下ミツ商店の財務状況、会社としての強みと弱み……。顧問の会計士が関係する会社だったから、資料は瞬く間に出来上がった。

「それでは正式に候補企業を探し始めます。それにあたっては、まず契約書にサインをしてください」。口では「分かりました」と答えたが、どうしても契約書に自分の名前を書く気になれなかった。担当者は何度も足を運んでくれたが、そのたびに「今度サインしておくから」と言ってごまかした。

石川県白山市にある山下ミツ商店=同社提供
石川県白山市にある山下ミツ商店=同社提供

山下ミツ商店を存続させるには、M&Aしかないと頭の中では分かっていた。でも「自分にはやり残したことがあるのではないか。まだできることがあるんじゃないか。ある日突然『会社を継ぎたい』という人が現れるんじゃないか」という思いが消えていなかった。

契約書にサインをしてしまえば、その瞬間に、親子3代で支えてきた会社を手放すことになる気がした。24歳で継いで、30年以上も自分の人生とともにあった会社への思いが、サインしようとする手をふるわせた

「意中の会社」に買収を依頼

昨夏、60歳の節目が1年後に近づいていた。偶然開いた本の「座して死を待つ」という言葉が目に入った。「これ、今の自分じゃないか」。言葉の意味は分かっていたが、あえて辞書を引いた。手をこまねいているだけで、何もせずに滅んでいくこと。サインする決心がついた。

担当者を呼んで契約書にサインすると、「社長、相手先はすぐ見つかるわけではなく、2~3年はかかります。それまでは普通にしていてください」と言われて、少し拍子抜けした。

「実は買収をお願いしたい会社がある。まず自分で動いてみるから、ちょっと待っていてほしい」。頭にあったのは、移動販売で成功を収め、たまに相談にも乗ってもらっていた「染野屋」の小野篤人社長のことだった。

M&Aを意識し始めてから約2年。どんな相手に買収してもらうのが一番良いのか考え続けてきた。食品スーパーの傘下に入れば売り上げは安定するだろう。しかし、単価の高い国産大豆の旗を降ろさざるを得なくなるかもしれない。最悪の場合、「工場以外はいらない」と言われて、国産大豆の旗どころか、従業員さえ放り出されてしまうことだってあり得る。

自分ではできなかった移動販売を成功させて、今まで山下ミツ商店がやってきたことをさらに発展させてくれるのは、染野屋の小野さんしかいない。曲折はあったが、実はずっとそう考えていた

染野屋の小野篤人社長=茨城県取手市で、小川昌宏撮影
染野屋の小野篤人社長=茨城県取手市で、小川昌宏撮影

2020年11月14日、意を決して、山下ミツ商店の譲渡を依頼するメールを小野さんに送った。

自分が家業を継いだ経緯、「どこにでも通用する豆腐屋になりたい」という思いと国産大豆へのこだわり。そして近年は移動販売にシフトしていること。

続けて「年々、気力体力が衰えるのが分かります。私の至らなさから後継者を作ることができませんでした。このまま数年後には廃業という形で消えてしまうのか。ここ数年このような思いが頭をよぎり、いや何とか頑張ろうと拳を握ったり、やはり駄目かも……と気持ちが揺れる毎日です」と書いた。

突然の申し入れに小野さんは驚いたようだったが、1週間後には染野屋の東京オフィスで面会し、別れ際に「真剣に検討します」と言ってもらえた。新型コロナウイルス禍の影響で時間がかかったが、小野さんら染野屋幹部が2021年5月、白山市を訪れ、工場や移動販売トラックなどの状況を確認。ここからはトントン拍子に交渉が進み、山下ミツ商店の全株式を染野屋が取得し、傘下入りすることが決まった

山下ミツ商店の山下浩希さん(左)と染野屋の小野篤人さん=山下さん提供
山下ミツ商店の山下浩希さん(左)と染野屋の小野篤人さん=山下さん提供

「染野屋を豆腐店を継ぐ輩(やから)の養成所にする」。小野さんは、後継者難で廃業せざるを得なくなった各地の豆腐店の事業を引き継ぎ、自社で移動販売のノウハウを身につけた社員たちに経営させる構想を温めていた。染野屋の色に塗り替えるのではなく、屋号を残し、あくまで「継ぐ」という形にする。その第1号が、山下ミツ商店だった。

従業員の雇用を守ること、吸収合併ではなく会社として存続させ、山下ミツ商店の看板も残すこと。株式の譲渡額も含めて、山下さんの要望の多くを小野さんは受け入れた。

「今日から山下ミツ商店の一員です」

2021年9月30日、株式譲渡の成約式を白山市の山下ミツ商店で開いた。山下さんと小野さんの2人が契約書に署名し、M&Aが成立した。

人生の節目となるその日、山下さんはあがっていた。署名に続く自分のあいさつは思っていたことの半分しか言えなかったし、あいさつの終わりに小野さんら染野屋幹部に渡すつもりだった山下ミツ商店のバッジもポケットに入れたまま、席に戻ってしまった。

式典の最後、自分に花束を渡す小野さんに「これを受け取ってもらえませんか」とバッジを差し出すと、小野さんら染野屋幹部の全員がその場でケースからバッジを取り出し、それぞれ胸につけた。

山下ミツ商店のバッジ
山下ミツ商店のバッジ

「今日から山下ミツ商店の一員です」。予想していなかった展開に、山下さんは涙があふれそうになった。

山下さんは「自分は運が良かった」と考えている。親しい経営者仲間がM&Aという方法に気づかせてくれた。なにより意中の染野屋の小野さんに事業を引き継いでもらうことができた。

山下ミツ商店の株式譲渡成約式を終え、花束を受け取った山下浩希さん(前列右から2人目)と染野屋の小野篤人さん(同3人目)。背後には祖母ミツさんの肖像が掲げられた=本人提供
山下ミツ商店の株式譲渡成約式を終え、花束を受け取った山下浩希さん(前列右から2人目)と染野屋の小野篤人さん(同3人目)。背後には祖母ミツさんの肖像が掲げられた=本人提供

さみしいという感情はない。「これから本当に会社らしくなっていく。絶対に成功させたい」。新しいスタートラインについたと感じている。

(初出:毎日新聞「経済プレミア」2021年12月7日~12月21日)

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