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高松城を再再々訪問。 松平家が城内に砂糖の神様 向良神(こうらじん)を祀った場所を聞きに行った結果は(3度目)? 讃岐和三盆の祖 向山周慶と関良介を祀る神社は2ヶ所ある⁉︎

2025年1月1日

おはようございます。

トリリンガル讃岐PRオフィサーのモリヨシナリです。

本日は、香川県高松市にある高松城跡地にある玉藻公園の管理事務所を訪問してきました。

高松城(別名: 玉藻城)を訪問




江戸時代、砂糖、塩、木綿の讃岐三白は讃岐の財政を支えた。


その内、長年の苦難の末に白砂糖の製法を編み出した向山周慶(さきやましゅうけい)と関良介(せきりょうすけ)は、亡くなった後も、高松藩 松平家によって砂糖の神様 向良神(こうらじん)として高松城内に祀られた(高松市松島町にある向良神社の案内板)。

白砂糖は大阪に売られ、高松藩に莫大な財源をもたらし財政難を救った。

東かがわ市黒羽(くれは)にあった瀬戸内寂聴さんの父方の三谷家、笠置シヅ子さんの実父の三谷家は江戸時代から代々、製糖業を営み一時期、莫大な財産を築いた。

今も三谷製糖が伝統の製法で和三盆を作っている。山下清「裸の大将」のテレビドラマにも三谷製糖は登場する。




🔹松島町にある向良神社訪問。向山周慶と関良介がいかにして出会い、白砂糖の製法を編み出したか? 感動秘話‼️



本日、2025年1月1日に高松城を訪れ、高松城内のどこに向良神として祀っていたのか質問した。これで、この質問をするのは3度目となる。

しかし、今回も答えは分からなかった。

これまでの経緯と香川県にとっても向山周慶と関良介は非常に大切な旨を説明した。

高松城の管轄は、高松市役所の文化財課なので、そちらに聞いてほしいとのことだった。


市役所の休みが明けたら、電話して尋ねてみることにする。


文化財課
高松市番町一丁目8番15号本庁舎7階
電話:087-839-2660



高松城内に祀られた、と案内板にあるが、屋外ではなく、高松城の城の中で向良神として祀られた可能性もある。屋外で祠を建てて祀られていたとしても、その場所の記録は残っていない可能性が高いだろう。



◼️高松市松島町にある向良(こうら)神社の案内板の内容:


🔹向良神社

祭神 向山周慶(さきやま しゅうけい)・関良介(せき りょうすけ)

祭日 7月14日・15日

神社の由来

今から200年ばかり昔、向山周慶と関良介の二人は30年にあまる年月と幾多の苦労の結果立派な白砂糖をつくった。そのため高松藩はもちろん讃岐の人々は大変恩恵をうけた。 後両名の功労をたたえて、向山周慶の「向」と関良介の「良」を合わせて、「砂糖の神様、向良神」として玉藻城内にお祀りした。明治18年この地にうつしたが、昭和20年7月、戦災で焼失したので氏子たちが力を合わせて再建をはかり32年に本殿、35年に拝殿を完成して祀る。

🔹松島の街通り

松島の街通りは、江戸時代から讃岐五街道の一つで、玉藻城から志度方面に通ずる浜街道または東下道(ひがししもみち)とよばれた。今橋から千代橋までの七丁、御坊川の千代橋を渡って三丁併せて松島十丁と呼んだ。昭和前期には、80余の業態で200軒近い店や旅籠(はたご)が並び、たいへん賑わった町であった。 農耕用器具、種物や苗類、薬品類、日常生活の食料品、荒物、雑貨、下駄から靴まで何でも揃えることができた松島の町並みであった。技術職人用のこて・鋸(のこ)は徳島・大阪方面にも得意先を持っていた。特に松島の唐箕(とうみ)は県内はもとり、遠く北海道から中国・四国方面にも販路が広がっていた。
昭和20年の高松空襲により、西半分は焼失した。東半分は戦災をまぬがれたが、商店街の復活までには数年を要した。



江戸時代、讃岐産の砂糖は最高級品として大坂市場で盛んに取引きされ、最盛期には全体の6割を占めた。それにより、高松藩の財政危機を救うことになった。




◼️東かがわ市にある向良神社、関良介の墓、向山周慶翁生誕地の碑


関良介の墓 東かがわ市湊


向山周慶翁生誕の地 東かがわ市湊


◼️高松城の西側の入り口に、香川県独立の父 中野武営さんの銅像が建っていた。



🔹中野武営さんがいなければ香川県は存在しなかった。



◼️高松城(玉藻城)内から見た琴電。


◼️本丸の石垣。私が子供の頃は、この辺りに松平頼重公の廟があった。


◼️石垣の展望台からの景色。





堀の中は海水がひかれ、鯛やチヌが泳いでいる。



🔹高松市松島町にある向良神社訪問。


🔹笠置シヅ子と瀬戸内寂聴と讃岐和三盆の関係とは?


🔹松浦武四郎、約200年前に19才で四国遍路を廻った北海道の名付け親。 香川と徳島の境にあった碁浦番所で緊張の中、手形の検査を受けた。その際、高祖母の父が手形改めを行なった。



◼️讃岐和三盆とは?

高松藩では、五代藩主松平頼恭の命により、医師 池田玄丈が現在の高松市花園町で、砂糖造りの研究を始めた。

その後弟子の向山周慶(さきやましゅうけい)が後を継ぎ、砂糖キビの栽培および製糖法の研究を進めていた。

あるとき、向山周慶は、お遍路の途中で病気に罹り、行き倒れになっている人を治療して助けた。

この人は薩摩藩奄美大島出身の関良介(せきのりょうすけ)という人で、砂糖造りをしたことがある人だった。

そこで、向山周慶は砂糖造りを教えて欲しいと頼んだところ、関良介は命の恩人の頼みを聞き入れ、藩外へ持ち出し禁止のサトウキビを讃岐地方で育てた。

そしてまず寛政2年(1790年)黒糖を造ることに成功し、寛政11年(1799年)には讃岐の地で初めて白砂糖造りに成功した。

この白砂糖が讃岐和三盆の始まりになる。

高松藩は向山周慶と彼の推薦した砂糖作りの手練れの者1名を指導者として藩内で砂糖製造を広める方針を取り、その指導を求めるものは5人組で藩に届け出るようにと通達した(指導を行うにあたって教える側が向山周慶ともう1名しかいなかったので効率よく多くの者に教授するために5人組としたと言われている)。

その際に伝授を希望する5人の百姓の名前と村名を書いた文書を自分の村の管轄の政所(庄屋)に提出するようにというお触れを出した。

この届出に「門外不出を守ります」と誓文を付け加えている例があるが、この誓文は飽くまで形式上のものであり、高松藩の政策は製法を広めるというものであり、門外不出は藩からの指示ではなく教授を願う側(5人組)が請願書を書くに際して自ら使用した言わば挨拶程度のものに過ぎない。

つまりは砂糖の製法を高松藩が当初から門外不出としたとする説は明らかな誤りであり、むしろ高松藩ではこの砂糖の製法を藩内に出来るだけ広めて砂糖を藩外輸出品とする目的があった。

その証明ともいえる事柄として砂糖の生産農家が高松藩では増え過ぎてしまい、20年後には米の生産が不足すると言う事態となり、慌てた高松藩は以降は砂糖農家になることを禁ずると触れを出している。

当初の砂糖製法の伝授を希望する者は5人組で請願書を出すようにという藩からの通達に応じて政所に出したものと思われる文書が三谷製糖に残っている(奉願口上で始まるもの)。

この三谷製糖に残っているような文書が藩内の至る村から5人連署で藩に出されたものである。

その後、文化5年(1808年)引田相生南野村の糖業家であった新兵衛によって「押船・かい練り法」が編み出され、白砂糖から「三盆白」となった。

そして天保11年(1840年)、久米富士太郎なる人物により「セッカイ製法」とよばれる製法が確立され、現在に至る和三盆が完成した。


◼️讃岐三白とは?


香川県の気候は瀬戸内海式気候であり、降水量が少ない。

また大きな河川もないため、しばしば旱魃に見舞われた。そのため米だけでは年貢を賄いきれず、高松藩はしばしば財政難に陥った。

江戸時代中期には特に享保の大飢饉、天明の大飢饉、天保の大飢饉と飢饉が続き、米の収量が激減したため藩財政は借入金によってなんとか耐え凌いでいる状況であった。

そこで商品作物として降水量の少なく温暖な気候に適した砂糖や綿花を栽培するようになった。


🔹砂糖の生産

高松藩5代藩主松平頼恭は困窮する藩財政の立て直しのため、栽培に多くの水を必要とせず、かつ当時稀少であった砂糖に目をつけた。

そこで藩医であった池田玄丈にサトウキビの栽培についての研究を命じた。

玄丈は東浜村(現在の高松市花園町)の花畑でサトウキビ栽培を始めたが、研究の途中で病に倒れ亡くなった。

弟子の東かがわ市湊出身の向山周慶(さきやましゅうけい)はこの研究を引き継ぎ、薩摩藩の奄美大島からお遍路に来ていた関良介の協力を得て、1790年に白砂糖の生産に成功した。

その後文政期から天保期にかけて飢饉により砂糖の生産は一時停滞したが、1835年に糖業の保護政策が行われたことにより再び盛んになった。

最盛期には日本国内の砂糖の8割が高松藩で生産されるようになり、幕末には巨万の富が築かれた。

これを正月の祝いとして食べるようになったのが餡餅雑煮であるとされている。

明治以降甘蔗栽培製造保護法が廃止され、外国産砂糖が流入したため讃岐の糖業は衰退したが、現在でも和三盆として東かがわ市において伝統的な製法を用いた砂糖の生産が続けられている。

讃州井筒屋敷では和三盆の型抜き体験ができる。


🔹塩の生産

1824年、東かがわ市馬宿出身の久米通賢は、困窮の続く藩財政の立て直しのため、高松藩9代藩主松平頼恕に阿野郡坂出での塩田開発を進言した。

1826年、頼恕は反対論を押し切り工事の実施を決定。

通賢は私財をなげうって塩田開発に尽力し、1829年に坂出塩田の開墾に成功、1832年に完成した。

通賢の塩田は当時の入浜式塩田の模範と呼ばれた。

また宇多津においては、塩田の開発は1744年より行われていたものの、本格的に塩田を使った塩の生産が行われるようになったのは明治以降であった。

しかし1970年代に登場したイオン交換膜法により塩田は存在意義を失い、宇多津臨海公園に保存されているもののみ残っている。


🔹綿の生産

讃岐に綿の生産を伝えたのは関谷兵衛国貞で1532年のことと伝えられている。

豊浜で綿の栽培が盛んになったのは幕末以降である。

明治以降安価な輸入の綿に押されて豊浜での栽培は衰退し、現在は営利目的での栽培は行われていないが、観音寺市内にはワタの花を見ることができるスポットがある。

また綿業が盛んだったことから市内には現在でも布団店が多くある。



🔹2025/1/10記事。向良神社創建の背景が判明した。



以上

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