なんだかよく分かんないけど、なんだかとっても好き
『ぼくのなつやすみ』というゲームがある。
叔父の家に預けられた主人公・ボク君を操作しながら夏休みを目一杯満喫するゲームだ。
今ぐらいの時期になると、YouTubeなんかにゲーム実況動画が増えてくる。
シリーズは全部で4作あるのだが、私は子どもの頃に2作目をプレイした。
2作目には芳花というお姉ちゃんが登場する。芳花ねえちゃんは元気で明るい美人さんで、叔母が切り盛りする民宿に泊まりにきたお客さんだ。
芳花ねえちゃんとボクとで交わされる会話で、子どもの頃からなんとなく好きなシーンがある。
民宿の台所に立つ芳花ねえちゃんに声をかけると
「キュウリ食べる?」
と、今まさに芳花ねえちゃんが切っていたであろうキュウリを差し出してくれる。
すると画面に表示される
▶はい ・ いいえ
ここで『いいえ』を選択すると会話が終了してしまうので、ここは迷わず『はい』。
ボク「うん」
(シャクシャクシャク)
ボク「おいしいね」
もう一度芳花ねえちゃんに話しかける。
芳香「キュウリ、もうちょっと食べる?」▶はい ・ いいえ
『はい』
ボク「うん」
(シャクシャクシャク)
ボク「やっぱり おいしいね」
これだけ。
芳花ねえちゃんが台所に立つのは一度きりではないから「見逃した!」と悔しがることもないし、この会話を見なくてもストーリーは滞りなく進む。
それに、2回目以降の「キュウリ、もっと食べる?」「やっぱり おいしいね」は無限ループだ。
これといった意味はないのだけれど、でもなんかいい。
自分が昭和生まれだったら、こういうシーンにノスタルジーを感じるのかもしれない。
自分が男だったら、子どもの頃に年上のお姉さんに食べ物をもらうっていうのが、とても素敵でドキドキするイベントに感じたかもしれない。
しかし、昭和生まれでもなく男でもない私が、なぜこのシーンにこんなにも惹かれるのか。
今見ると、ぼくなつって昭和生まれじゃなくても「懐かしい」と感じられるような要素が散りばめられていることが分かる。
1ヶ月もある夏休みそのものがとても懐かしく、恋しく感じたりするし、子どもならではの視点にハッとさせられたり、子どもって残酷だなって思ったりもする。
でも、子どもの頃はそんなことはまったく気にせず、ただ純粋にゲームを楽しんでいたと思う。
私は子どもの頃から収集癖があったので、昆虫採集に夢中になった。
夢中になりすぎて、しょっちゅう絵日記は「何もない一日」になった。
私は、夏休みを過ごせるのがただただ楽しくて、何度も夏休みを繰り返した。
今だったら、イベントを逃して悔しい~!とかなりそうなもんだけど、当時はそんなことお構いなし。
ただひたすらに昆虫採集にいそしんだ。
ゲーム実況動画なんかを見ていると、子どもの頃は怖くて話しかけなかったおじさんが実はなかなか良いキャラだったり、おじいちゃんキャラの言葉が妙に沁みたりするので、やっぱり『ぼくなつ』のストーリーをしっかり楽しめるのは大人になってからだなぁと思う。
今プレイしたら、随所でめちゃくちゃ泣いてしまうかも。
とはいえ、前述のキュウリのくだりは、特別泣けることもなければ笑えるシーンでもない。
それでも、なんとなく「いいな」と思える不思議。
何がどう良いのか、全然上手く説明できないけど、夏にキュウリを見るといつも思い出す会話。
好きな理由を言語化してみたいなと思って書き始めたけど、なんかもう、言語化できなくても良いなと思い始めた。言葉にしてしまうと、途端に安っぽくなってしまいそうだ。
「なんか好き」それで良いや。
夏はやっぱりキュウリだな。
浅漬け大好き。なんか好き。
今週から #なんのはなしですか の回収が再開しているということで。コニシさん、おかえりなさいです。ゆっくり休めたでしょうか。(久々の投稿を拝読するに、お休みできたっぽいなと勝手に思っております。)
ついでなので、私が先週ひっそり投稿した #なんのはなしですか も置いておきます。よしなに。