他人に苛立つ本質はどこにあるのか
自分以外の人間に対して、苛立ちを覚えたことがない人はいませんよね。
苛立ちの度合い、その表し方は人それぞれで異なります。
手が出る人(ちょっとオーバーですが)、怒鳴り散らす人、黙り込む人、泣く人…etc
「とにかく心が不快である。」という共通認識以外は千差万別ですね。
個人的に言ってしまうと、声をすぐ荒げる人や、怒鳴る方においては、人格を疑ってしまいます。もちろん筆者も完ぺきな人間ではないので、過去に怒鳴ったり、声を荒げたりしていたこともありますが、ここでは棚に上げさせてください。
ただいつの頃だったか、とても些細な事でしたが、涙が出るほどハッとさせられたことがあってからは、「苛立ちの本質。」というものを考えるようになりました。
きっかけは今よりもまだ幼かった子供との一幕でした。
当時、子供の就寝時間はきっかり21時と決めていました。21時には絶対に布団に入れるようにと。
別に21時に何かあるわけではありません。ただ、子供は21時には寝かせなくてはいけない。という考えのもとに成り立っていた我が家の決め事です。
当時、ひとり親だったこともあり、仕事が終われば実家に子供を迎えにいき、自宅には寝に帰るだけ。というようなスタイルでした。(ご飯やお風呂などは実家で終えている)
仕事がとても忙しく、帰宅時間が深夜0時を回ることもよくあったので、実家に泊まることも多かったです。実家のおばあちゃん(筆者の母)も、21時は寝かせたいという意見には賛同していたので、おおむねそのような動きになるように時間配分を考えて、代わりに子育てをしてくれていたことでしょう。もちろん実際に私が一緒にいるわけではないので、本当に21時に就寝していたかは分かりませんが。
21時までに実家ではなく、自宅で寝かせることができるぐらいの時間にお迎えができた日には、21時までに全ての準備を終わらせ寝かせる。そこからが家事や自分自身の時間。
起床時間は当時、毎朝早朝5時頃だっただろうか。そこから逆算して考える。起きるのが5時だから○○時までには寝たい。その時間に寝るために○○時までにあれをやって、○○時までにこれをやって。
子供が布団に入るまでの間、常に脳内はそういったスケジュール管理のようなタスクがループしている。
その結果、とにかく急いで!早く準備して!どうして今そんなことしているの?と声を荒げながら言うことが口癖のようになり、内容によっては怒鳴ることもあった。
子供の寝顔を見て、罪悪感を感じながら家事をする。そんなこともよくある日常になっていたある日の21時少し前。
その日も例外なく、いつものように荒げた声で口癖が飛び交う。
そして子供は21時に布団へ入りおやすみと言う。
そう。それでいつもの一日が終わる。…はずだった。
「どうして21時なの…?21時になにがあるの?どうしていつも早くするの?
21時に寝てない子だっているよ?起きていていい時間が増えたらママとも遊べるのに」
その時の顔が、今でも忘れられないのです。寂しそうに少しはにかんだ顔が。
投げかけられたその問いの返事を考えるより前に、涙が出る方が圧勝していたのです。
と、まあ。
苛立ちの本質。というものを考えるようになったきっかけをお話しましたが、子育てブログになりそうなのでこの辺で本題へ。
要は何がいいたいのか?
なぜあんなにも苛立っていたのだろうか。
21時に寝かせないといけないから?もちろん遅すぎるのは問題だが、なぜそこまで頑なに守る必要があったのか?子供の言うように、21時にいったい何があるのだろう。
子供の成長のために絶対早く寝かせたほうがいい。もちろんそれも本心だ。
21時に寝かせて、そこから家事をやり、自分のことをやる。
頭の中にはさんざん組み立てていたスケジュールがある。
そうだ。私は、自分の描いていた(理想としていた、望んでいた)通りに事が運ばないことがたまらなく許せなかった(嫌だった、不快だった)のではないか。
寝る時間が21時より遅れれば、当然私の組み立てていた完ぺきなスケジュールもずれ込み、結果睡眠時間も削られてしまう。
極端に言えば、自分の思い通りにならないから苛立っているのだ。
子供は、わざと遅く準備をしていただろうか?
21時に寝ることを嫌がっただろうか?
いや。そんなことはなかった。
普通に準備をしているのに早くと急かされ、怒られ、そしてその明確な理由は分からないまま。
そんな積み重ねが、子供なのかで少しずつ疑問へと変わり、もっと起きていれればママと遊べるのに。という寂しさからくる本音となって姿を現したのだと思った。
これが大きなきっかけとなり、少しずつ考え方も変わり、苛立ちの本質をよく考えるようになりました。
面白いことに、これって、仕事でもほとんど同じだと思います。
社会に出ると、よく声を荒げたり、怒鳴ったり、電話態度が悪かったり、なんて場面をよく見ますよね。
たとえば、上司が人前で部下を怒鳴っている。その理由って何なのでしょうか。
よくある理由にしても、稀な理由だったとしても、要するに、
「自分の描いていた(理想としていた、望んでいた)通りに動かなかった」
これが本質なのではないでしょうか。
でもきっと怒鳴られた部下からすれば、その時はそれが正しいと思ってやった結果でしょうし、ましてや、「怒鳴った上司を不快にしてやろう、望んでいるのとは反対のことをしてやろう」なんてことは考えていないはずなのです。※稀なケースを除いては
そもそも、仕事でもなんでも、何事もなく全て思い通りにいくはずなんてないですよね。
だって自分ではない人間の考えなんてエスパーでもない限り分からないのですから。
実の子供だって分からないのですから。
さて、話がややこしくなりましたが、人が苛立つことの本質は、その大半が自分の思い通りにならないからという人間の身勝手である心理からきている。というお話です。
苛立った時、いつも、いったん考えてみます。
例えばきっかけとなった子供との内容の時は、「なぜ21時にこだわる必要があるのだろう?
確かに早く寝かせて成長を促すのは子供にとってなにより大事だが、果たしてそれを守らなかった日があったとしても、別に何かあるわけでも、死ぬわけでもない。」
結局自分の都合でしかないじゃないか…と。
その分10分でも、いや、5分でもいいから寝る前に子供と話をすれば、その10分、5分多く寝ていた時よりも、もっといい効果があったのではないか…と。
これ、苛立っているときはもちろん難しいですけど、冷静にその苛立ちの本質を考えるように意識づけすると、確実に以前より沸点は下がります。
そして沸点が下がると、確実に周りとの関係に変化が生まれます。
だまされたと思って、意識づけをやってみると、価値観そのものも変わってくるのです。
そしてその意識づけがされてくると、人前で怒鳴っている人や、声を荒げている人が可哀想に思えてきたりもします。
もちろんこれまでに述べてきたことが、全ての事柄に当てはまるとは思っていません。
ですが、私たちが思っている以上に苛立ちの本質というものは、
「自分の思い通りにならないからという人間の身勝手であるが故の心理からきている」
という事を認識する必要はあるのではないでしょうか。