佐賀のたまり場つくり人、ゲストハウス山秀朗オーナー・藤田健臣さん
佐賀市富士町にある耕作放棄地を活用し、2カ月先まで予約の取れないキャンプ場「むおんきゃんぷ」として生まれ変わらせてしまった。来場者に休息の場所はもちろん、思い出を提供する「ゲストハウス山秀朗(さんしゅうろう)」のオーナーでもある藤田健臣さん(66)の仕事だ。
くしゃっと笑う笑顔にだまされてはいけない。高校卒業後に九州電力に入社、火力発電のタービン建屋の設計など手掛けてきたバリバリのキャリアを持つ1級建築士である。
使われていない山を活用したキャンプ場プロジェクトは、地元の活性化に向け期待を集める「渦中の存在」。藤田さんは地元住民の要望を受け、次なるキャンプ場づくりにも着手し、さらにテントサウナ事業にまでビジネスの幅を広げている。
人が「集まる場」をたくさんつくってきた藤田さんの原動力とは一体、何なのだろうか。
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始まり:仲間と集まる山小屋を作りたい
――(山本)最初に、藤田さんの経歴を教えてください。
(藤田)佐賀市富士町(旧佐賀郡富士町)の出身で、ゲストハウスのオーナーをしています。中学校まで富士町にいたんですが、高校からは佐賀市内で下宿。小さい頃から自宅近くにあった古い水力発電所が大好きで「いつかこんな建物を建ててみたい」と思っていたし、おやじは宮大工をしていまして、その影響もあって、高校は工業学校の建築学科に進みました。卒業後は九州電力で発電所の計画・設計・発注作業や、建築系の営業の仕事をしていました。
56歳で早期退社をしまして、富士町でCafé山秀朗をオープン。現在はゲストハウス山秀朗や1日1組限定のキャンプ場むおんきゃんぷなどの運営を行いながら、地元建設会社で1級建築士としての資格を使って仕事をしています。
――ゲストハウス山秀朗は、いつごろ建てたんですか?
(藤田)九州電力で働いていた30歳の頃だったかな、僕は会社の山岳部に所属していました。毎週のようにいろんな山に登り、いろんな山小屋に泊まっていました。そんな時期に山岳部の仲間と「自分たちの山小屋がほしいよね」と語らうようになり、建築士としても「山小屋の設計してみたい」という思いもあったので、図面を書き始めたのが始まりでした。
しかし、建築費用はありませんでしたので、「山小屋のメンバーになってください」と営業活動をしたんです。今でいうクラウドファンディングですかね(笑い)。山岳部の仲間はもちろん、行きつけのスナックのママや地元放送局のアナウンサー、それに九州電力に出入りしている保険のおばちゃんにまで。「保険に入るけん、山小屋のメンバーになって」と声をかけました。なんとか22人の支援者が集まり、総額660万円を集めることができ、山小屋建築を始めました。
――実際に、自分たちで建物を建てるのは大変ではありませんでしたか?
(藤田)毎週末、仲間が現地に集まりテントを張りながら、山林の伐採作業から一つ一つ自分たちで考えて作っていきました。やっていることは大変だったんですが、全然苦ではなかったです。
今思ったらよくやったなと思いますよね。例えば、水の確保の時なんて、タンクを作って、山から水を引いて、ろ過装置を作って「これでほんとに飲めるのか」って疑問に思うぐらい、水が濁っていました。結局、風呂の水ぐらいにしか使えませんでした。
すべてのことがトライ&エラーというか、エラー・エラー・エラーです。それでも全部楽しかった。
設計から5年、着工から1年後の35歳の頃、山岳部の仲間が集まれる山小屋が完成しました。当時を振り返ると、大変さはありました。だけど自分で設計したものが形になる喜びと、一緒に苦楽を共にした仲間の笑顔を見ているとうれしくてたまりませんでしたね。
転機:死を近くに感じるから、毎日を楽しんで生きていたい
――その山小屋をCafé山秀朗に生まれ変わらせたきっかけとは、一体なんだったんですか?
(藤田)家族の死と、震災ボランティアです。僕が55歳の頃でした。2011年12月、事故で母が亡くなって、2カ月後に弟が心臓発作で亡くなりました。家族が急に2人もいなくなったことで、「もうなにもしたくない」ってなんとなく僕の覇気がなくなったというか、やる気がなくなってしまいました。その頃から特に、死について考えるようになりました。
「自分はいくつまで生きられるんだろうな」と。だって弟はまだ51歳だったから。家族の不幸がきっかけで18歳から勤めていた九州電力を早期退社しました。
――早期退社後は、震災のボランティアに行ったんですか?
(藤田)震災から1年半がたった頃、山岳競技のつながりで岩手県の大船渡市にボランティアに行くことにしました。当時の大船渡市はまだ震災の爪痕が色濃くありました。僕は震災にあわれた方々と一緒にハイキングをするボランティアをさせていただきました。
仮設住宅で1人暮らしの方々に気分転換をしてもらうことが目的でした。僕もボランティア通じてサラリーマン時代のアカが落ちていくような感覚がありましたね。そんな生活を1カ月ぐらい続けました。
日中はボランティアを行い、夜は、居酒屋や喫茶店など仮設住宅近くにあるたまり場によく行っていました。そこには地元住民やボランティアスタッフ、行政職員、これから仕事を復活させようと頑張っている地元事業者の方が同じ空間にいたんです。そんなみんなが集まる「たまり場」が僕にとって妙に落ち着く場所だと気づきました。
そこで決めたんです。「いろんな人がしゃべれる『たまり場』を作りたい」と。富士町に戻り、山小屋を飲食店に改修するため手を加え始めました。
岩手県から戻って4カ月がたった頃、山小屋はCafé山秀朗として生まれ変わりました。3年ぐらいはカフェ運営、その後はゲストハウスに形態を変えました。
その場所に行けば誰かと知り合える。ゲストハウス山秀朗もたまり場、元地域おこし協力隊の山本卓くん(筆者)と一緒に作ったコワーキングスペース「音無てらす」もたまり場、キャンプ場もたまり場。ぜんぶたまり場。それを今たくさん作っている感じですね。
――人が集まる空間っていいですよね。藤田さんの人生の中で最高な瞬間っていつでした?
(藤田)最高の瞬間が日々更新され続けている感じです。山小屋が完成した時、コワーキングスペースが完成した時、キャンプ場が完成した時。やっぱり建設系の仕事だから、自分で設計したものが完成していくことが、何より幸せに感じるんだと思います。これは建築士の特権だと思います。
――今いろんなプロジェクトを動かしている藤田さんの原動力とは一体なんでしょうか?
(藤田)僕はね、毎日思うことがあるんです。今日(取材は9月中旬)だってヒグラシが鳴いているでしょ。「このヒグラシの鳴き声をあと何回聞くことができるだろう」とか。「桜はあと何回見られるんだろう」とか。
命の限界をいつも感じています。だからこそ、動ける体があるうちは、なんか楽しんでいたい。それが、新しいことに挑戦し続ける原動力になっているんだと思います。
原動力:人が喜んでいる姿を見るのが好きだから、なんでもしてあげたくなる
――山の中で接客業をするために、大切にしていることってありますか?
(藤田)やはり山って不便でしょ。不便のなかで楽しんでもらうために、相手のことを理解しないといけない。相手がいて自分がいる。山で生きるってチームプレーが大切だと思っています。
だから相手に対して、「これをしたら喜ぶかも」をいつも考えています。ゲストハウスに来られるお客さんで「そうめん流しをしたいです」という要望が夏の時期には多いんです。
それに合わせて山に行き、竹を切ってきて、そうめん流しの台を準備してあげたりしています。子供がいたら花火をプレゼントしたり、男性のお客さんには佐賀の地酒を差し入れしたり、全然、売り上げにつながらないことばかりしちゃって。お客さんから「おもてなしがすごいですね」とよく言われるんです。
――そこまでやられるんですね。おもてなしの精神がすごすぎます。
(藤田)おもてなしの精神はおばあちゃんの影響だと思うんです。僕はね、おばあちゃん子で、小学生の頃、おばあちゃんが営んでいた駄菓子屋に学校帰りの子供たちが集まっていました。
お菓子を食べて笑ったり、遊んだりしている様子をおばあちゃんはいつもニコニコ見ていました。お菓子を売っていたというか、あげていた感じだったかな。
おばあちゃんは「子供を笑顔するための駄菓子屋」をやっていたように思います。子供たちと笑っているおばあちゃんの姿を見て、僕もとてもうれしかったことを覚えています。
あれが僕の原点だったのかもしれない。相手にいろんなことをしてあげて、喜んでもらいたい。あの幸せな時間と空間を作りたい。そう思って今も仕事をしているだと思います。
地方で仕事をする:「遊び」に変わるまで頑張る
――地方の田舎で仕事したいと考える方々が増えてきています。どうすれば田舎で仕事をしながら、生きていけるようになると思いますか?
(藤田)今やりたいことができているのは、1級建築士としての資格を持っているからだと思います。早期退社した頃は「これから先やりたいこと」が見当たりませんでした。
いろんな出会いの中で、自分の本当にやりたいことが見つかりました。仕事をして生きるためには、資金の確保は絶対に必要です。ぜいたくをしなければ食べていけるぐらいのお金をどこで稼ぐのか。そしてやりたいことを仕事にするためにはどうすればいいのか。いくつか仕事や資格を持っておくことが大切なのかもしれません。この歳になったからこそ自分がやりたくない仕事は、必然的にしなくなってきています。
田舎でやりたい仕事をするって、たぶんしっかりとした収入のベースがあることが大切だと思う。僕は「喫茶店で稼がなきゃいけない」とか、「ゲストハウスで稼がないといけない」とかあまり欲がありません。それはこの年になったからこそできることかもしれない。若い人が田舎に来て生活するって本当に難しいと思うね。だから山の中で生活するのであれば、いくつか収入源を持つことが大切だと思う。
――山の中でゲストハウスやキャンプ場などで、お客様と直接やり取りをするお仕事。藤田さん自身、「仕事」をどう捉えていますか?
(藤田)今の仕事は仕事じゃないですね。自分が楽しんでいるだけで、きちんとした収入になっていない。仕事が遊びで、遊びが収入につながる。そうなるまで、まだまだ頑張らないといけないですね。
たぶん、僕はわがままなんです。みんなが集まる場所ができたたことで、来てくれた人を純粋に楽しませているわけじゃなくて、自分自身を楽しませています。
場所があることが僕にとって大きいことです。だって場所があるって自分軸に引き込めるでしょ。向こうの土俵に出向いていくのは大変だけど、僕の仕事や活動に興味のある人が自分の縄張りに集まってくれる。ゲストハウスもカフェも商売しているわけでもないし。自分がやっていることに興味を持ってくれている人が来てくれたら楽じゃない。
自分も楽しいし、来てくれたお客様との出会いから、新しい何かが生まれ、次につながっていく。それが大きな仕事に成長したらうれしいよね。
アドバイス:地元の人とつながることから始めてみて
――最後まで読んでくださった読者の方へメッセージをお願いします。
(藤田)最近、移住や地方でビジネスをするってよく聞きます。すべてのことには「相手」がいます。まずは移住やビジネスを始める前に、地元の人とつながることから始めてみてください。
全員が協力者になるわけではないですが、波長が合う人、協力者が自然に出てくると思います。まずはコミュニケーションです。
そして移住をすることを重たく考えすぎないでいいと思います。何かあったら羽が生えたようにポッと出て行くぐらいの気軽さがあっていいと思います。僕も「固執しないようにしよう」って家内と話をしていますしね。
その土地にいる間は100%頑張る。頑張ってダメだったら引っ越す。それでいいと思いますよ。
――これからの人生の最終目標は?
(藤田)いつも今日が人生最後の日と考え、自分を楽しませていこうと思います。夢は、1日1組限定のおもてなし旅館を作りたい。温泉とか掘り当てられないかなって妄想して、楽しんでいます。
▼ Refalover(リファラバ)とは?